「ママ、これ読んで」

 娘の琉愛がかぐや姫の絵本をもって、ソファにいる私のもとへ駆け寄ってくる。

「琉愛は、それ好きね」

「うん! 大好き」

 娘のつやつやの髪をなでる。子供の頭はどうしていつも少し熱を帯びているのだろう。健やかに成長するために、見るもの聞くものすべてを余すことなく吸収するために、脳がフル回転で働いているからかもしれない。娘の頭を覆うように一度抱いてから、娘のもってきた絵本を開く。娘はちょこんと、お行儀よく私の隣に座る。くっついた腕が温かい。

「むかーしむかし、あるところに、たけとりのおきなと呼ばれるおじいさんがおりました」

 私は絵本を読み聞かせる。何度も聞いているはずなのに、目をきらきらさせて聞き入る娘。

「かぐや姫は、月に帰っていきました。おしまい」

 最後まで読み終えると、娘は必ずリビングの窓へ駆け寄り、カーテンをそっと開けて空を見上げる。

「かぐや姫はお月さまに帰ったんだね」

「そうよ」

「るあも、お月さまに行ってみたいな」

 真剣なまなざしが愛しい。

「琉愛がもっと大きくなって、大人になる頃には、お月さまへ旅行ができるかもしれないよ」

「ほんとう!?」

「ええ、本当よ」

「じゃ、そしたらママも一緒にお月さまに行こう!」

「そうね。じゃ、元気にお月さま旅行へ行けるように、今日はもう寝ないとね」

「はーい」

 ときどきわがままもいうけれど、娘は健康に素直に育ってくれている。これ以上の喜びがあるだろうか。私は娘と一緒に寝室まで歩きながら、自分の運命に心から感謝した。


 翌日の夜。

「ママ、これ読んで」

 琉愛がまたかぐや姫の絵本をもって私のもとへ駆け寄ってくる。

「琉愛は本当にかぐや姫が好きね」

「うん!」

 私は絵本を読み聞かせる。同じ絵本でも、何度読んだ絵本でも、私は手を抜いたりしない。しっかり抑揚をつけて、感情をこめて、愛情たっぷりに読み聞かせる。絵本の読み聞かせは子供の情操教育にいいと聞いたことがある。別に教育熱心なわけではないが、情緒豊かに育ってもらえたら、きっと人生が豊かになるだろう。無理に勉強をさせるつもりはない。でも、この先好きなことが見つかるように、視野の広い子であってほしい。

 絵本を読み終えると、琉愛はいつも通り、リビングの窓へ駆け寄ってカーテンをそっと開けた。ちょうど見上げたところに琥珀色の美しい月が光っている。

「お月さま、きれいね」

 私が話しかけると琉愛は「うん」と返事をする。いつもより少し元気がないように思えた。

「どうしたの?」

「かぐや姫がお月さまに帰っちゃって、おじいさんとおばあさんはさみしかっただろうね」

「そうね」

「でも、かぐや姫の“本当のおうち”はお月さまだから、しかたなくバイバイしたんだよね」

 一瞬、目を閉じる。ひとつ息をしてから「そうよ」と答える。

「かぐや姫は、本当のおうちと、おじいさんとおばあさんのおうちと、どっちが幸せだったのかな」

 五歳児にしては鋭い質問だと思った。

「琉愛姫さまだったら、どっちが幸せかな?」

「うーん」とうなりながら娘は腕組みをしている。自分で聞いておいて、返事を聞くのが怖いと思った。私は娘のお腹のあたりをこちょこちょとくすぐる。娘は腕組みをとき、こらえきれずにキャッキャと笑い声を出した。

「さあ、明日は動物園のご予定でございます。琉愛姫さま、そろそろおやすみのお時間です」

 私はわざとうやうやしく言って、娘を寝室へ案内した。琉愛はパジャマのズボンをつまんで持ち上げ、お姫様がドレスの裾を持ち上げるような仕草で姫になりきり、布団まで歩いた。かぐや姫は着物だからその仕草はちょっと違うのではないかと思ったけれど、可愛いから言わずにおいた。寝る前に娘を抱きしめる。

「るあがもしかぐや姫だったら、お月さまには帰らない」

 抱きしめた耳元で娘がつぶやく。

「きっと、おじいさんとおばあさんと一緒にいるほうが幸せだもん」

 私は唇をかんで感情を抑える。

「そうかもしれないね」

 ただそう返事をして、娘を布団に寝かせた。


 体の病気で子供ができないとわかったときは、絶望した。この世の終わりかと思った。子供が好きで、好きで、子供が欲しくて結婚したようなものだったのに、妊娠する能力がなくなることは、生きる意味を失うことに等しかった。心を蝕んだ絶望は、人の道を誤らせるには十分だった。仕事をやめ、夫と離婚し、家族とも友人とも連絡を絶った。良くない人たちとつるむようになり、空き巣や車上荒らしの方法を教えてもらった。生きる意味はなかったが、死ぬ気力もなかった。警察に捕まっても全然かまわなかったが、欲を出さないせいか捕まることもなかった。手持ちがなくなると、見ず知らずの男にも平気で抱かれた。それでまた少しの金を手にし、適当に食いつないだ。

 三年前の蒸し暑い日だった。九月になっても連日30℃をこえる日々。私は小金持ちが住む新興住宅地のショッピングモールで車を物色していた。車の窓から見える場所に平気で買い物袋を置いている客はけっこう多い。財布さえ置いておかなければ安全と思っているのだろう。荷物を一度車に置いて、食事にでも行くのか。服や靴、鞄は、新品を盗んで転売するとけっこういい値段になるというのに。

 その車は、後部座席の窓に黒いシートを貼った高級車だった。運転席からのぞくと、助手席に高級ブランドの紙袋が置いてある。私は助手席側にまわって、ちらっと周囲を見渡したあとに、ドライバーを使ってドアノブをこじあける。こんな昼間にピッキングなんてすぐにバレると思っていたが、猛暑の駐車場は意外と人がいない穴場なのだ。

 炎天の下、汗だくになって助手席を開けて紙袋をつかんだそのとき、後部座席に子供が寝ていて、驚いて大きな声をあげそうになった。よく見るとその子供は寝ているのではなく、高温になった車内でぐったりとしていた。おそらく二歳くらい。私は、一気に怒りの閾値をこえた。一瞬も迷わず、ぐったりした子供を抱いて、自分の車へ走った。


【車内から消えた女児、あれから三年。いまだ見つからず】

 スマートフォンに表示されるニュースを眺める。琉愛は来年、小学生になる年だ。幼稚園は義務ではないが、小学校となったらそうも言っていられない。このまま永遠に子供でいてくれるわけではない。そのうち、自分の出生についてや、父親がいないことなども、考える年になってくるのだ。

「ママ、これ読んで~」

 琉愛がかぐや姫の絵本をもって駆け寄ってくる。急いでスマートフォンのニュースを消す。私はこの先、世界で一番愛しているこの子を、どうしてあげたらいいのだろう。

「ママ? どうしたの?」

 すぐに絵本を受け取らない私を、娘が見上げる。あの日のぐったりした子供は、こんなに素直で可愛い子に育った。この子のためなら、と悪事から完全に足を洗い、まっとうに仕事をして生きた。それでもやっぱり琉愛を“月”に、“本当のおうち”に、帰さなければならない日はいつか来る。

「琉愛はかぐや姫大好きだね」

「うん!」

 娘の笑顔を記憶に焼き付けておこう。そう思って私は、涙をこらえ娘を見つめる。

「ママ、るあはお月さまには帰らないよ」

「え?」

「かぐや姫は、なんでお月さまに帰っちゃったんだろうね。おじいさんとおばあさんと一緒のほうが幸せなのに」

 邪気のない娘の顔を見て、私は何度目かの決心がまた揺らぐ。外では夜風がさわさわと鳴り秋の気配を運んでくる。きっと今夜も、月は煌々と輝いているのだろう。




【おわり】

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