第一話 秋風 その3

多摩川 健

第1話  秋風 その3

やっと落ち着いて少し熱も下がった娘を従えて、裏の大圓寺へと向かう。鍵屋長屋は寝静まりあたりは漆黒の闇夜であった。

 長屋のちょうど南側に隣接して、大円寺の小さな裏木戸がある。和尚の大覚方円は少し変わった経歴であった。宝蔵院流の棒術の名手でもあったが、京都知恩院から許され、坊主と武芸者の二つの顔を持っていたが、その話はまた後日にしておこう。方円和尚は長屋の困りごとには、なにかと相談に乗ってくれていた。

 小袖を纏い、やっと少し落ち着いた様子の娘は、それでもまだ目はうつろで腕は小刻みに震えている。必死に思い出そうとしていたが。方円和尚の、今日の般若湯のお楽しみ時刻はとっくに終わっていた。

「和尚様。実は金杉橋の東たもとでこの娘が倒れており、熱もひどく、拙宅に連れ帰りましたが、自分の名前も、なんでこうなったかも、分からない様子で・・いやはや・・困り果てております」と一ノ辰。

「いやそれは困ったな。今宵はもう遅い。まあしばらく記憶が戻るまで寺で預かることにしようかの」

 方円和尚はじっと娘を見定める。

「それは助かります」

 一之辰と三乃丞は和尚の言葉に救われた。それにしても、どこの娘なのかまずは調べねばなるまい。娘は依然何も覚えていない様子だ。自分の名前や家の在処、倒れたいきさつなどすべてが思い出せないでいた。 

「そういえば、近所に岡っ引きの琴屋の徳蔵がおりましたな。明朝、徳蔵に相談しておきましょう」

 翌朝。一ノ辰と三之丞は鍵屋横丁の通りを挟んだ向かい、 岡っ引き 芝・琴屋の徳蔵に仔細を話し、娘の身元を調べて欲しいと願い出た。

「それはそれは大変ですな。では娘さんは和尚様のところに。早速今日から少し出張って調べてみましょう。記憶が戻ればいいのですが・・親元探しが第一ですな」

 と杓子顔で大耳の徳蔵が引き受ける。

 ふたりが長屋の井戸の側まで戻ってみると、とび職の松吉と煮売屋のおみよが立ち話をしていた。

「そういえばね。昨晩、だいぶ遅くなってからと・・今朝も・・、木戸が開いてすぐに、顔つきの悪い浪人とやくざ風の男が何かぼそぼそ言いながら、娘を探してる様子だったよ」

 おみよが不安げにつぶやいた。一ノ辰と三乃丞は思わず顔を見合わせた。どうも娘を探している様子らしいが、怪しい奴らだ。これはやはり娘を寺にかくまったことは、内緒にしておくほうがよさそうだと考えた。



 朝早いうちから、琴屋の徳蔵は子分の辰に命じ周辺や市内一帯、女の行方不明者の探索を開始した。この辺り、芝界隈だけでなく、神田、上野、両国界隈まで、地域の親分衆のところも確認するようにと。

「親分 合点でござんす! では早速ひとっ走りしてめいりやす」

「辰よ。昼過ぎには一度戻って来いよ。一ノ辰旦那、寺子屋師匠、和尚のところにも、話にいかにゃならねえだろうからな」

 ひょっとこ面の辰は、急ぎ飛び出してゆく。さわやかな秋風が北から吹き抜ける。

 岡っ引き徳蔵のかみさん、しのは琴屋という小料理屋をやっており、徳蔵の探索を陰で助けるしっかり者であった。

 三乃丞が翌日朝方、店を訪れると、しのは昼の準備中であった。

「あら、お師匠様。お早いですね。まだお店は準備中ですが。ああ例の娘さんの件ですね。うちのは、南町の堀井様のところへでかけておりますが。辰には近間だけでなく、神田、上野、両国の親分衆のところへも、回るようにと、昨日から調べ中のようですよ」  

 しのが濃いめの茶を置いた、ちょうどそこへ徳蔵が戻った。

「あ。師匠。今帰りがけに寺によって、みてめいりましたが、娘はだいぶ落ち着いたようです。しかし依然として、はっきりとは思い出せない様子ですが。どこか商家の娘御のようにも思えて、辰には上野から両国あたりまで行方不明の娘がいないか、当たらしておりやす。もうしばらくお待ちください」

「徳蔵親分。すまないね。私も心配でな」

 困っている人間を捨てておけないのが、三乃丞乃の優しさであり性分であった。

「それにおとといの晩遅くと、昨日明け方長屋の木戸あたりを、娘を探す様子の、人相の良くない浪人とやくざ風の男がいたそうでな」

「そうそう、それでござんすよ。娘が何か事件か事故にからんでるのではと目星をつけていますが。しばらく娘の居所は伏せておきましょう。夕刻前には辰も戻り、何かわかるかもしれませんから」

ところで、三之丞は菊池家の三男として、寛政十一年(1670)年築地の生まれである。この元禄元年で十九歳だ。菊池家は三河以来の上級直参旗本二千石で、現当主は、三代目菊池左衛門吉行である。左衛門は、豪商 吉野家光衛の長女とよ十九歳と、二十四歳で結婚していた。とよに、やっと四年後、長男太郎左衛門、また二年後に次郎左衛門がうまれたが、産後のひだちが悪く急逝してしまった。左衛門の嘆きは大きく、目に見えて衰えていった。

二人の幼子の乳母として入ったのが、旗本 田島三蔵の長女みとで 加賀前田藩の正室のお世話をしていたが、戻ってからも独り身の三十一歳である。  その立ち振る舞いや美貌に加え、家裁についてもすっかり任せた左衛門は急に元気を回復した。翌年、祝言を上げ、すぐに三之丞を、また二年後に弥生を授かった。先妻の子二人は普請組の要職につぃていたが、三之丞、弥生はまだ独身である。先妻、後妻ではあったが、四人は年も近くしっかり父母に育て上げられたといってよい。


三之丞は兄たちと五歳から、加納報歳を師として、論語の斉唱から始まり 大学、中庸、孟子、荘子と一通りは学んできた。長男 太郎左衛門とは五つ離れていたが、力量は同じで、報歳も三之丞を、その学びの真面目さ、鋭さを高く買っていた。

学問のみか、七歳から通い指導を受けた剣術も、十五歳では牛込、堀内道場で免許皆伝。学問と剣術が唯一の生きがいであった。兄たちと違い、毎日道場帰りには、江戸市中をくまなく歩きまわり、武士とは別の、生きる道を探していたといってよい。

そんな兄と二歳違いの弥生も又、絶えず三之丞の後をついて回り、花嫁修業はそっちのけで、五歳から薙刀、そして兄にせがんで築地の庭では毎夕刻、三乃丞が道場から帰るのを待って、木刀を取り出し、教えを乞うのが日常であった。

十二歳で、溜池の柳井道場に通いたいと言い出した時、父母ともに止めたが、一切聞かず入門。あっとゆうまに腕を上げ、今では師範 柳井正勝の片腕として代稽古を任されるまでになっていた。

誠に両親の心配は弥生と三之丞の行く末のことであったろう。

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