二度目の異世界では初恋の王子さまと婚姻(契約)することになるそうです……って、えっ?

石濱ウミ

第1章 嗚呼、懐かしき(?)再びの異世界

1-1話目 

 

 

 記憶とは実に曖昧なものだと思う。

 手繰り寄せたいと願う思い出は、時が経つほどに霧雨のような紗をかけ、模糊として切ない。

 

 七歳だった。


 ピアノの発表会で演奏を終えた私は、深々と一礼をし、舞台の袖の暗がりに向かって歩いていた。

 緊張からは解放されたものの、本番でミスタッチをしてしまったことが尾を引いて、ともすれば込み上げる恥ずかしさと悔しさから涙が滲み、笑顔なんてつくることは出来なかった。

 練習ではちゃんと出来ていたのにと、やや俯きがちに唇を噛み締めたまま、舞台袖で次の演奏者とすれ違ったその瞬間、ふらり、と眩暈がした。

 思わず目を瞑る。

 厚い袖幕が腕に触れた。

 倒れまいとして私は、縋るように袖幕に手を伸ばした。

 それなのに……。

 次に目を開けたとき、蹲る私の手が掴んでいたのは、真っ白なテーブルクロスだった。

 目を落とせば、芝生のような柔らかな草の上に広がるベビーピンクのシフォンドレスの裾がある。

 なぜどうして、とか。

 いったいどうやって、とか。

 ここはどこなんだろう、とか。

 疑問が浮かぶより先に感じたのは、圧倒的な恐怖。

 そうやって唐突に、私の世界は変わってしまった。

 生活習慣も言葉も違う場所でおよそ三年。

 言葉を覚え、周囲に心を開き始め、それでも夜になれば両親を恋しく思い、泣きじゃくりながら眠りにつく毎日が少しずつ減ってきた頃。また突然に、元の世界へと戻って来たのだった。

 私の向こうの世界で暮らした三年という短いようで長い不在は、様々な憶測を呼んだ。

 ここではないどこか。

 知らない人と暮らした日々。

 『異世界』などと、ひと言で説明のしようもない私に於いても不思議の、その、三年。

 話せることは、何もなかった。

 到底、信じては貰えないと、話す前から分かっていたからなのかもしれない。

 帰ってからも暫くの間、両親から腫れ物に触るように扱われた私が最初にしたことは、向こうの世界を一日も早く忘れようと努めることだった。

 そうすれば、両親にとって私の不可解な不在は、無かったことになるのではないかと思ったから。

 そんなわけないのに。

 私は、向こうの世界の記憶の蓋を閉め鍵をかけ、心の奥に仕舞うことにしたのだ。

 だがそれでも時折り懐かしさに駆られ、後ろめたさと共に、こっそりと鍵を開け蓋を上げ覗き込むことがある。

 王子さまが居て、魔法がある。

 不思議な御伽噺のような世界。

 悲しいことや辛いこと、悔しいことがあったときには、特に、彼らに会いたくなる。

 優しく微笑むアル兄さま。

 負けず嫌いのエド。

 泣き虫のオリくん。

 三人が居てくれたからこそ、私は向こうの世界を生きることが出来たのだから。

 時を経るごとに朧げになってしまった彼らの姿は、まるで夢の中の出来事と同じように頼りない。


「……依茅花いちか?」

「うん、大丈夫」


 決して泣くまいと、無理矢理に唇を引き結ぶ。別れ話を綺麗に終わらせる必要なんてどこにもないけれど、振られる私のせめてもの意地だった。

 

「残ってる荷物は捨てて構わないから」


 玄関の前でキャリーケースを片手にした彼は、長期の出張へ行くようにも見える。

 四年と少しの同棲生活で増えた家具、どちらの物ともいえない食器やタオルなどの思い出の詰まった細々としたものなどを思い浮かべては、それら全部の感情の処分さえをも私に任せ、残し出て行く彼が憎い、と思った。狡い、と思った。一切を捨てることに躊躇のない彼を捨てきれない自分が、悔しかった。


「うん、じゃあ元気でね」


 だから、嘘だ。

 そんなことは全く思ってない。

 怒鳴って詰って罵りたい気持ちを、ぐっと飲み込んで、にっこり笑う。

 震える手を気取られぬように、爪を立てて握りしめて「優奈によろしく」と続ける。

 優奈の名前を出したことで、それまで澄ましていた彼が分かりやすく狼狽えた姿に、ほんの少し本当に少しだけ、溜飲を下げた。

 親友だと思っていた子に恋人を取られる。

 つまりは、私という存在は彼ら二人にとってその程度のものだったというわけだ。

 いつから裏切られていたのだろう。優奈が妊娠しなければ、この奇妙な関係はどこまでも続いていたというのだろうか。なんとも醜悪で、間の抜けた話だ。

 気づけなかった鈍感な私も、都合の悪いことから目を逸らしていた優奈も彼も、愚かで最低で最悪だ。


「ああ。じゃ、依茅花いちかも元気で」


 玄関が、閉まる。

 足音が、遠ざかる。

 脱ぎ捨てられた、くたびれたスリッパに気づき、震える手で拾い上げた。扉に向かって投げつける。ねえ、これぐらい自分で捨てられるんじゃないの、と。

 リビングに戻り、沢山の物で溢れる部屋の中を見渡す。出来ることなら、私だってこのまま何もかも放り出してしまいたかった。不意に、二人で仲良く内覧したときの、あのがらんとした何もない部屋を思い出し、全てが、パッと消えてしまえば良いのにと思った。

 それよりも私の方が消えてしまえれば、もっと良いのに。

 投げやりに、そんなことを考えた所為なのか、眩暈を覚えた私がソファに身体を投げ出し、目を瞑ったほんの束の間。

 

「……誰だ?」


 たった一人きりの部屋。聞こえる筈のない知らない声に驚いて目を開ける。

 そこに居たのは、肩の辺りまで伸ばした緩く波打つ白金髪プラチナブロンドに、宇宙から地球を見るような青みが強く複雑で美しいアース・アイの瞳を持つ整った甘いマスクの男性。

 見たことのないほど綺麗な人。それなのに、どこか懐かしさを覚えるのは、なぜだろうと首を傾げた。

 ゆったりと長い歩幅で近づいて来る男性から、目が離せない。


「ここは****と知って***とは随分****ではないかな? 君は一体***で、どこから**だろうか」


 そういえばどうしてか耳慣れぬ言語なのに、ところどころ意味が分かる、ということに唖然となる。

 もしかして。

 ここは……。


 いつのまにか目の前まで来ていた男性が、何かに気づいたように、ぴたりと足を止めた。向けられていたこれまでのきつい眼差しが、僅かに迷いを見せた後でふと和らいだ。


「…………イチカ?」


 まさか、そんな。

 息を止めてしまった私を見つめ、囁く声は優しく響いて聞こえた。

 あの頃とは違う低い音。


「あ、あッ、ああ、あ、アル兄さま……?」


 まるで息継ぎの仕方を忘れ、薄い空気に喘ぐような私の問いかけにも気にする様子を見せず、その人の形の良い唇は、溢れそうなほど甘い笑みを湛えた。


「どうしたの? イチカ。私たちの可愛い妖精さんは、もしかしてまた、迷い子になってしまったのかな?」






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