初恋ならそこで死んでる
絢木硝
第1話
初恋だったんだけどなあ。
自分の服をはだけさせた男に頰を擦り寄せる女の頭を撫でながら、俺は吐き気を堪えている。
#
隣国とつまらない領土争いを繰り返すこの国で、俺が軍人になると決めたのは14の頃だった。
それは、たまたま国境間際になってしまった地元の村が略奪の末に燃やし尽くされたからであり、父も母も祖母も幼い妹までもが昨日まで近所のお兄さんやおじさんだった人たちに鋤や鍬で殴り殺されたからであり、そのくせ父の血を浴びせられたせいでほぼ無傷なのに死体置き場に捨てられた俺だけは村から逃げ出せたためであり、軍ならば身寄りも学もない子供だって無条件に受け入れてくれたからだ。
ああ、一応条件はあったか。訓練所を死なないで出られた奴なら、誰でも、だ。戦火における同志討ちは2割だと士官学校で教わった。だけど訓練所にいる段階では自分以外に味方なぞいないので、訓練で倒れた瞬間に人間としては死ぬ。それでもあの頃の俺は、餓死と他殺ならばまだ他殺の方が良いと思ったのだろう。思う、なんて高尚なことができれいればの話だけど。記憶なんて曖昧だ。倒れて眠るくらいが丁度良い。
正式に軍属となっても、同じような境遇の子供は腐るほどいた。だから俺は必死で剣の腕を磨いて、どうにか生き残ることに努めた。生き残ること、つまり人を殺すこと。
その甲斐あって、若くしてそれなりの地位にまで上り詰めた。それなりの地位。ぎざぎざに描いては消し飛ばされる国境線に置かれた砦のひとつで、現場の司令官に任命される程度の地位。俺は選り取り見取りの戦場から、いつか自分の住んでいた地域への派兵を希望したのだ。
けれど、この場所は長く戦乱にさらされすぎた。今こうして砦から見下ろしてみても、まるで懐かしいとは思えない。だって焼かれた村はもちろん、砲撃のせいで丘の形すら変わってしまっているのだから。かつて畑のあった地域なんて真っ先に略奪され、周囲よりも赤土が目立つほどだ。自分の記憶の中の景色なんてちっとも残されていない。ああでも、ほんの少しはくらいは面影があるけれど。あの、丘の向こうの、小さくて深い森とか。
「シュヴァルツ佐官は幽霊の噂をご存知か?」
見張り台から外を見ていた俺にかけられた声は、よく知ったものだった。振り返ればひとりの男が、士官学校で同期だったベルフリトがいた。驚いたまま動けない俺に、彼はおどけて敬礼してみせる。その指の欠けていないこと、晒された皮膚の上に傷がないことを確認して、俺は小さく息をついた。
「……ベルフリト。お前、お前ここに派遣されたのか! ああ良かった、大事ないか?」
「まあな。そっちこそ北に飛ばされてただろ? よく、五体満足で帰ってきたな」
「運が良かったんだよ。本当に、たったそれだけの理由で生きている」
「そっか。じゃあなおのこと、またシュウに会えて嬉しいよ」
最後に会ったのはもう何年前か。ああ、きっとそんなに長く別れていたわけじゃないけど。どうしてもまだ頭が北方戦線から帰ってこられていない。
顔を合わせるたび彼の赤茶けた髪は器用に撫でつけられているから、こんな泥沼の戦場より王都のリストランテの方がよほど似合うのではないかと思わされる。
俺とベルフリトは士官学校の同期だ。けれど年齢としては俺の方がふたつ上になる。西方の戦地で少しばかり戦果をあげた結果、俺は国軍の士官候補生として推薦された。そして、その同期の中で首席だったのがベルフリト。成り上がりの少年兵で今より人間に興味の無かった俺と、武門の名家出身かつ思春期で荒れに荒れていた彼の間には一悶着、いや五悶着くらいあった。そのうちふたつはあわや放校、除隊処分になりかけたほどの大喧嘩だった。今でも良い思い出とは言い難い。
けれどそれらの喧嘩を通して、俺は幼少期より勉学に励んでいたベルフリトに頭では勝てず、ベルフリトは実戦経験のある俺に腕っ節では勝てないと理解した。そうして互いに気心知れた仲となったのだ。
「あそこ、ほらあの森には、女狩人の幽霊が出るんだと」
「幽霊」
一通り互いの近況を確認すれば、彼も俺と同じタイミングでこの砦へ派遣されたことが分かった。前の配属先がここからそう遠くなかったため、俺よりも先に到着していたという。だからこんな、いかにも馬鹿馬鹿しい噂話も知っていた。
「ああ。あの森は確かに狭いが、所狭しと罠が仕掛けられているらしい。足元には落とし穴やトラバサミ、木の枝には鉄線、窪地には毒矢。そうして木立の向こうでクコの実色のスカートが揺れてる。おかげであのあたりに用事があるときは、わざわざ森を遠回りしろって当時の指揮官から命令が出たくらいだ。突っ切れたら楽なのに」
「……へえ、じゃあその幽霊を万年人手不足の我が軍にスカウトしよう。きっと良い工作兵になる」
「まさか! シュウお前、真面目な顔して冗談言うとこは変わんねえなあ」
まるきり冗談というわけでもなかった。ほんの少しだけ、心当たりの人物がいたから。けれどそんなことはわざわざ口にしない。
ひとしきり笑ってみせたあと、ベルフリトは不意に顔をしかめた。つう、と視線を巡らせる。濃い緑色の瞳に影が落ちた。
「まあでも、どのみちそれは無理だろう。怪我人だって出ているらしいし。だからさっきみたいな滅多なこと、他所では言うんじゃないぜ」
それから彼はこの砦での任官式でまた会おう、と約束して見張り台を降りていった。俺はもちろんと頷いて、また小さな森に視線を移す。
昔はもっと広く、草原が広がっていたはずだ。探検するだけで、日が暮れてしまうほどの。森には子供だけで入ってはいけないよと、母は言った。せめてクロラが、ひとりでうちの畑を耕せるようになってからね。きっと、今の俺なら母も大人になったと認めてくれるだろう。けれど軍靴と爆風ではげた地表のどこに畑があったのか、もう分かりはしないのだ。
「クコの実色のスカート、ね」
彼女も、そんな服を着ていた。
#
一晩で焼き尽くせるくらいに小さな村だったから、子供は俺と妹くらいしか住んでいなかった。学校に行くなら隣街まで歩かなくてはね、といつか父は言っていた。それでもひとりだけ、幼馴染みと言うべき女の子がいた。
リディアル・クゼット。朝焼けの麦畑の髪に、雨の後の新緑の瞳のおんなのこ。
両親が行商人だという彼女は、時折あの森の近くにある祖母の家に預けられていた。俺と妹は、リディアルが来るたびに遊びに誘いに行った。そうすると彼女は決まって大きな身振りで手を振りながら、小さな小屋から転がり出てくる。それから手を取り合って、小さな村のあちこちへ繰り出していくのだ。
繰り出していく。でも行先はどこだって良かった。リディアルと一緒なら、自分の家の絨毯の上だって見たこともない王都の公園よりも素晴らしいものになった。摘み慣れた木の実も、ひとつ残らず甘くなる。
だけど、冒険ごっこは苦手だった。リディアルは、怪しそうな道を選ぶのが得意だったから。
「シュウはほんとに臆病ね!」
「リディが考えなしなだけだ!」
そんな言い争いを、何度したっけ。そのたびに妹に叱られていたのだから、本当にだめな兄だった。けれど怒られたあと、リディアルとふたりで妹の機嫌をとるのは好きだった。いいや。きっと、何をするのも楽しかった。好きだった。
彼女はとても好奇心旺盛で、勇ましい女の子だった。それなりに裕福な両親に甘やかされて育ったために、そのおてんばっぷりは田舎の村で育った俺と比べるまでもない。けれど行商の道中で世界を見て回ったからか、その視野は驚くほど広かった。やって良いこと、いけないこと、自分にできないことをよく知っていた。賢い子供だったのだろう。
「でもシュウは慎重だから、私がちょっとくらい無茶しちゃっても良いでしょ?」
「俺がいないときでも無茶するくせに」
村が焼かれるほんの数日前に、リディアルは両親と一緒に隣国の帝都まで出立していった。大きな商談が入ったらしく、暫くはこの村に帰ってこないという。今なら分かる。
「……この近くにも、兵隊が来てる。そういう噂を聞いたんだ。リディはすぐ無茶するから、それでもし、もしも捕まっちゃったら、そしたらおれ、俺は」
「大丈夫よ、ママもパパもいるし、帝都に行くのは私の夢でもあったのだから」
子供の頭でだって理解できていた。このまま二度と、リディアルに会えなくなるかもしれない。俺は最後の挨拶だというのに、泣きそうになるのを必死で堪えて俯いていた。それだというのに彼女はずっと笑っていて、だからもっと顔を上げられなくなって。
「でも多分、商談が落ち着く頃には疲れきってるでしょうね。きっとへとへとでこの家に帰ってくるから、そのときは」
握り締めた拳を、やわい掌が掴んだ。
思わず顔をあげれば、澄んだ緑の瞳と目が合った。春の色だ。春の、花曇りの切れ間から覗く光に照らされた、いちばん柔らかな葉の緑色。花嫁衣装の刺繍のような金髪が、その瞳をきらきらと飾ってみせる。飴玉よりもつややかな唇がきゅっと笑みをかたどった。
「約束よ。シュウはこの村で、私のこと待っててね。へとへとの私を出迎えて、まあ、少しは怒っても良いけど、その後にはただいまと笑って。約束、だからね!」
そう言って大きく両手を振った姿を憶えている。そのままクコの実色のスカートをひるがえし、両親の待つ街道まで走る姿も。
今でも、いつまでも、その背中を忘れられる気がしないのだ。生まれ育った家に火をかけられた瞬間より、妹が引きずられていく声より、初めて切った人間の血の匂いより、ずっと記憶に染みついている。
だから、初恋だった。
初恋だったんだけど。
#
正式な任官式を終えたあと、俺は見るともなく砦の中を歩いていた。石造りの粗末な回廊は、まだ作られてから日の浅いものに見える。当然だ。俺がこのあたりに暮らしていた頃にはなかったのだから。
確か地上が二階建て、外には厩舎と訓練場、地下に牢屋があるんだったか。少し離れた位置にある物見櫓にも、今は松明が灯されているのが見てとれた。
着任は今日だが、明日からはもう挨拶やら訓練やら軍議やらの予定がある。北と比べれば前線基地とまでは言えないが、ここは確かに国境沿いであるのだ。おそらく忙しない毎日になるに違いない。そろそろ寝るべきだろう。そう思って、自室に足を向けて。
からからと、小さな女の子が笑うような音がした。不意に吹き込んだ風に、壁にかけられたカンテラが揺れた音。その火は、あつらえたように地下へと続く階段を照らす。誘うように、導くみたいに、道はひらけた。
あのときの風こそ、運命と呼ぶべきもの。
俺は、階段を降りていく。
想像以上に急な傾斜に眉をひそめる。湿った土砂の奥に、つんと鉄の臭いが混じった。地下にある捕虜のための牢屋なんて、ほとんど使っていないと聞いたんだけど。ああでも、使っていないからこそ、掃除もしていなかったのかもしれない。この異臭もただの鉄格子の錆のせいとか。
「離しなさい!」
「チッ、くそ、大人しくしろ!」
「そっち押さえとけ!」
「分かっ、が、てめえ!」
俺が間違ってた。使ってるじゃねえか。
物々しい声が階下から響いていた。男が3人、女がひとり。男たちが女を連れ込んで、乱暴を働こうとしているのだろうとは、すぐに知れた。これだから辺境は。
無意識に腰へ手をやる。儀礼用の剣はあまりに心許ないが、無いよりはましだ。
「なんでこいつまだ動けるんだ!?」
「死んでないからよ!」
「あんたに聞いてんじゃねえよ!」
「知るかよちゃんとオレは」
「もういい! 吊るしちまえ!」
「やだ、離しなさい! はなせ、離せこの」
「吊るせ」
剣は頼りないが、この革靴は悪くない。人が来たと、向こうが勝手に気づいてくれる。このどたばた、がちゃがちゃと喧しい薄暗い独房の中でも、靴音はきちんと仕事を果たしたようだ。
聞こえていた通り、独房の中にいた3人の男とひとりの女がこちらを見る。いや、正確に言えば女はこちらを見ていない。何故ならその目には黒い布が巻かれていたからだ。それでも何か感じたのだろう。両手を吊り上げられたまま、顔がこちらへ向けられる。
反対に男たちは俺の姿を見とめて、すぐに顔を伏せた。それでもそこに浮かべられた見苦しいほどの困惑は、小さなカンテラしかないこの空間でもよく見えた。
「あんた」
「おい! ……帽子」
おずおずと口を開いた男が、隣にいた男に小突かれる。帽子。そこには渡されたばかりの階級章がついているはずだ。
男たちの上着にだって階級章は留められている。いずれも下士官相当のものだった。指先ほどのそれが、この場の空気をきちんと制定してくれる。俺は軍のことはあまり好きではないが、こういう分かりやすさは便利で良い。
「ここで何をしていた?」
「それは、その」
「オレ、いや、自分たちは」
「何って、まだ何も」
持ち回りで一言ずつ口を開いては、結局もごもごと口ごもる。頭数は揃っているのにこちらへ襲いかかってもこないのか。存外肝の小さいというか、悪意が薄いというか。こういうことをして、まるで悪びれない人間の方が今まで多く見てきた。だからといって、流石に見逃すわけにはいかない。
「……自分たちは、あの森に潜んでいる帝都のスパイの女を捕まえようとして!」
兵士の中のひとりがやっと口を開く。彼は勢いそのまま、がつりと両足のかかとをぶつけた。敬礼のために伸ばした指先が刈り上げられた頭を打つ。
「佐官殿はご存知ないかもしれませんが、あの森には前から反抗的な女がおり、その、罠を、森に罠を仕掛けて我が軍の同胞を攻撃していたのです! おれ、自分! 非番の自分たちは偶然今晩その女を捕まえて!」
「ちょっと嘘つかないでよ! そんなこと私は」
「うるさい!」
「へえ」
上擦った声と上気した頰を見るに、彼らはまだ子供と言っても良いような年の頃だった。まだ鉄火場を踏んだことのない新兵なのかもしれない。そう考えれば納得がいく。だいたい正直なところ、こんな聞き方で本当の話を聞けるなんても思っていない。そもそも結論は、俺が彼らを見つけた時点で決まっていた。
「非番であろうと見回りを欠かさないとは、なるほど立派な心掛けだな」
「っ、はい!」
「しかし命令を無視して、夜間に勝手に外出する兵などいらない。今晩はお前らまとめて営倉で過ごせ。後の処分は追って下す。返事は?」
「だけど!」
「おい」
反射的に怒鳴り声をあげた兵士を見る。こういうときにイメージするのは、士官学校の校長だ。声はゆっくりと、単語ははっきりと、決して目はそらさずに。
「上官に、拝命します以外の返事をして良いと、一体どこで教わった?」
「……申し訳ございませんでした。拝命します」
返事はまばらに3回ほど聞こえた。それから彼らは、競うように階段を駆け上がっていく。さほど兵士の数も多くない砦だ。処分は明日決めるのでも良いだろう。良いということにしてほしい。こんな辺境で脱走なんてした日には、自分たちも帝国のスパイとして処断されると知らないはずもない。
「次はあなたの話を聞きましょうか」
面倒だなという気持ちを、いかめしさを装うことで隠す。民間人が砦に入った時点で、それが合意の上ではなかろうと、ただでは家に帰すわけにはいかない。まずは身元を洗わねば。
靴音が聞こえたのだろう。女がこちらを向く。薄暗い牢内では分かりにくかったけれど、その服装は随分と色鮮やかだった。噂通りのクコの実色のスカートに、何で染めたのかも分からないほど明るい黄色のシャツ。砂埃にまみれた外套は、触れずともその生地の厚みが見て取れる。一般的に、服に使われる色の数が多ければ多いほど、その値段は高くなる傾向にある。つまり彼女はそれなりの家の娘だということだ。
「失礼」
溜息をつく代わりに、目蓋に巻かれたぼろ切れへ手を伸ばした。高く結い上げられた金髪の奥で、女の顔が強張って。
そうして、澄み渡る緑眼が俺を見る。
記憶の中で、別れを告げたはずの少女が振り返った。
呼吸が止まる。そのまま死んでしまえれば良かった。口先だけが諦め悪く、あるいは軍人の矜持の最後の欠片でもって、たったひとつの問いを吐き出す。
「お前、名前は」
「リディアル・クゼット」
間違いようもなく、いつかの記憶と目の前の女が接続される。過不足のない年月に研磨されたかんばせが、記憶とまるで違わぬ視線で俺を見る。
目眩がした。頭を銃床で殴られたときのような鈍痛が思考を錆びつかせる。こんな、こんな報復があるかよ。
ぐらぐらと茹だつ視界は思い出を無秩序に投影する。炎の色のない、いくつもの記憶。血の匂いのしない数多の瞬間。もう俺しか知らないあの村の景色。そういったものが体の内側に雪崩れ込み、現実を飲み干した。たたらを踏む。腰に携えた剣の重たさを、随分と久しぶりに思い出してしまった。
「リディ?」
囁くような声が口の端から溢れた。けれどそれを後悔するより早く、燃えるような緑が俺を射抜く。
「やめて! 私をそう呼んで良いのは、私が好きな人たちだけよ。あんたたちみたいな、あの村を燃やすような奴らに、呼ばれたくなんかない!」
その言葉は割れたばかりの硝子よりも尖っていたから、俺は自分の傷口の感覚を手繰り寄せられた。軍人となった証でもあるいく筋もの傷跡が、惚けていた表情にかさぶたを被せる。生まれついての皮膚よりも固いそれは、俺の望むままにつまらない軍人の面構えを作ってくれるだろう。
「それは失礼した。だがクゼット嬢、自分はそこの村を燃やした覚えはない」
「ああそう。3人がかり、でも女ひとりを拐ってくるような軍人なら、ああいう素晴らしい村をいくらでも、燃やして、皆殺しにして、いそうなもの、だけれど!」
素晴らしい村。目眩が視界を侵略する。彼女は、あの村を焼いたのを軍人と思っているのか。すばらしいむら。殴られることに慣れていて良かったと思う。体調に関係なく体を動かすことができるから。だから俺は、できる限り尊大に腕を組んだ。
「……そうか。それで森に罠を仕掛けたのか? 軍への復讐でも気取っていたのか」
「だからっ! それ、は、私じゃない!」
彼女は両手を完全に塞がれたまま、肩で荒く息をしていた。そのせいか、言葉まで不自然に途切れていたような。瞳が涙の膜をまとって揺れた。激情に押し上げられた血潮に、その柔らかそうな頰が赤く染められる。
「詳しい話は明日聞かせていただく。もちろんあの者たちには処分を下すと約束しよう。しかしあなたが国境沿いを、しかもこんな夜更にひとりで歩いていたことは間違いない。その事実をもとに話が進められることは、おい?」
「なに、よ」
「いや、何というのはこちらの言葉だが」
赤い頰。小刻みに震える体。反応の鈍い瞳孔。感情が昂っていると判断するには、明らかに反応が過大に見える。高熱に浮かされる者にそっくりだ。同じような姿をいつか見たことある気がした。北方戦線のテントの中か? それとも志願兵まみれの輸送船で、野戦病院のベットに転がされ。
違う。歓楽街の裏道。打ち捨てられた、四つ這いの。
気づいたときには彼女の胸ぐらを掴んでいた。押し当てる手の甲で脈を、体温を測る。
「おいあんた、何か飲まされたか?!」
「え、ああ、うん。赤いの、甘いの。なぁんだ、やっぱり毒、だった、の」
「違う! ああクソ、あいつらぶった切っておくべきだった!」
突然激昂した俺を、彼女はぼんやりと眺めていた。その瞳から加速度的に理性がとろけ落ちる。その様子を見るほど、推測が絶望で着地していった。
毒じゃない。だがある意味、毒よりむごい。彼女に使われたものはおそらく麻薬だ。あらゆる皮膚感覚を快楽にすげ替える、たちの悪い麻薬。いつか王都での哨戒任務のとき、偶然見かけて調査に手を貸しただけだ。そんなものが、この砦には流通しているのか。どうして。いやそんなこと今はどうでも良くて、いま、今は。
溜息をつくふりをして、あらゆる感情を吐き出す。軍帽をかぶり直し、彼女からの視線を遮った。
「……俺は外にいる。その手枷も取るから、なんだ、自分でどうにかしてくれ」
「どうにか?」
嘘だろ。
せっかく覆い隠そうとした目は、また彼女に向けられる。もう肉体だけでなく思考まで麻痺して、塗り替えられているのだろう。その面立ちは記憶の中の女の子に近づいている。本心から分からないと言いたげに、首は傾げられた。まっさらな喉の上を、細かな日差しに似た髪が滑る。
「分からないのか?」
「うん、でも、なんか体、へんなの。分かる? あなたなら、分かるのね」
「……勘弁してくれ。俺だって知らねえよ、こんな」
己の浅ましく揺れる声では、彼女の荒い吐息の音すらかき消せない。あてられている。気づいてんだよ。薄暗い独房の中に、ふたりきりで、目の前には初恋のおんなのこ。何にも分からないって顔で、俺のことを見上げているんだ。
そして俺は知っている。あの麻薬がどれだけ早く、深く、体を蝕むのか。それを使われた人間が放置され、見せ物にされて、そのまま捨てられた姿を知っている。路地に転がされたおんなの、おとこの、溶けきって正体をなくした瞳を、確かに見たのだ。だから知っている。欲を発散させなければ、薬を抜くための治療すら満足にできないと、知っている。
「知らない。わたしもこんなの、知らないわ。なんで体、へん、なの」
「やめろ」
「どうにかって、なに? ど、したら、いいの。たすけて、助け、て、ください」
「やめてくれ!」
「助けて。こわい、こわいよぉ……」
少女はついに泣き出した。息の詰まってなる喉を締めてしまえれば良かった。いつかのように。今みたいに。この指は知っている。人間がどれだけの力で、どのくらいの時間、呼吸を阻害すれば死に至るのか。この指は。俺は。
ああでも、そうだ。俺はリディの泣いた顔に、弱いんだった。
噛み締めた唇の端が切れた気がした。つ、と血が伝っていく。それを舐めとって、ようやっと、俺は彼女との何もかもを捨て去ると決めた。
「……わかった。わかったから、もう、泣くな。頼む」
「っ。うん!」
明らかに嬉しそうな声をあげた彼女から、もう目を逸らすことはしなかった。革靴は後戻りを許さない音で俺を進めさせる。手袋は外さないまま、彼女のシャツへ手をかけた。浮かされた瞳はそれを咎めなかった。空いた方の手でそっと、まっかな頬を撫ぜる。彼女は喜ぶように、俺の掌へ顔を寄せた。
彼女は自分をリディと呼んで良いのは、自分が好きな人たちだけだと言った。そんなこと、知らなかったな。こんなときに、知りたくもなかった。
「すぐ、終わらせる」
初恋だったんだよ。
俺にそんなことを言う資格は、もうないけれど。
初恋ならそこで死んでる 絢木硝 @monyouglass
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