コミヤ読切劇場
小宮雪末
混濁セレモニー
孤独で満たした地獄があるというなら、きっと僕がいる、今の日常がそれだろう。
そんなことを思いながら、僕はじっと手首を見つめる。カミソリを持って。
「もうお前林と結婚しちゃえよ!」
いつものような下校途中。
仲のいいクラスメイトと、ひょんなことからクラスの女子の話になって、僕はそいつをそう茶化した。
便乗して他の奴もわいわい口を開きはじめて、話題に挙げられたそいつは、まんざらでもないような顔で、だけどそれをごまかすように「お前らふざけんなよ!」と喚く。
そうして腹を抱えて笑いながら、僕たちは帰路につく。
よくある話だ。
笑う話なんて、他人を引き合いに出したら大抵盛り上がる。意地悪な話なら尚さらだ。
「じゃ、おれここだから」
通り過ぎる家並みから漂う、夕ごはんの香りをいくつもくぐり抜けて。
そうして、ひとしきり喋りながら足を動かしていると、家の前に着いていた。
今日の冷やかし役だった僕は、そのままの勢いを持ったまま、クラスメイト達に軽く手を挙げて「また明日」と叫んで、門を開き、家の扉に小走りで寄る。
途中、挨拶の余韻がいくつか背中に返ってきて、それに最後に一声だけ返すと、ようやく僕は家に入ることを許された。
にやにやしながらドアを開いて、後ろ手で閉める。
カチャンと音をたてたドアに背中を預けると、それっきり、僕の回りは驚くほど静やかになってしまう。
黙り込んだ僕の耳には、もうクラスメイト達の笑い声も遠ざかって、車の走行音なんかに混ざって、溶けていって、どれが誰の声かも分からなくなってしまっていた。
ため息が重たく漏れる。
鞄が肩からずり落ちる。
そして、騒音も馴染んだ声も、小気味がいいくらい、どれも一緒になる……。
ドアを閉めてすぐに引きはがした笑顔は、どこにもない。
僕は、微笑みすぎていた顔から、いっそ筋肉が流れ落ちるんじゃないかと勘違いしてしまいそうになるくらい力を抜いた。
玄関に突っ立って、ぼんやりと外の音に聞き耳を立てて、玄関と廊下の境にある段差に視線を落とす。
狭い玄関には、母がガレージまで行くのに使ってる突っかけがあるっきりで、他に靴は並んでいない。
ふっと思い出したように「ただいま」と、いっそ開かなければよかったくらい虚ろな声を口にしても、返ってくる言葉もない。
それはそうだ。
そう納得しながらも、それならどうして口にしたのかが自分でも分からないまま、僕は自分が生み出した、余計なもやもや感に包まれて、靴を脱いだ。
家の中は静かだ。
赤く染まる間際の夕方の、外の光に、リビングと、篭った空気ですらも照らされて見えて、僕は換気の為に庭に繋がる窓を開ける。
ぶわっと風が入ってきた。
部屋に充満していた馴染む香りが、全部まぜこぜになる。
しばらくほうけたまま、風に髪や服を好きなようにさせていたけど、やがて込み上げてきた感覚にふらりと足を動かすと、衝動の赴くままに脱衣所まで向かった。
脱衣所を抜ける。
バスルームに入る。
湿気が篭ってむわりとしている。
踏み込めば靴下の裏が濡れる。
けど、それどころじゃない。
僕はどすどすと荒くバスルームに入ると、その一角にある、シャンプーが納まった棚に縋るように手を伸ばして、ひとつのカミソリを掴んだ。
これが、僕の最近の日課。
こうしてじっと、カミソリと手首を見る。見つめ続ける。
今か、今かと、刃を食い込ませようとするかのように。
だけど別に、何をすることもない。
刃と肌を穴が空くほど見つめ続けて、時間が来るとまた棚にカミソリを戻す、をいつも単調に繰り返す。
ただそれだけ。
これは僕が始めた、この日常で、僕の中の僕を生かし続ける為の、唯一の儀式みたいなものだった。
始めの目的は、自傷行為だった。
日常のやりとりに、煩わしさとくどさと絶望を覚えるなんて、みんなよくあるんじゃないか?
僕はどうやらその胃もたれするような想いが、いつだったか振り切れたことがあって、その時に半ば衝動的にここへ飛び込んだ。
その時は、持ち手も刃も確認しないままにひっ掴んで、思いっきり横に滑らせようとした。
だけど、できない。
掴んだきり僕は固まってしまって、以来毎日ここへ来ては、頭の中で手首を何度も傷つけるイメージを強くするようになった。
それこそ、胸が締め上げられるような、悲鳴を上げたくなるような感覚に、自分が追い詰められるまで。
それでも、刃を肌に当てたところで満足してしまう。
安心してしまう。
あー。なんかまだ僕は大丈夫なんだ、と根拠も余裕も枯れ尽くしてるはずなのに、思ってしまう。
本当は大丈夫なんかじゃない、と叫びたい気持ちはあるのに。
けど、まだ何かを望んでしまってる僕がいた。
「もうすぐだから」
あれ?
ぽつり、と口からそんな言葉が漏れてから、そう思う。
同時に、下校時の他愛のない会話や、今の人間関係の情報が、ざあっと頭の中を過ぎる。
同時に血の気が引くような冷えが耳の後ろから競り上がってきて、吐き気が込み上げてきた。
この感覚は僕は飽きるほど味わった。
絶望だ。
やっぱり、無理。
僕はクラスメイトを、友達と呼べない。
これは僕の、昔から積もりに積もっているしつこい悩みだった。
前に誰かに「人付き合いがいい」「人当たりがいい」なんて言われたから、多分そうなんだろう。
けど、それでも心の中では釈然としないものがあって、いつもそれが、僕を責めるように見つめているような気がしていた。
ああ、悍ましいったらありゃしない。
この皮膚という皮膚の裏に、びっしりと小さな毛が生えたような感覚に、今すぐこのカミソリで全ての肌を、バリバリとめくり削って排水溝に流して、剥き出しにした肌を食器用洗剤で綺麗にしたい。
そうすることがもしかしたら常識なんじゃないだろうか。
みんなやってるんじゃないか。
そう思ってしまう僕は、なんだかもう駄目だ。
ああ、悍ましい悍ましい――悍ましい。
カミソリを握る手に、力がこもる。
心臓がバクバクいってるけどそれよりも、喉の粘膜の渇きが気になる。
感情が鼓動に合わせて、ドクリ、ドクリと高ぶる。
振り切れる。もうすぐ振り切れる。
きっと僕は今日こそ首を掻き切って死んでしまうんだ。死んでしまうんだ。
「敬、帰ってんのー?」
ドンッ、と急に拳で背中を殴られたみたいに心臓が跳ね上がった。
声のした方を振り向くのと、カミソリを投げ捨てたのはほぼ同時で、そして姉が顔を出すのも同じだった。
「お、かえり」
「お帰りじゃないし」
むっと口を尖らせて脱衣所の棚を向く姉は、よく見たら買い物袋を下げていた。
中から洗剤を取り出して、洗濯機の上にある、備え付けの棚に片付けていく姉を見ていると、その間姉は少し怒った口調を保ったまま、話しつづけた。
「なーんか靴ポンポン脱ぎ散らかしてるし、窓開けっぱだし、鞄放置してるし、その歳でみっともないよ。お風呂掃除はありがたいけど、せめて靴くらいは揃えてよね」
「ごめんごめん」
へらっと笑うと、姉は「軽……」と呆れたように口にして、僕を振り返る。その顔はもう怒ってなかった。
「早いとこ済ませなよね」
「うん」
返事をすれば、宜しくと言って戻ろうとする。
で、「あっ」と思い出したように声を上げると、引っ込めた顔をまた出して、にこにこしてこう言ってきた。
「敬、たまにはホットケーキ作ってよ」
「は? なんで?」
「前はよく作ってくれてたじゃん」
「前って……」
小学生の頃のこと?
だとしたらどれだけ前のことを言ってるんだろう、この姉は。
薮から棒にそんなことを言い出した張本人は、それでも「敬のがいい」と言う。
なんだか呆れてしまって、僕は笑って首を横に振った。
「やだよ。母さんに作ってもらえば?」
「敬のが焼くの上手じゃん。焼いてよ。焼いてくれるでしょ? 約束だからね!」
「あ、えっ――」
「よろしく!」
「ちょっと待――、オイ!!」
叫ぶより先にスリッパの音は遠ざかっていた。
前から思ってたけど、なんていう、自由人。
いつもいつも突発的に、何かしら程よく守れる約束を強引に取り付けては、僕より二つ上の姉は素早く走り去って行く。
押し付けられた約束にぽかんとしてる僕の耳には「あとお風呂掃除もよろしくー!」なんていう声も随分遠くから聞こえた。
呼び止められないまま、約束を跳ね返すこともできないまま、湿気た空気を吸って吐いてを繰り返す僕は、なんだか馬鹿みたいだ。
「……しょうがないな」
言い出したら聞かない。
約束とやらを破れば激昂する。
釈然としないながらも、姉のそれは心底嫌いになれないから、尚さらたちが悪いと思う。
ため息を長く吐き出すと、僕はシャワーを手に、蛇口を捻る。
途中、乱雑に床に転がったカミソリに目が留まった。
ああ、なんかまただな。
心の声は不思議と落ち着いている。
どっしりとした重みが消えうせて、さっぱりとしていて。
また僕はいきそびれてしまった。
その現実はきっと、明日の僕にのしかかって来るんだろうけど、それでも僕は思うんだ。
「まだ、大丈夫」
呟くと、少しして例のスリッパの音が近づいてきた。
僕はカミソリを拾い上げると、シャンプー棚に放り込んで、収まったそれを見つめる。
孤独で満たした地獄がある、なんて誰かが言ってた。
僕がいる日常はそれに似てるけど、どうやらそうじゃないらしくて、その上名前が分からない。
カミソリを見つめながら探しても、結局今日も見つからない。
僕は僕の名前を賑やかに呼び続ける声に、うっとうしげに応えると、シャワーを止めて、バスルームから出る。
もう肌の下には、何もなくなっていた。
混濁セレモニー 了
2012.11.14
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