紅を覆う叢雲 八
頬を撫でた汗を、拭き取ることさえ忘れていた。打開策を探している今の脳に、その命令を出す余裕すら残っていなかったからだ。
状況はあちらに傾き始めている。回復は尽きていない、スキルもある。援軍も……もう少し持ちこたえれば来るはずだ。「行く」と華火花さんは言った、なら、絶対に来る。
けれど、武器が無くなった。相手と俺の実力差を何とか繋ぎ止めていた綱が途切れた。すぐ近くにあったはずの援軍と言う名の向こう岸が、異常に遠く感じる。
わずかな、綱とも言えない程の糸を渡っていた綱渡りは、絶望的なものとなった。
「でもっ!」
負けられない、倒れられない。ここで負けたところで、カリアさんも、ナーラちゃんも、華火花さんも俺を責めるようなことはしないだろう。そんな人たちじゃない。けれど、だからこそ。
ここで倒れられない。里の命運にかかわることだ。一人の少女に関わることだ。一人の少女を思う、プレイヤーに関わることだ。そして何よりも……
剣が迫る。影でできたその剣は、しかし殺傷力は本物である。影であって実物を傷つけ、影であるからこそ実物はそれを拒めない。弾くことができない。そう、反抗手段を失った俺は、この攻撃を防ぐ手段がない。
だからこそ、受け止めた。
「【
致命傷を避け、めり込んだ刃が俺の肉体からポリゴンを吐き出させる。
黒炎が滾る。刃を焔が駆け巡る。
『!?』
何故か自分から攻撃を受け止めに行った相手に、騎士の目が見開かれた……ような気がする。
「
詠唱を終わらせながら、反撃を開始する。縮地を添えた黒炎の斬撃は、初めてと言っていいまともなダメージを騎士に叩き込む。
己の功績を誇示するように、俺が纏った襤褸切れの喪服が揺れていた。
「もっと後で切りたい手札だったけどな」
愚痴を零しながらも、下がっていく騎士に着いていくように疾走する。そう、もっと戦況が動いてから、相手にダメージを与えてから切りたい手札だったが……もうそうもいっていられない。
たとえ、切り札を同時に二枚斬ることになったとしても。
切り札の一枚は「影纏」シリーズの防具だ。「影纏・衣」によって自分のステータスを上昇させ、「影纏・頭巾」によって
文字通り影を喰らうそのエンチャントは、状況をひっくり返すには十分な力を秘めていた。
切り札の二枚目はスキル、『
「何かを守るために戦闘を行う」
曖昧、けれど単純。追い込まれた武士は、大義のために立ち上がるのだ。正直このスキルは色々と条件があやふやすぎてパーティを組んだ状態の誰かを守っているとかじゃないと駄目な可能性もあったので、今発動しているのは普通にラッキーだ。
縮地で加速する、下がっていく騎士を自分の前から逃がさない。勢いそのままに切り上げ、急に加速した俺の動きに騎士はついていけず、もろに喰らってしまう。返す刃で切り下げ、騎士の胴体からポリゴンが噴き出す。
「さぁ、楽しもう!」
窮地逆巻の効果時間が三分、武士道が五分。この二つはクールタイムが長い上、もう一度条件を満たしなおさないといけないのでこの戦闘中にはもう使えないだろう。影喰は……わからない。何せ今回が初仕様なので、効果時間も、クールタイムもわからない。
ぶっつけ本番、けれど何故だか踏み外す気はしなかった。
「雨割っ!!」
雨をも両断する大上段が閃き、それを騎士は受け止める。流石はレイドボスで在ろう敵、このスピードの上昇にも余裕でついてくる。このまま戦っていれば切り札も押しつぶされて負ける。
「でもなぁ!!」
そうはさせない、そう簡単に捉えさせない。ステータスは十分、後は
騎士の盾に逸らされた剣先が地面に触れる。勢いをつけて大上段を放った以上、後隙は免れない。そして、それを騎士はついてくるだろう。あの剣を喰らえばこのHPじゃ耐えられない。隙、刺せる、勝てる……
「って、想うよな」
風を切り裂く轟音が響く。堕ちた筈の刃は再び、その剣先を光らせる。
『グッ!?』
攻撃態勢に入っていた騎士の体を、黒炎は切り裂いた。
「やっと、喋ってくれたね?」
困惑と驚愕に染まった騎士の声色に、思わず口角を吊り上げる。ダメージボイスも無いんじゃあ味気ないよなぁ!
あぁ、確かに隙が生まれるはずだった。けれど大上段を放つ前から受け止められるのはわかってたし、その時点でどうするか考えていただけだ。武士が放つのは高速の切り上げ。燕すら落とす返しの刃。
人それを、『燕返し』と呼ぶ。
「まぁそんなに上手くないけど……」
燕返し、なんて仰々しく名乗れる程綺麗じゃないし、技も無い。只の斬り返しだ。でも、それでも完全に油断しきった相手の虚を突くぐらいならできる。今この状況において、これが最善だと判断した。
いいダメージは入った、こっから相手はどう出てくる?
騎士が揺らぐ。予想外のダメージに、不利に転じた状況に。
『……アァ、済マナイ我ガ主』
騎士は嘆く。命令すら十分に遂行できない自分の愚かさと、無力さに。こんな小娘に使うしかない現状に。
『ケレド、ココデ潰エル訳ニハイカナイ』
騎士は蠢く。体外から流れ込んでくる異様な力、影と言う魔力の力の奔流を一気に浴びせられ、原型すら忘れるほどに蠢く。どくん、どくんと胎動したのは果たして騎士の体だったか、異様を訴える、スタラの心臓だったか。
どちらであったとしても変わらない。映し出された真実は一つ、騎士の体が変容したという事だった。
スタラは固唾をのみ込み、長く逡巡し、一言だけ呟いた。
「きんめ~……」
いや、なんか第二形態な事はわかるんだよ?明らかに主人がいることを匂わせて、それに謝りながら力を開放する。うん、ありきたりかもしれないけどいい演出だね。けどそれで出てくるのが思いっきり壁に叩きつけた豆腐みたいな形なのどう?結構拍子抜けではあるよ?
『グラエエエエッッッ!!!!????』
先ほどまでの理性的な口調も、声色も消え、只の獣のような声が響き渡る。それに合わせて放たれたのは、影の弾丸だった。漆黒に沈んだ小さな鉛が、少女の体を穿つために疾走する。
黒い弾、遠距離攻撃か。まぁ早くはあるけど見えない程じゃないし、なんかいつの間にか影に戻ってた倣華なら弾ける。
「よい、しょっと」
軸を合わせ、縦に両断するように刀を振るう。
帰ってきた手ごたえは何とも弾力があって、むにゅり、と擬音を放っていた。不快ではあるけども、この程度の攻撃なら銃弾の雨に比べれば別になんてこともなし。
このまんま攻めさせてもらう!
と、意気揚々と走り出そうとした俺の足首に、何かがまとわりついた。
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