天を摩る

「ハッピーバースデー」

 大人になってみるか、と差し出されたビールに、あたしは正直に「やだ」って言う。

 成人ていったって飲酒解禁じゃないし、そもそもはるくんに、目の前の禁忌おさけに飛びつくような、そんな愚かな女の子だって思われたくなかった。お酒に興味がないわけじゃない。だけど非処女になったことも黙ってたし、18になった今も長い髪は三つ編みに結ってる。

 陽くんの前では、私はいい子でいたい。

「大人って節制セッセイできる人のことじゃないの?」

「おれのひめも口達者になったもんだ」

 グラスを磨く陽くん……あたしの、七歳年上。彼は、ちらと制服姿のあたしを見た。赤いスカーフ、セーラーとカーディガン、スカート膝丈、靴下真っ白、三つ編みのジョシコウコウセー。きっと陽くんにはそう映ってる。


「高校ももうじき卒業かー」

「そおよ。陽くんの可愛いみおちゃんは就職します」

「早いなぁ。あんなに小さかったのに」

「いつの話よ」

「おれが7歳の時の話」

「あたし、自我ないじゃん」

「そりゃそうだ、赤ん坊だし」


 陽くんはケラケラ笑った。もう酔っ払ってるみたいだった。開店前のバー「フェリス」はまだよそゆきの服を着ていない。化粧も支度もだなのに、店主だけがきっちりとバーテンの服を着て、すっかり出来上がったふうだった。カウンターを隔てて届かないところに、陽くんがいる。大人の気配を纏って。普段とは、大違い。

 あたしは頬杖をついて水を飲む。こうした環境に近い生活を送っていても、ノンアルさえ触れたことがない、誓って、ない。

「澪、こんどさあ」

 ウィスキーの、あたしが名前も知らないような銘柄の、大きなボトルの口を磨きながら、陽くんは言う。

「遊園地行かない?」

「なんで?」

「デートのお誘い」

 密かに高鳴る心臓を無視して、あたしはそっぽを向く。

「デートとかなんとか言って。フラれたんでしょ」

「あーあ。姫にはなんでもお見通しってか」

 そうやって姫とか言って、否定しないところが、きらい。

「遊園地でハメを外したいんなら誰でもいいじゃない」

「澪がいいんだよ。本音で話してくれるし。媚びないし。自然体だし」

 あたしの気も知らないで、知った風な口ばっかり聞くのもだいきらい。

「いつ行くつもり?」

「来週の土曜か日曜」

 でも一番きらいなのは、あたし。

「──日曜の夕方なら、行く。期間限定のイルミネーションが見たい」

 陽くんは微笑した。お父さんによく似た笑顔。

「仰せのまま」

 惚れた弱みでこの人を甘やかしてしまうあたしがいちばん悪い。


※※※


 ゴンドラはゆっくり、あたしと陽くんを乗せて上がっていく。夜に染め上げられていく町並みを背景に、彼はなにかを噛んで含むみたいに、切り出した。

「覚えてる?おれが魔法使いウンヌンって言ったときのこと」

「覚えてるよ」とあたしは言う。窓の外を見てる陽くんから目を離さずに。

 陽くんはあたしの魔法使いだった。物心ついたあたしをおんぶしたり、抱っこしたり、折り鶴を折ってくれたり、怪獣ごっこの相手になってくれたり。

 陽くんが言ったことは本当になる。陽くんが教えてくれるのは世界の秘密。陽くんは……陽くんはあたしのすべて。

 そう感じるたび、あたしは陽くんが大好きになった。大きくなったら陽くんと結婚するって、信じて疑わなかった。何度も言葉にして、陽くんも「うんうん、そのうちな」って言ってた。

 でもある日、陽くんはこう言った。観覧車のてっぺんで、こう言ったんだ。


『おれは、澪の魔法使いになりたい』

『でも、王子様にはなれない』


 あたし、10歳。陽くんが17歳の時だった。

 その時ちょうどてっぺんを差し掛かったゴンドラが、青空をゴリゴリとこすった。そしてそのまま剥がれてきて、あたしの頭の上にゴンって落ちてきた。空が落ちてくるなんて、比喩みたいだけど、ほんとのことだった。

 そのあと陽くんには綺麗な彼女ができた。あたしは重いだけのランドセル背負ったガキで、どうすることもできなかった。空で打った頭のたんこぶは一生消えないと思う。


「魔法使いになりたい、でも王子様にはなれない、って、今思えば相当きざなセリフだよね。言ってて恥ずかしくなかった? 今時映画でもそんなのないよ」

「だって澪はおれのお姫様だったから。それは今も変わらない」

 陽くんがこちらを向きそうだったから、外の風景を眺めることにする。頬に、彼の視線が突き刺さっているのがわかった。あたしは遠くの高校を見た。陽くんの母校、あたしの通う高校。陽くんが通ってたから、頑張って勉強して入った高校。

 ねえ知ってた陽くん。貴方のお姫様はもう純潔じゃないの。一回誰かと試したらなんとかなるかなぁと思ったけど、何か大事なものがべろっと剥がれてどっか行っただけだったんだよ。あたしは少し減った。今も、減ってる気がする。めりめり、り減っていく。男の人と付き合って、「あたしも好きだよ」とか心にもないこと言って、埋めあってるつもりでいるのに、少しずつ減ってる。

 陽くん。あたしは、とっくに敗れた恋から逃げられないっぽい。

 傷心の男と傷心の女を乗せて、ゴンドラは上へ上がっていく。バーのマスターにはとても見えない、奇抜なかっこした若い男と、目いっぱいのおしゃれをばれないように控えめにしたかわいそうな女子高生とを乗せて。


「……澪、おれの何がいけないんだろうな」

「そういうところだよ」

「どういうところ?」

「結婚するつもりが全くないとこ。思わせぶりなことばっかり言って、責任取らないとこ。ふっかけるだけふっかけて煽るだけ煽って肝心なところを詰めないとこ」

「うわ容赦ねえ」

 陽くんはあたしにぼこぼこにされて、あきらめたようにつぶやいた。

「澪にそこまで言われるなんて……そりゃ、俺はダメな男だなァ」

「そおよ。ダメなおじさんだよ。陽くんのこと許してくれる女の人なんかいないよ」

「この世のどこかには居るかもしれないじゃないか」

 目の前にいるよッ!って。

 あたしはこの至近距離で叫んでやりたくなって、こらえる。陽くんがこちらを見たから。せぐりあげてくる絶叫なんかとても受け止められそうにない、優しい顔立ちの男がこっちを見ていたからだった。


「澪みたいな女性ひと、居るかなぁ」


 こいつは本当にダメだ。あたしは失望と同時に目に力を入れる。暗くしたゴンドラの中だから、陽くんはあたしの、すずめの涙に気づいてはくれない。思わせぶりで煽るだけ煽って鈍くて責任なんか取らない男。

「……そうそういてたまるもんですか」

 強がりで言い張った言葉は震えた。陽くんはちらりとこちらを見た。

「イルミネーション、綺麗だな」

「うん」

「バレンタインシーズンだからかな。恋人向けにハートなんか作っちゃって……」


 観覧車のゴンドラが天をる。陽くんは、眼下のイルミネーションの話でもするみたいに切り出した。


「澪もさ。綺麗な女になった」

 あたしは予感する。空が落ちる予感。

 この人が何を言おうとしてるかを大体、察する。

「……いきなり何? どうしちゃったわけ」

「だからさ、もういいんだよ、

 陽くんの雰囲気に呑まれてゆく。バー「フェリス」の店主マスターをやっているときみたいな、濃厚な大人の気配が漂う。あたしはまだ子供だから――圧倒されて、目をそらせない。

「ずっと覚悟してた。俺のお姫様はきっと誰かと幸せになる。なれるよ」

 陽くんは何か心に据えたような顔で、あたしを見つめ返した。その度、ゴンドラが摩った空があたしの頭を打つ。いたい。痛い。

「きみは高校を出たら子どもじゃなくなる。大人の世界に入っていかなきゃならない。……覚悟はできてる」

 降下を始めるゴンドラの中、あたしはひそかに身を縮める。

「なにが言いたいの」

「安心していい。きみは、いつもきれいだ。きっと、いいひとが見つかる」

 痛い。なんで。

「ひょっとして死ぬの? 陽くん。よくある小説みたいに」

「死なないけど」彼は苦笑した。「本当のことを言ってるだけだよ」

「なんで今」

「澪が、大人になったから」


 ああ、空が落ちてくる。夜色した薄い膜が。あたしの上だけにするどく降ってくる。


 陽くんの後ろに、ピンク色のイルミネーションが見えた。恋人たちを祝福するみたいな、うざったいハートの形で。それがゆっくりと溶けて歪んでいく。

 痛いのが頭じゃないことなんかとっくに気づいてる。もう、子どもじゃないから。

「澪、ごめんね」

「さいあく」

 あたしは涙を何度もぬぐった。もう隠しきれなかった。あたしはこの人が好きだ。お父さんの、年の離れた、末の弟が好きだ。

 あたしは、あたしの、叔父さんが好きだ!

「最悪。サイテー。だから彼女と長続きしないんだ」

「うん、……そうだよ」

「いっつもそう。距離詰めるだけ詰めて煽るだけ煽って責任取らなくて最後の一歩を踏み込まなくて」

「言葉もないね」

「一生独身の呪いかけてやる」

「うーん、姫にかけられる呪いってのもなかなか、いいな」

「うるさい、一生独り身でいろ、ばか、あほ」

「……本当にそうしようかな」

「ふざけんな!」

 あたしは、泣いて泣きながら罵って、――陽くんと初めて、ふたりっきりで観覧車に乗ったときのことを思い出してる。つかの間の空中散歩は、幼いあたしに陽くんがかけた魔法だった。

「あたしの魔法使いならあたしを攫ってよ、ばか。ばか……」

 陽くんは聞かないふりをした。してくれた、というのが正しいのかもしれない。

「澪、外見て。雪だよ」

 あたしは膝の上で拳を握りしめた。


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