秘密【不思議、ヒトコワ】
前から歩いてくる会社員風の男に軽くぶつかる。
「ちゃんと前見て歩けよ」
「はい、すみません」
怒鳴られて謝る。俺はまだ若いし、ひ弱そうな外見だから、喧嘩になることはほとんどない。丁寧に謝ればだいたい見逃してもらえる。俺はその間に隙だらけの相手から【秘密】を“スる”。たいていは懐に、ときどきズボンの後ろポケットに、人はいろんな秘密を隠し持っている。会社員風の男はスーツの内ポケットに秘密を隠していた。紫色のドロドロした秘密。覗いてみると【同僚と不倫している】と書かれている。
「こいつは使える」
俺は思わずにやりとして、その秘密を鞄にしまう。スッた秘密を使って持ち主を脅し金をまきあげる。それが俺の生業だ。
最初に人の秘密をスッたのは中学生のときだった。すかした担任がむかついて秘密をスってやった。ヘドロのように臭いその秘密は【教え子の盗撮をしている】という最低の秘密だった。俺はその秘密で担任を脅し、金を受け取った。それ以来、俺は何人もの秘密をスり、今にいたる。
いつもの飲み屋に入る。酔っ払いはスりやすいが、行きつけの店の客を脅すのは面倒だ。俺は静かに隅のほうで焼酎を飲む。
「あれ! Sか? Sじゃないか!」
突然声をかけられた。見ると、懐かしい顔。子供の頃に近所に住んでいたNだ。
「Nか?」
「そうだよ! 覚えていてくれたか」
根っからの良い奴。馬鹿がつくほどのお人よし。Nはそういう奴だった。俺みたいな根暗な人間とも分け隔てなく接してくれる、珍しい奴だ。Nは俺と同じ席につき、ビールを注文した。
「元気にしていたか?」
「ああ、変わらずぼちぼちやってるよ。お前は?」
「僕はしがないサラリーマンだ。独身だし、彼女とも別れたばかりだ」
へらへらと笑いながらNが言う。
「そういえば、おじさんとおばさんは元気か?」
Nの両親は、何かと教育熱心だった記憶があった。ふと思い出す。元気にしているのだろうか。一瞬Nの表情がかたまる。
「あ、ああ。言っていなかったね。三年前に亡くなったんだよ」
「え?」
「まあ、世の中、仕方ないこともあるよね」
その微笑には薄らと隠し切れない憎悪があった。何があった? Nは一瞬の憎悪を隠し、またへらへらと笑ってビールを飲みほした。Nはあっという間に酔っぱらった。あまり酒に強くないらしい。真っ赤になって千鳥足だ。
「おい、大丈夫か?」
俺はNの体を支えながら店を出る。
「らいじょうぶ、らいじょうぶ」
俺はNを公園のベンチに座らせ、悪いと思いながらNの懐から秘密をスッた。両親の話をしたときのNの表情が気になったからだ。
【両親は事故死と処理されているけれど、本当は殺人だ】
俺は絶句した。なんて重い秘密だ。こんなものを隠し持ったまま生きてきたのか。ほかに何か手がかりはないのか。俺は完全に無防備なNからどんどん秘密をスッた。
【犯人は両親を憎んでいた】
良い人たちに見えたけれど、恨みを買うようなことがあったのか。
【身近なところに犯人がいるなんてみんな知らない】
身近? Nは犯人を知っているのか?
【彼らは外面が良いから誰も憎まれていたなんて知らない】
どういうことだ? ……嫌な予感がする。
【子供の頃からしつけと言われて暴力を振るわれていた】
嫌な予感はほとんど確信に変わっていた。
【仕方なかった】
【悪いことだとわかっている】
俺は最後の秘密をスッた。
【殺さなければ、殺されていた】
最後の秘密は、懐の一番奥、深い深いところにあった。真っ黒で重たくて、ねっとりとした湿気と悲しみに膨らんでいた。俺は両手にあふれたNの秘密を、全部Nの懐に戻した。Nは公園のベンチですっかり眠り込んでいた。心なしか、子供の頃より安寧な顔に見えた。
「俺が秘密を人に返すことがあるなんてな」
俺は額の汗をぬぐい、Nの寝顔を眺めた。
【おわり】
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