Track.2 Retrace 「5」
***
一瞬の静寂の後、リニア・イベリンは物凄いスピードで前に飛び出た。狙うは男の腹部。1、2、3と右足で連撃を繰り広げ、そのまま左足で男の顎を思い切り蹴り上げた。
ハンスは唇の端から零れる血を拭い、数歩後ろに退く。しかしリニアの攻撃は止まない。
彼女はハンスとの距離を一気に詰め、今度は腕を狙う。リニアの重たい蹴りを両腕で受け止め、男の動きは鈍くなった。そこを休むことなくリニアは攻め込む。
目の前で繰り広げられる超人同士の戦いを、鈴木はただ呆然と見つめていた。事実、彼にはリニアの攻撃を全て把握できていなかった。彼女の攻撃はあまりにも素早すぎて、ある程度の武術経験がないと目が追いついていけない程だ。
おそらく今までで一番重たいリニアの蹴りが、ハンスに入った。思い切り腹部に受けた彼は衝撃で後ろに追いやられるが―、彼は倒れなかった。
そして何事もなかったかのように、襟元を直して服をはたく。まるで痛みを感じないロボットのように平然とした表情をしていた。対する、リニアも一切動揺を見せずに呼吸を整えている。いや、彼女の額にはうっすらと冷や汗が流れていた。
表向きは鈴木に笑いかけていたが、リニアは内心非常に焦っていた。彼女の目論見では、先ほどの一撃で相手を倒すとは行かないまでも、膝をつかせるつもりでいたのだ。
―これは中々、手ごわいわね。
***
先ほどからリニアの攻撃はしっかりハンスの懐に入っている。格闘に詳しくない俺でも、彼女の一撃、一撃の重さは常人とは比べ物にならないほどだろう。しかし、ハンス・ブリーゲルは倒れない。
ましてや痛みを見せる表情もしない。
おかしい……あの銀髪の魔法士、リニア・イベリンの攻撃だ。いくらなんでも無傷のはずがない。何かを仕込んでいるとしか考えられない。
瞬間、ハンスは上着を脱いだ。俺もリニアも息を飲む。
彼が脱いだ上着には大量の拳銃と短剣が仕込まれていた。そして、ハンス自身の身体には記号のような文字がびっしりと書き込まれていた。
それを見てリニアの顔はより一層真剣なものへと変わる。やはりそうだ。彼の身体に書かれているのは魔法だ。おそらく防御魔法のようなものだろう。あれでリニアの攻撃を防いでいたに違いない。なるほど、彼が言っていたのは攻撃に魔法を使うなと意味だったのか。勝負は攻撃と防御の使い分け。魔法を一切使うなという意味じゃなかったのか。
くそっ、盲点だった。
「それでは、失礼いたします」
ハンスはリニアと同等の早さで距離を詰めてきた。しかし彼女のように猪突猛進ではなく、頭を使っている。彼は俺に向かって攻め込んできた。急いで躱そうとするも、達人に追いつけるわけがない。
鋭い痛みが腹に響いた。全身に電気ショックを食らったかのような痺れが走る。
ハンスは俺に一撃を加えた後、そのまま方向を変えてリニアの方へと向かった。彼女は俺に気を取られていたのか、受け身が一瞬遅れてしまった。しかし、その遅れが命取りだ。ハンスの蹴りを上手く受け止められなかったリニアは、壁に向かって後ろへ大きく弾き飛ばされてしまった。
リニアはなんとか態勢を整え直すが、左腕を押さえている。
「けほっ」
思わず口から血が飛び出た。これが噂の鉄の味ってやつか。頭が非常に痛む。生きているということは相手が多少手加減をしたということだろう。いくら初期魔法とはいえ、俺の攻撃が邪魔になるのは明らかだった。一騎討ちに持ち込んで得意の格闘で勝負する方が得策なのは当然だ。
態勢を立て直したリニアだったが、手傷を負って動きが鈍っていた。ハンスはそんな彼女の様子に構うことなく、全力で攻撃をしかけていく。数手まではなんとか捌き切っていたリニアだったが、左腕の痛みに反応が遅れてしまったようだ。重たい一撃が彼女の脇腹に入った。勢いよく壁にぶつかり、リニアは悲鳴を上げる。
俺の視界も霞んできた。
「冗談じゃねえぞ……」
このまま気絶なんかしてたまるか。俺はまだ生きてる。
なら、まだやれることがあるはずだ。
考えろ……考えろ……!!
「一つ目のミス、相手の力量を正しく判断しなかったこと」
ハンスは倒れこんだリニアの元にゆっくりと近づいていく。
「二つ目のミス、理論をそのまま鵜呑みにしたこと」
一歩、そしてまた一歩近づいていく。
「三つ目のミス……いや、これは言わなくてもわかりますね。せめてもの、苦痛なくお送り致します」
「ふざけんな!!」
俺はハンスに向かって、全力で紙を投げた。
これで相手の動きを封じ込めさえすれば……
「私が君を無視したと思っていたのですか?とんでもない、君が最大変数だから初めに消したのですよ」
男は腰に下げていた小さな短剣を二つ、俺に向けて投げた。
片方は俺の手に、もう片方は紙に吸い込まれた。
「勝手に……殺すんじゃ……ねえ」
痛みに慣れていないせいなのか。俺は霞んでいく視界に抗えなかった。
***
「カミュはいつもぶらついていた。自殺と反抗の中で。光と闇の中を歩きながら、魂と肉体の間を。 価値と存在の間を彷徨した男。『存在は本質より先にある』。私はこの言葉がとても素敵に感じた。本質は外にある概念や価値に基づいて規定されたことにすぎない。 存在そのものが持っているものではない。 我々は存在するから、ここにいる。本質なんてものは後付けにしかすぎない。私は本当に彼の哲学が好きだ」
「遺言はそれで全部か?」
「ああ」
「最後の言葉がアルベール・カミュか。笑わせるな」
「知っているか?『我々は人生に何か意味があると信じている。そのために人は理性をもったと言われている』。私は、この理論大嫌いだ」
「人間性を望んでいるのか?」
「まさか。そんなものはいらない」
「俺は……絶望しか待っていないと知りながら、何度も何度も岩を運ぶ存在が人間の真の姿だと思っている」
「ほう、その部分知っているのか」
「ああ、だいぶ前に友人が聞かせてくれた。それじゃあ……ここまでだ。御苦労だったな」
「虚無に囚われ自己を忘れる。それが人間の本性とは……これだから私は哲学なんてものは嫌いなんだ」
***
研究所の尖兵であるノエルは、焦りの表情を隠せずにいた。まさかあのタイミングでハンス・ブリーゲルが乱入してくるとは思わなかったのだ。急いで身を引いたノエルだったが、彼の気配に気づいていなかったら今頃死んでいるに違いない。研究所の者だと分かった瞬間、慈悲はないだろう。何しろハンスは研究所をひどく嫌悪していると彼らの世界では有名なのだ。
「このままじゃ引き下がれない……」
観察対象である鈴木聡太に顔を見せたところまでは良かったが、ハンス・ブリーゲルに感づかれてしまったことにより、彼女に課せられた任務の難易度は上がってしまった。
ノエルは一人、部屋の中で爪を噛みしめる。
「私は一体どうすればいい……真田ちゃん」
少女の顔には疲れが出ている。ノエルは膝を抱え込んで、顔を腕の中にうずめた。
―このまま時間が止まってくれれば。
「……っ!!じゃない。駄目だ、挫折しては駄目」
つまらない感情は捨てろ。それが研究所の教えだ。
自身を鼓舞してノエルは顔を上げる。逆に考えれば、協会側の人間と魔女側の人間をまとめて処理できる機会ではないか。
ノエルは無理やりにでも前向きに捉えることにした。
そして、再び昨日の場所へ向かう準備をする。
「真田ちゃんのためにも……!!」
彼女は友人のために、また任務のために戦場へ赴く。何が正しくて、何が正しくないのか。彼女には善悪の判断は必要ないのだろう。何故なら、そこには彼女の意志は存在しないのだから。
***
時間と言うものは案外早く流れるものだ。正確に且つ迅速に。ふと時計を見て浮かんだ言葉がこれだった。そして夕方になったと認識すると、俺は知らずに舌うちをしてしまっていた。おそらく、俺もそれなりに緊張をしているのだろう。包帯が巻かれた右手を見る。短剣が貫通したとは思えないほど、すっかり治っていた。医者がすごいのか、あるいは急所を外した彼がすごいのか。
「世の中すごい人間で溢れてるな」
他人事のように呟くが内心、気が気でない。いくら策を練ってみても確実に勝てる方法が浮かばないのだ。先生の手は借りることができない。そんなことをしたら奏を見捨てることと同じだ。
奏……奏の巫女の力を使えばまた解決策が浮かぶかもしれない。
「いや、駄目だ。絶対に」
奏を巻き込むわけにはいかない。きっと奏は自分より仕事を大切にするだろう。だから、奏をこんな危ないことに巻き込んではいけない。
「……葵のやつ、こんな時にどこで何してんだ」
頭に浮かんだ友人。彼ならば力になってもらえるはずだが、生憎、先日から連絡がつかない状態だ。以前から何度か音信不通はあったため、心配はしていないが腹立たしくはなってくる。
「あいつがいたら、いくらか勝算があるのに……ったく、必要な時にいないやつだな」
独り言が次々と出てくる。きっとストレスが溜まっているのだろう。周囲には誰もいない。ここは幼稚園の裏門だ。ぼうっと幼稚園の遊び場を見ていると、幼稚園児に戻りたくなってくる。
「って、俺は何を考えてんだ」
また独りでに言葉が出た。
風が吹く。誰も乗っていないブランコがきいきいと揺れていた。
「多分、これも罪滅ぼしみたいなものなんだろうな」
誰に訊ねたわけでもない、ただの独り言だ。
風が少しだけ強くなる。まるで風が俺の言葉を攫っていったかのように、胸がすっきりとした。
「全く……俺らしくないな」
結論は出た。
「普通の方法ではまず勝てない。それなら」
俺は意識を集中して過去の記憶を思い出す。
あの非日常の日々を。様々な色の光線。剣戟の音。鳴り響く銃声。人生の唯一の汚点。
今はあの日々を思い出して、答えを見つけるしかない。過去からは逃げ続けることはできないが、もしかしたらその過去は今なら役に立つかもしれない。だとしたら、それは大事な財産じゃないか。
俺は才能のない凡人だ。それなら、全てを出し尽さなければいけない。要らないものだと勝手に決め付けるわけにはいかないんだ。
瞬間、頭の中が一気にクリアになった。脳内の思考がまるで血管のように駆け巡る。
「そうだ……これなら……」
100%とまではいかないが、いくらか勝率は上がった。充分だ。たとえ1%でも勝てる見込みが上がったなら、それだけで気力がわく。
「これが人間の知恵ってやつだな」
俺は立ちあがり、近くの石ころを蹴った。
「これだから魔法は嫌なんだ」
本当だ。本当に魔法は嫌だ。
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