第36話
「なあ、土屋さん」
次の日。
俺は1人、土屋さんの家へと赴いて勉強会に参加していたのだが。
「……流石に近くない?」
「ええ、そうね。テストは明後日だものね」
「いやいや、テストの日程が近いっていう話じゃなくてね。俺たちの距離の話だよ」
「森本くんの家って、そんなに私の家から遠かったかしら?」
「いやいや、お互いの家の距離の話じゃなくてね。現在の俺たちの座っている距離が近いって話だよ」
松本さんがいた時の勉強会では、松本さんが俺の隣に座り、土屋さんは俺の正面に座っていた。
一方、土屋さんと2人きりで勉強会をしている現在、土屋さんは俺のとなりに座っていて、かつ俺の右肩と土屋さんの左肩はピッタリと密着していた。
こんな状況で、俺が勉強に集中できるはずもなく。
「そんなどうでもいいことに気を取られていないで、今は集中なさい? 明後日はいよいよテストなのよ?」
「その集中を今まさに妨げているのは、どこの誰ですか」
「今日はテスト二日前だけれど、何かテストで不安なことあったりする? テスト中は私が近くにいないのだから、聞きたいことがあるのなら今のうちに聞いてほうがいいわよ」
「こんなに近くで聞く必要はないけどな」
俺がなんと言おうと、土屋さんはこの距離感を改めるつもりがないようだった。
なんだか隣からすごくいい匂いがしたり、肩に柔らかい感触が感じられたり、正直、まったく勉強どころじゃない。
それでも土屋さんの言う通り、1人で勉強をしている時に、テストの範囲で気になった部分ができていたのは事実だった。
とりあえず俺たちの距離のことは置いておいて、気になっていた部分を土屋さんに質問してしまおう。
「……ここの問題とか、ちょっと曖昧に理解しちゃってる部分があって」
「どれどれ?」
「これ以上近づくのは本当にまずいって!」
それから俺は危なげなくも、土屋さんに質問をしていった。
俺の質問は教科を跨ぐ広大な範囲による質問であったが、1つ1つの質問を、土屋さんは頭の弱い俺にも分かるよう、噛み砕いて解説してくれた。
土屋さんは解説の最中に、教科書や参考書をチラ見するといったこともなかった。
「……本当に土屋さんはすごいな」
1通り、土屋さんに質問をし終わった後、俺は思わずそんな感想をもらしてしまっていた。
「勉強もできて、スポーツも万能。クラスのみんなからもよく慕われているし、いつだってクラス……いいやもはや、いつだって学校の中心にいる。どうしてここまで、ストイックに自分を追い込めるんだ?」
それはふと気になったことを、そのまま質問にしたものだった。
フランクに聞いたつもりのものであったし、その質問に対する回答は、明るいものを想像していた。
しかし土屋さんの回答は、少し重たいものだった。
「私ね、父親がいないのよ」
「……え?」
「私が中学生の時、脳梗塞で死んじゃってね。だから今は、この家で母親と2人で暮らしているの」
「…………なんか、ごめん」
「謝らなくていいのよ。私が森本くんに話したくて話したことだから。それにあなたにはもっと、私のことを知って欲しい。迷惑じゃ、ない?」
「……ぜんぜん」
良かった、と言ってそのまま、土屋さんは話を続けた。
「私の父はものすごく厳格な人でね。今思えば、厳しすぎる指導も受けていたな、と思うこともある。けれどその厳しさは、私への愛ゆえのものだということを私も理解していたし、今でも私は父の事を尊敬している。だからこそ、父には安らかに眠って欲しかった。もし自分が死んだ後、可愛い娘が不良娘になっていたら、穏やかに成仏できないでしょう? だから私は学校で常に好成績を残すように、意識するようになった」
まさか土屋さんにそんな事情があっただなんて、俺は思ってもみなかった。
こんなお洒落で豪勢な一軒家に住んでいるのだから、俺は土屋さん一家が幸せいっぱいの順風満帆な家族であると、そう勝手に思い込んでいた。
「……それに私ね、みんなが思っているほど、完璧じゃないのよ」
「え?」
「父が死んで1年経った今だって、ふとした瞬間に堪えきれずに涙をこぼしてしまうことだってあるし、勉強もなにもかも投げ出してしまいたくなることもある。学校では完璧を貫けているけれど、家に帰ればその完璧もことごとく瓦解する。暗い感情に囚われて、弱気になって、何も出来なくなってしまう事もしばしば。休みの日には無意味な時間を自堕落に過ごしてしまう事だってある。……だから本当は私、完璧じゃないの」
そう言いながら、土屋さんはその頭を俺の肩に乗せてきた。
それは俺が初めて見た、弱気の土屋さんだった。
土屋さんはいつだって強気で、やる事為すこと完璧で、誰からも認められる優等生だ。
でも今、俺のすぐ隣にいる土屋さんは、そんないつもの様子とは、とてもかけ離れた姿だった。
「こんな私を見て、森本くんは失望した?」
「……失望なんて、しないよ」
「そっか。良かった」
俺たちの間に、しばらくの静寂が訪れる。
俺はこういう時、何か気の利いた言葉をかけてあげられるほど、人生経験が深くない。
土屋さんの悲しみや苦しみをすべて分かってあげたいけれど、なにもかも平凡な俺には、すべてが想像の域で留まってしまう。
実際に、その状況に陥ったことがある人じゃなければ分からないことなんてごまんとあるだろうし、俺みたいなやつに分かった気になられるのも嫌だろう。
……これは図々しくて余計な推測だが、土屋さんは誰かに甘えたいんじゃないかと思う。
土屋さんも1人の人間だ。
土屋さんはいつも完璧を装っていて、1人逞しく生きていけているように見えるけれど、誰かの肩に頭を預けたくなる時だってあるに違いない。
土屋さんには甘えられる存在として、まだお母さんがいるかもしれないが、そのお母さんだって土屋さんと同じ苦しみを味わっているはずだ。
一方的に甘えるようなことを、土屋さんは絶対にしないだろう。
そんな土屋さんの置かれている状況を知って、俺は……。
「…………ぇ?」
「い、嫌なら言ってくれ。俺なんかに頭を撫でられても嬉しくないかもしれないけど、今の俺にはこういうことしか——」
「嫌じゃない」
「え?」
「嫌じゃない、から…………やめないで」
「わ、分かった」
俺はそっと優しく、土屋さんの頭を撫で始めた。
「……んっ」
俺に頭を撫でられ始めると、土屋さんはなんだかとろけた表情になり、これまた初めてみる土屋さんの表情だった。
土屋さんの髪は信じられないくらいにサラサラで、撫でている俺もなんだか心地が良かった。
「意外と、手おっきいんだね」
「そうか?」
「……うん、安心する」
「それはなによりだ」
「1日の半分はこうしていたいくらい」
「それは俺の手が腱鞘炎になるな……」
すぐそこに土屋さんの顔がある。
土屋さんはやっぱり綺麗で、まるで彫刻のような美しさを誇っていたけれど、なんだかいつ崩れ去ってもおかしくない危うさもはらんでいるようにもみえて。
数分ほど、俺は土屋さんの頭を撫で続けただろうか。
優しく穏やかな時間がそこでは流れていたが、そんな時間はいつも、唐突に終わってしまうものだ。
おもむろに、土屋さんの部屋のドアが開いたのだ。
「!?」
ドアの向こうにいたのは、土屋さんによく似た美人な女性だった。
俺より年上なことは察することができたけれど、俺とそこまで年が離れていないようにも見受けられる。
その女性が誰なのかは知らないが、今のこの状況を第三者に見られたのはまずい。
俺と土屋さんは至近距離で触れ合っていたし、部屋で変なことをしていたと勘違いされても、文句は言えない状態だったからだ。
何か言わなければと、足りない頭に必死に思考を促すも、突然の出来事に俺は口をパクパクさせることしかできなかった。
その間に、目前の美人の女性は、俺たちの様子をじっくりと観察した上で——。
「……えーと。とりあえず、婚姻届もらってくるわね?」
「うん。よろしくね、お母さん!」
「え!? お、お母さん!? ちょ、ちょっと待ってください!」
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