僕のお父さん【ヒューマン】
「もっと肩の力を抜け。ガードをあげて、ジャブジャブ、そう。いいぞ」
僕は部屋でお父さんにボクシングを教わる。軽くステップしながらシャドーボクシング。ワンツーワンツー、一歩踏み込んで左フック。お父さんの声が僕の動作に重なる。僕の汗が弾ける。お父さんもシャドーボクシングをする。僕はお父さんの姿をよく見て真似をする。お父さんのパンチは速い。ステップが軽い。シュッシュッシュと言いながら繰り出される手数の多さ。力強さとスピード。現役のときから全然衰えていない。
「休憩だ」
お父さんに言われて、僕は汗だくの体を床に横たえる。はあはあと胸を大きく上下させて呼吸をして、天井を眺める。
「お父さん、この前、死んじゃえなんて言ってごめん」
天井を見つめたまま言った。お父さんはどんなに動いても汗をかかない。
「お父さんこそ、もう死んじゃっていて、すまんな」
拭っても湧き出してくる汗が目に入ってしみた。
お父さんが死んだのは、僕が生まれてすぐだったそうだ。原因は胃の病気。それからお父さんは幽霊になって今も一緒に暮らしている。一応家にお仏壇はあるけれど、実際のお父さんは幽霊になって一緒にいる。
僕は小さい頃、お父さんが幽霊であると気付いていなかった。お父さんは透けている。だから、友達のお父さんが透けていなかったときは驚いた。家に帰ってそのことを話すと、「お父さんは実は幽霊なんだ」と教えてくれた。それでやっと、うちだけが特別なんだって理解した。
お父さんは死んでしまったときの姿だから、お母さんのほうがずいぶん年上に見える。お母さんが「お父さんは永遠に三十歳。私ばっかり老けちゃう」と言うたび、お父さんは「お母さんはいくつになってもいつでもかわいいよ」となぐさめている。お母さんは、素知らぬ顔ですねている。
中学校のクラスに“不良”と呼ばれる生徒が数人いる。弱い者いじめをして、街で万引きやカツアゲをしていると噂を聞く。クラスでも被害にあった子がいるらしい。そして放課後、僕も呼び出された。
「明日までに一万用意しろ」
「そんなお金ないよ」
「親の金盗めばいいだろ」
「無理だよ」
「うるせーな!」
不良の一人が突然僕のお腹を殴った。あまりの苦しさに一瞬息が止まる。
「こいつ、母子家庭だから金ねえだろ?」
不良の一人が言った。
「お前、母子家庭なの?」
ボシカテイ? ああ、母親しかいない家のことか。どうだろう。お父さんはいつも家にいる。でも幽霊だから、母子家庭か。
「答えろよ!」
またお腹を殴られた。悔しくて涙が滲む。
「うわ、泣いた」
「キモい」
「金持ってこいよ!」
おのおの僕の悪口を言いながら、不良たちは去って行った。僕は、苦痛と羞恥と悔しさで、しばらく座り込んで動けなかった。
家に帰ると、お母さんはパートに行っていた。お父さんは幽霊だから働けない。お腹がすいたから台所へ行くと、カレーが作ってあった。温めて食べる。
「大丈夫か?」
「うわ!」
背後から突然お父さんに話しかけられて驚いた。幽霊は、足音も気配もない。
「ひどくやられていたな」
僕はスプーンを持つ手が止まる。
「見ていたの!」
「なんでやり返さなかった」
お母さんが「お父さんはどこにいても私たちのことを見守っているのよ」と言っていたけれど、本当だったのか。
「お前がやり返さないから、お父さんは悔しかったぞ」
僕だって悔しかった。あんな奴らにやられっぱなしで。こみ上げる感情に、歯を食いしばる。
「一発殴り返してやればいいんだ」
「うるさいな!」
悔しい気持ちを逆撫でするお父さんに腹が立った。
「そんなこと言うお父さんなんて、死んじゃえ!」
「なんてこと言うんだ!」
「幽霊のくせに!」
お父さんはぐっと黙ると「そうだよ、幽霊だよ」とぼそっと言って、出て行った。その夜は、いつまで経っても眠れなかった。
翌日、また不良たちに呼び出された。
「金持って来ただろうな」
「ないよ」
「なんだと?」
不良の一人が僕を殴ろうとする。そのとき『腹に力を入れて一歩さがれ』と聞こえた。え? 僕は声に従って、お腹にフンっと力を入れて、すっと一歩さがった。不良のパンチはお腹に当たったけれど、苦しさが全然ない。
「何してんだよ!」
不良がにらみつけてくる。昨日の悔しさを思い出して、僕もにらみ返してやった。
「くそ、生意気」
不良は、僕の顔を目がけて殴ろうとした。
『スウェーでよけろ』
また声が聞こえた。僕は、腰を逸らせて体を後ろに倒す。僕の顔面をかすめるように、不良のパンチは空振り。
「この野郎!」
不良が大声を出したとき「何してるんだ!」と先生が来た。
「やべ、逃げろ」
不良たちは僕を置いて走って行った。
「大丈夫か?」
先生は僕に駆け寄るけれど、その顔には「面倒なこと起こさないでくれよ」と書いてあるように見えた。
「大丈夫です」
僕は、鞄を拾って家に帰った。
「お父さんでしょ」
僕は昨日のカレーを温めながら言う。
「何がだ」
「僕に話しかけたの。声でわかるよ」
「バレたか」
「うん、でも、助かった」
「息子を心配するのは当然だ」
「お父さん、ボクシングやってたって本当?」
お母さんが大切にしているアルバムがある。お父さんがボクサーだった頃の写真がたくさん貼ってあるものだ。お母さんは、お父さんのファンだったと言っていた。ジムに通い詰めて写真をたくさん撮ったと。
「お母さんストーカーじゃん」
そう言ったら「ほんと、お母さんストーカーだわ」って、笑っていた。筋肉質で引き締まった、精悍なお父さん。
「本当だよ。胃の病気をして、やめてしまったんだ」
僕は、スプーンでカレーをいじりながら言った。
「あのさ、僕にボクシング教えてよ」
お父さんは、少し黙ったあとに「厳しいぞ」と言った。僕が「大丈夫」と言うと、お父さんは「よし、わかった」と親指を立てた。
その日から、僕はジョギングを始めた。まずは基礎体力をつけないといけない。お父さんの指導で縄跳びもした。子供の頃以来やっていなかったけど、縄跳びがこんなに疲れるとは思っていなかった。団地の前でひたすら縄跳びをする僕にお母さんが「どうしたの?」と聞くけど「別に」と言ってごまかす。不良に絡まれたから、なんてかっこ悪くて言えない。
それからシャドーボクシングを始めた。僕の部屋で、お父さんが毎日指導してくれる。
日課になった朝のジョギングを終えて、朝ごはんを食べて学校に行く。先生に見つかった日から不良たちは大人しかったが、ほとぼりが冷めたと思ったのか、また僕は呼び出された。
「お前まだ金持ってきてねえよな」
体が華奢だ、と思った。うすっぺらい胸板。細い腕。ボクサーだった頃のお父さんと、全然違う。
「お金は渡さない。卑怯なことをして、お前たちは最低だ」
怖くなかった。負ける気がしなかった。僕の強がりだと思ったのか、不良の一人がへらへら笑いながら拳を握って大きく振りかぶる。僕はお父さんの試合ビデオを思い出す。相手の懐に入るインファイター。強烈な左フックで相手をマットに沈めていた。僕は、お父さんの動きを思い出して不良の懐に入る。急に距離をつめた僕に驚いたのか、不良はパンチを出さずに後ろへよろけた。
「なんだよ、お前」
僕は、拳を構えた。ジャブジャブ、ワンツーワンツー。体が軽い。
「やる気か!」
不良が飛びかかってきた。お父さんと比べたらスローモーションだ。すっと懐に入り込んで、放った左フックが顎にクリーンヒット。離れ際、一発リバーブロー。不良は倒れた。あっけない。他の不良たちは、倒れた不良を置いて逃げて行った。仲間じゃなかったのかよ。
家に帰ると、お父さんが何も言わずにニヤっと笑って親指を立てた。僕も親指を立てて返す。お母さんが「何、どうしたの?」と言ったけれど、僕は「何でもない」とごまかした。お父さんに教わったボクシングで不良と喧嘩した、なんて言ったら、お母さんは怒るかもしれない。
それ以来、不良たちはすっかり大人しくなった。僕も大人しい中学生に戻った。ジョギングと縄跳びと、シャドーボクシングは、欠かしていない。
「ちょっと待って、写真撮るから」
スーツ姿の僕を、母さんが追いかける。
「いいよ、もう」
今日は成人式の式典。十八歳で成人はしたけれど、二十歳の式典は気持ちが違う。スーツ姿の僕と、もうすぐ五十歳になる母さんと、三十歳のままの父さん。少しずつ父さんの年齢に近付いている。不思議な感覚だ。
式典が終わって、友達と飯を食って、家に帰る。やけに静かだな、と思ったら、母さんが父さんの仏壇の前で手を合わせていた。
「何してんの?」
「今日まで無事にあなたが育ってくれて、お母さん嬉しくて。今、お父さんに報告していたのよ」
「報告?」
「きっと見守ってくれているわね」
「は? どういうこと?」
「大変なこともあったけど、お母さん頑張ってきて良かったなあって思って」
僕は理解できなかった。父さんはどこへ行った?
「え、父さんは?」
「ん?」
母さんが首をかしげる。今までの記憶が一気に蘇る。父さんの食事を作らない母さん。幽霊は食事をしないからだと思っていた。父さんに「かわいいよ」と言われても無視していた母さん。すねているんだと思っていた。
まさか、母さんには見えていなかった? 聞こえていなかった? 父さんの姿が、声が!
僕は、言いようのない感情が突き上げて、涙がこぼれた。
「どうしたの」
母さんが不思議そうに見ている。
「本当に見守ってくれていたんだな、って感謝しているんだ」
「あら、素直なこと言うようになっちゃって」
母さんも滲む涙を拭った。
もう大丈夫ってことだよな。今までそばにいてくれてありがとう。僕の大好きな、父さん。一瞬、仏壇にある父さんの写真が親指をあげて笑っているように見えて、僕も親指をあげて返した。
【おわり】
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