匂いの記憶

月井 忠

第1話

 まさか、ここまであっさり終わってしまうとは。

 案ずるより産むが易しとは言うけど、ここまで楽勝だとちょっと疑ってしまう。


 教室の壁にかけられた時計を見ると、時間はたっぷり残されている。


 きっと見落としがあるはずだ。


 気を引き締めて、見直しにかかろう。


 大学入学共通テスト。

 私にとって最後の物理は難敵だったはずなんだから。


 ふと右袖に視線を取られた。

 そういえば、せっかく用意したのに一度も使うことがなかった。


 記憶は匂いと強く結びついているらしい。


 だから私は勉強中、集中力を高めるというローズマリーの香りを部屋に漂わせることにした。


 そして今朝、右袖にごく少量のローズマリーのエッセンシャルオイルを垂らした。


 私は匂いに敏感な方だ。

 私にしかわからない匂いを嗅いで、試験中に勉強の内容を思い出そうとした。


 記憶と匂いが結びついているなら、そんなことも可能かなと思った。

 もちろん、こんな小手先の仕掛けを完全に信じていたわけじゃない。


 集中力を高めるという効果も半信半疑だった。


 何もないよりは頼れる何かが欲しかった。

 お守りと似たようなものかもしれない。


 それに、実際には右袖の匂いを嗅ぐ暇なんてなくて、結局最後の物理まで終わってしまった。


 私は右袖を鼻のところに持っていく。

 せっかく用意したんだ。


 何かテストの見落としを思い出すかもしれない。


 すうっと静かに鼻で息を吸う。


 途端に予想していたものと違う光景が飛び込んできた。


 小学生の頃、私は一人の男子にいじめられていた。

 私だけじゃなく、クラス全員の女子にちょっかいを出して嫌われていた坊主頭の男の子。


 彼は五年生のときに転校が決まった。


 私は出発の前日に彼に呼び出された。

 何をされるのかと怯えていた。


 いつも友達と遊んでいた公園。

 彼はそこで、消しゴムを差し出した。


「使ってないヤツだからやる」

 謝罪の品ということだろうか。


 私は消しゴムをくれる意図を聞くことなく受け取って、彼はいなくなった。


 今の今まで、すっかり忘れていた。


 右手を鼻から下ろして、筆箱を取る。


 まさか。


 右袖の匂いはローズマリーが薄くなって、少し違った匂いも混じっていた。

 だから、こんなことを思い出したのだろうか。


 あるいは。


 筆箱の中から、予備の消しゴムを取り出す。


 昨日の夜、試験の準備をしているときに予備の消しゴムを持っていった方が良いと思った。

 机を漁っていると、知らない消しゴムが出てきた。


 記憶の中にあった消しゴムだった。


 だから、思い出したのかもしれない。

 匂いはきっかけであって、この消しゴムを見たことが原因なのかも。


 よく見ると消しゴムには黒い傷のようなものがあった。

 ケースの際についた傷。


 気になってケースから消しゴムを引っ張り出してみる。


 そこには「スキ」と文字が刻まれていた。


 何が?


 書いたのはあの坊主頭で嫌われ者の男子だろう。


 消しゴムのことが好き?

 消しゴムに文字を書くのが好き?


 普通に考えると私のことなのだろうけど、なんで消しゴム?


「そこまで」

 試験監督の声が教室に響いた。


 しまった。


 消しゴムに気を取られて見直しが。


 しかし、さすがに文句を言える状況にはない。

 観念して私は天井を見上げた。


 まさか予備の消しゴムに足をすくわれるとは思わなかった。


 こんなことなら、消しゴムは一つで良かった。

 実際、予備の消しゴムを使うことはなかったわけだし。


 テスト用紙は回収され、もはや打つ手はない。

 こうなったら、自分の出来を信じて祈るしかない。


 筆記用具をしまい、「スキ」と書かれた消しゴムをケースに収める。

 変な謎が残されてしまったけど、この謎を解く機会は訪れそうにない。


 悔しい思いをさせられたので、この消しゴムは帰りに捨ててしまおうか。


 色々と物思いに浸っていると、前にいた男が席を立つ。


 目が合った。


「あれ? カオリ?」


 なんで、あんなことを思い出したのか。

 私はきっと、こいつの背中から僅かな匂いを嗅ぎ取ってしまったのかもしれない。


「マサキ?」


 坊主頭でいじめっ子特有の嫌な顔は、サラサラヘアをなびかせ優しい目をした男に変わっていた。


 手も足も長くて、身長は高い。


 私は驚きで、右手を口元に持っていった。


 将来、ほのかなローズマリーの香りを嗅いだとき、私はこの場面を思い出してしまうだろう。

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