ピント

ナノハナ

ピント

「視力検査します」

 ぼやけた視界。強いていえば。

「……右?」


 大学受験に失敗した。紛れもなく失敗した。何が第一志望だったのかも覚えていないくらいに、実力不足で。

「今日の授業はここまで」

 チャイムのなる前に、筆箱のチャックの音、プリントをしまう音が聞こえる。なんだ、高校のときと何も変わらないじゃないか。

 教室を足早に出る。生徒の喧騒にまみれる。


 駅のホームに着き、文字版をチラ見する。待ち時間、スマホの画面に吸い寄せられる。どこの誰かもわからない人のぼやきを、適当にスクロールして。

「席どうぞ」

「ありがとう」

 知らない少年がおばあさんに席を譲っている。そんな些細な日常が、なぜか心に引っかかる。

 残像のように、遠くの小さな文字がぼやけている。目を覚ませば、目を擦れば、見えるようになると思っていた。でも、落ちた視力は元に戻らない。

 眼科の気球が目にこびりついている。あの気球は、いつか飛んでいくんだろうか。

 Suicaの電子音、連続したピッピッピッという音が、気にならないくらいに耳に馴染んでいる、あるいはぼーっとしている。知らない人の大量の頭、後ろ姿がやけに知り合いに似ていて、過去の同級生の顔をおもいだす。ここにいるわけがないと思いながら、そういえばこんな人もいたなと思う。でも名前、覚えてないな。

 パンポンッと音がして、足止めをくらう。赤く光ったランプ。もう一度タッチしてください。もう一度。

 もう二度とやりとりをしないであろうLINEの友だちもいっぱいいる。フルネームならわかりやすいが、下の名前だけの人の名字が思い出せないことがある。名字の漢字の一文字が浮かんで、はっきりと確信の持てないまま画面を閉じる。

 マスクをすると現実の解像度が下がる気がする。フィルターがかかったように、一段階現実味が下がる。これが自分の人生だという自覚がないまま、映画でも見ているように周りを見ている。家から一歩を踏み出す時に、外で傷つくことがないように作ったフィルターは、心を守ってくれるが、心を躍らせることはない。

 たまに油断して、無防備な心が出ると、容赦なく人に傷つけられる。

 眼鏡越しの世界は、やけにくっきりして、立体的だけれど、偽物を見ているみたいだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ピント ナノハナ @claririri

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る