第9話 執事とトリガー

 アカネは、今日の食事をパスタにしようと思い、必要なものを近くのスーパーで購入していた。

小さいレジ袋を持ってホテルに戻る。 

部屋の鍵は閉まっていた。私が鍵を閉めたのだから、当然ではある。

なのに私は、胸騒ぎがした。

鍵を急いで開けると、靴箱に何故か彼女の靴が無い。ジュンカは警察に追われている身だから、絶対にホテルから出ないと以前から約束していた。

「ねえ、ジュンカ、ちゃん……? いるんだよね、ちょっと、答えてよ……」

私達が借りている部屋は、白昼夢のごとく静まり返っていた。

私は、心臓の鼓動が早くなるのを感じる。

「ど、どこに行ったの……? サプライズとか、やめてよね……」

トイレも、バスルームも、ベランダも探した。


誰も居なかった。

彼女の持ってきたサングラスだけが、ソファーに無造作に置かれていた。

私は、走り出した。ロビーに行き、外に出るために私は非常階段へと走ろうとした。

……私の本能が、足を止める。

エスカレーターへ繋がる通路の端に、まだ未開封のコーヒー缶が落ちていた。

部屋へ行く途中に、彼女が「このブラックコーヒー、案外美味しい……。もう一つ買おうかな……」と言っていたものだ。

触ると、本当に微かに温かみを感じた。


アカネは、涙を流すしか無かった。 



 その頃、ジュンカは誘導されて今はもう使われていないビルに入らされた。

そこにはところどころ蜘蛛の巣があり、少し埃っぽい。窓ガラスの大半は壊され、落書きも目立っている。

私は、エントランスの真ん中に置かれていたアームチェアに座った。

彼は微笑む。

「改めまして、こんにちは。ジュンカお嬢様。今日まで、元気にお過ごしでしたか? 」

……ジュンカの目に、光は宿っていなかった。

「私のという肩書を使って、アナタは一体何をする気なのですか……? 」

彼の右目の片眼鏡モノクルが光る。

「そんな冷たいこと言わないでほしいですねぇ……まさか、わたくしの名前は忘れてしまいましたか? 」

外の少しばかりの喧騒が、恐ろしく懐かしいものに思えた。


「……リカルド・ビアッジ」

彼は「良かったです」と言ってから、彼女に一歩近づいた。

「ジュンカお嬢様は、随分とお変わりになられましたね……本当に……」

ジュンカは、もう一度言う。

「アナタは何をするために、私をここに連れてきたのですか? 」

リカルドはあの頃と変わらない笑顔で言った。


「ジュンカお嬢様を、母国ニホンへ連れて変えるためです」

彼女は、椅子から立ち上がった。

「貴女が必要なんですよ、チャムロ家は。、戻ってきてくれませんか?」

私は、彼のもとに向かって歩き始める。拳銃を出し、すぐに銃口を向けた。

彼はなお、みをこぼしていた。

私は言う。

「絶対に、私は……あの場所には戻らないから……」


彼は残念そうな顔をした。

「待ってください、そんな道具で脅さないでくださいよ……。これでも元執事ですから、武器の扱いには自信がある方なんですよ……」

彼は、拳銃を取り出す。

だが、リカルドはジュンカを撃つことはなかった。

彼は、昼間の光に照らされて笑っていた。

わたくしの役割は、貴女に傷一つつけずにニホンまで運ぶことです。この拳銃は貴女を脅すための道具なだけです。ちなみに、アカネお嬢様は人質とさせていただきます。特に今はアカネお嬢様を捕らえる予定はありませんが、もし妙な行動を取ったときには彼女の命はないと思ってください」

私は思う。

何故、全く関係のない彼女が巻き込まれるのだろう。

理由は簡単だ。

私が、彼女と共に過ごしたからだ。


深く、深く後悔した。

しかし、ここで立ち止まっているわけにはいかない。

「リカルド、アナタは今協力者がいないんじゃないですか……? 」

彼は答えなかった。

「防犯カメラ管理制御を停止させた先程のホテルマンは、ただの日雇いでしょう? 仲間がいるなら、とっくに集まっているはず、ですよね」

彼は答えなかった。

私は再度銃を構える。

リカルドは表情を変えずにいたが、私が本当に引き金トリガーを引こうとしていることが分かると、瞬時に後ろに移動した。


サイレンサーを通して発射された弾は、彼の右腕を貫通した。

彼は今日私に会ってから初めて驚いた表情を見せる。そして、高笑いした。

「本当に、変わってしまったんですね……ジュンカお嬢様。貴女が、執事に向かって拳銃のトリガーを引くとは、思わなかったですよ……」

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