鬼【ヒトコワ】

紗耶香さやかさん、奥田おくださんのお宅でお昼いただきましょう」

 五歳の娘と家の前の雪かきをしていると、ご近所のひかりさんが声をかけてくれた。

「ありがとうございます!」

 私はスコップを片付けて、ざくざくと雪を踏みしめながら娘と一緒に隣の奥田さんのお宅へ向かう。奥田さんは七十歳を過ぎた女性で、ご主人に先立たれ古い日本家屋に一人で住んでいる。息子さんたちは東京と名古屋で働いているらしい。

「長男は大きな広告代理店、次男は大きな投資会社」

 奥田さんは「大きな」というところをいつも強調する。自慢なのだ。

 先に居間にあがっていた光さんが熱いお茶を出してくれる。ストーブが焚かれていて室内は温かい。

 地方移住支援を受けて東京から引っ越して三か月。村の人たちはみんな良い人で、移住してきて本当に良かったと思っている。都会と違って人との距離は近いが、それは想定の上だ。今はその人間関係も楽しめている。夫は林業の担い手として働き始め、私はもともとやっていたハンドメイドアクセサリーのウェブショップを続けられている。自然は豊かだし、食べ物も美味しい。移住してきて良かったことばかりだ。

 ご近所の光さんは私たち家族より三年早くこの村に移住してきたご夫婦で、移住の先輩としていろいろ教えてくれる。

 居間で光さんとお茶を啜っていると台所から奥田さんの声がする。行くと奥田さんがうどんを茹でていた。

「紗耶香さん、雪かきしてたの? 男手が帰ってくるまで待っていればいいのに」

「そうですね。でも、少しでもやっておこうと思って」

「まあ、そうね。うちの前もやってもらわなきゃいけないから、早いほうがいいか」

 奥田さんの言葉に、移住してすぐだったら少し戸惑っただろう。奥田さんの言う「男手」とは、うちの夫のことなのだから。でも、この村では誰もが全員で一緒に村のことをやる、というのが当たり前なのだ。奥田さんのように高齢の女性が一人暮らしである場合、隣のうちの夫が奥田さんの家の雪かきをすることは当然のことで、それは私が今、奥田さんのお宅でお昼ごはんをごちそうになっていることと同じように、この村では自然なことなのだ。

「ママ~、お腹すいた~」

 娘が台所へ入ってくる。子供の適応力はすごい。東京に住んでいたときは誰かの家で食事をとることなんて全くなかったのに、今では奥田さんのお宅でも自宅のようにくつろいでいる。

「はいはい。もうできるからね」

 奥田さんが答える。その言葉通り、奥田さんがよそった器には、温かい出汁と細めのつるつるしたうどんが輝いている。

「おいしそう~」

 娘と一緒に思わず声をあげる。

「食べましょうかね」

 私は娘と一緒にうどんを居間へ運ぶ。奥田さんと光さんと一緒に、温かい部屋で温かいうどんをいただいて、体がホカホカになった。光さんが先に帰って、少ししてから私たちも奥田さんの家を出る。

 家に着くと、玄関に「出ていけ」と貼り紙がしてあった。私は気にせずそれを破って家へ入る。移住した最初の頃から、こうした貼り紙はあった。最初は戸惑ったし、恐怖もあった。先に移住していた光さんに相談したところ

「最初の半年くらいは、あるのよ。うちにもあったし、ほかへ移住した人も最初は少なからず嫌がらせはあるって言っていたから、どこも同じだと思う。みんな良い人なんだけど、やっぱり変化に慣れるまで時間がかかるのよね。でも、村の仲間なんだってわかってくると、自然と収まってくると思うわ」

 その言葉はとても心強かった。だから、今は多少の貼り紙くらい何とも思わない。にこにこして、この村に馴染むようにしていればいずれ収まることなのだ。

 

 村へ移住してから初めての年越しを迎える大晦日、村の人々が公民館に集まって酒盛りをしていた。夫は林業の関係者の人たちと飲んでいて、私は村の婦人会の人たちと一緒に料理を作ったり運んだりしていた。娘は公民館の前で雪だるまを作っている。この村には子供がいないから、来年から娘は隣町の小学校へ通わせることになる。

「今年の鬼神様おにがみさまさまへの供物くもつは、村で調達できるからありがたい」

 ふっとそんな言葉が聞こえて、私は声のほうを見た。村長と奥田さんが話している。

「鬼神様って何ですか?」

 思わず聞いた。

「紗耶香さんは初めてだね。でもとっても大事な役割をしてもらうからね」

 そういって村長はとても嬉しそうに笑った。

「光栄なことだからね」

 そういって奥田さんも笑った。

「え、何ですか?」

 状況がわからない私に、村長は言った。

「この村では、山に住む鬼神様に供物が必要でね。その中の一つに『子供の髪』というのがあるのだよ。いつもは隣町までもらいに行っていたんだけど、今年は紗耶香さんのところのお嬢さんがいるから、ありがたいねえ」

 私はぞっとした。神様への供物として娘の髪? 気持ち悪い。でも、この村に馴染んで生活していくために、髪の毛くらいで騒いだら生活しにくくなるかもしれない。私は、なんとか笑顔を保ってその場を取り繕った。

 皆の食事が終わった頃、娘は村人に囲まれて、公民館の真ん中でパイプ椅子に座らされた。つやつやの長い黒髪の2~3本、先端ほんの1センチを、村長が丁寧に切り落とした。それを真っ白い紙に包む。村人たちが「ほお……」とため息をつき、手を合わせて祈った。私は、思っていたほど仰々しくもないその行為に、正直拍子抜けした。もっと長く髪を切られて儀式めいたことをされると思っていたから、安心もした。この程度の風習なら、受け入れられると思った。

「本当にありがとうね。光さんがお子さんを産んでくれることを村のみんなで期待して待っていたんだけどね。その前に紗耶香さんがお嬢さんを連れて移住してきてくれたから、村のみんなは大喜びだよ。紗耶香さんはピンとこないかもしれないけれど、村の子供から鬼神様へ供物を差し上げられることは、村人にとって本当に幸せなことなんだよ」

 奥田さんが声をかけてくる。

「そうなんですね。でも、どうして娘の髪の毛なんでしょう」

「鬼神様は、女性の神様でね。自分の子供を亡くした悲しみで鬼になってしまった悲しい神様なんだ。だから、年に一度子供の髪の毛を献上して、ご機嫌を伺うのだよ。この村の子供からの供物なら、きっといつも以上に鬼神様はお喜びになる。本当にありがとうね」

 そこまで感謝されることをしたつもりはなかったが、喜んでもらえたなら良かったと思った。

 それからというもの、村の人々は何かと我が家へ良くしてくれることが増えた。村人の信頼を得たのか、野菜をおすそ分けしてもらったり、食事をごちそうになったり、林業の現場でも夫は好待遇で働かせてもらえているようで、私はお正月の「供物」を断らなくて良かったと思った。こういうことが、村に馴染むということなのだろうと思った。供物を提供する娘本人も村の人々からとても可愛がられた。

 それでも、我が家への嫌がらせの貼り紙は終わらなかった。都会から来た私たちにまだ拒否感を持っている人はいるもかもしれない。それは、閉鎖的な村の中で仕方のないことのように思えた。奥田さんも光さんも「気にすることない」と言ってくれるので、いつか終わるだろうと思って気にせずにいた。

 

 春が過ぎ、梅雨が明け、短い夏が始まる頃、嫌がらせはエスカレートしていた。貼り紙にとどまらず、玄関の前にネズミの死骸があったり、五寸釘と藁人形がおいてあったりして、さすがに気分が悪いと思った。普段良くしてくれる村人たちの中にこれをやっている人がいると思うと、余計に怖い気がした。

 この村では珍しいほど暑い日、娘と一緒に川遊びをしていた。存分に水遊びを楽しんでから家へ帰る。すると自宅の前に誰かいる。周囲を伺うようにして、我が家の玄関に貼り紙をしていた。いよいよ現行犯を発見したのだ。

「ちょっと! あなた!」

 声をかけると、玄関前にいた人物が振り返った。それは、光さんだった。見られたことに対する驚きと、憎悪に満ちた表情、それはまさに鬼の形相だった。

「光……さん……?」

「見つかっちゃったわね」

「何してるんですか……」

 光さんは、突然地面から石を拾って思い切り投げつけてきた。私は慌てて娘をかばう。私の頭をかすって石は勢いよく飛んでいく。

「うちに子供がいないからって!」

 光さんが大きな声を出した。

「あんたの家ばっかりもてはやされて、胸糞悪いんだよ!」

 聞いたことのないような罵声だった。

「出ていけ、出ていけ! この村から出ていけ! 私の居場所を奪うな!」

 大きな声を出して駆け寄ってくる光さんは、手に鎌を持っていた。恐怖に叫びながら、娘と一緒に走って逃げる。足場が悪くてうまく走れない。娘がつまずいて転ぶ。危ない。追い付かれてしまう。私は覆いかぶさるようにして娘をかばった。次の瞬間、ズドンっと体を震わすような振動が鼓膜に響いた。

「大丈夫かい!」

 奥田さんの声だった。顔をあげると、奥田さんと村長がいた。私は目を疑った。村長が猟銃を構えているのだ。振り向いて光さんを見ると、胸を真っ赤に染めて倒れている。

「光さん!」

 私は慌てて立ち上がる。

「いいんだ!」

 厳しい声で制したのは村長だった。

「夏祭りには、子供のいない女の供物が必要だった。ちょうど良かった」

 私は背中に冷たい汗が流れた。子供のいない女の供物? まさか……と思ったと同時に、足元から言いようのない多幸感が立ち上ってきた。思わずしゃがみこんで娘を抱きしめる。

「鬼神様が守ってくださった。鬼神様が守ってくださった」

 娘を抱きしめながら、興奮に体が震えた。供物のおかげだ。鬼神様が私たち家族を守ってくださった。この村で生きていける。鬼神様に認めていただいた。

 倒れてぴくりとも動かなくなった光さんを見て、私は憐れに思った。でも、鬼神様の供物になれるのなら幸せなのかもしれない、と目を細めた。蝉が短い夏を惜しむように鳴いていた。


 


【おわり】

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