幸福ないちにちの始まり

久慈川栞

幸福ないちにちの始まり

 透き通る朝陽が窓から差し込んで、ジンジャエールみたいにきらきらと埃を照らしました。その光が小さな部屋の中に充満する頃、リサは目を覚まします。

 

「おはよう、午前七時ですよ」

 

 リサはいつも通りの朝の挨拶をしました。ここ最近でもひときわ天気が良さそうで、寝起きに恒例の天気予報データベースにアクセスすると初夏の陽気だと予測されていました。寒すぎるのも暑すぎるのも嫌いなリサにとって、これ以上ない素晴らしい気候です。

「今日の天気は晴れ、予想最高気温は26度、湿度はそれほど高くないから、洗濯物を干すのにちょうど良さそう。今日はシーツなどの大きなものを干しましょうか? この先一週間は雨の予報がないので、面倒なら明日以降に延期しても構わないと思いますが」

 問いかけに返事はありません。リサは少しだけ考えたのち、腕を伸ばしてベッドからシーツを引き剥がしました。両手に持って軽く振ると、上に落ちていた葉が床に落ちて網目状に伸びていた蔦の中に潜り込んでいきました。掃除機をかける日が近づいているのですが、また延期になりそうです。

 シーツを洗濯機に入れてスイッチを入れると、洗剤排出口からぽろぽろとかたまりかけた洗濯洗剤がこぼれ落ちてきます。溶けづらそうなそれは、みるみるうちに溜まる水の中でしばらく回っていましたが、しだいに小さくなって消えてしまいました。かわりにいくつもの泡がうまれて、シーツの汚れを落としていきます。

「新しい洗剤を注文します、前回の注文は二週間前、×月×日です。発注先在庫なしとの連絡があり、キャンセル扱いになっています。再度注文しますがよろしいですか?」

 リサはしばらく待って、そして結局洗剤を注文することにしました。

「オンライン在庫なし、実店舗在庫確認中なので、発送予定日は未定とのことです。また連絡があると思いますよ」

 そう告げて、リサは窓際にあったじょうろを手に取りました。いつもの植物たちの世話を始める時間です。

 キッチンの水道からじょうろに水を入れ、まずはベランダの植木鉢に水をやります。日光を受けて普段よりも緑色が鮮やかに輝いています。水を注げば葉からこぼれおちた水滴がまた別の葉に落ちて跳ね上がり、そのおかげで踊っているみたいに揺れるので嬉しくなりました。天気がいいので、植物たちもご機嫌に違いありません。

「雨が降らないから、しっかりお水をあげないといけませんね」

 そう言いながらどんどん水を汲んでは注ぎます。リサは濡れるのがあまり好きではないので、自分が濡れないように気をつけながら腕をめいっぱい伸ばしています。植木鉢の下から染み出した水が、ベランダの床を這うように伸びるワイヤープランツを濡らして、柔らかく積み重なった土を湿らせ、それから階下に向かう排水溝へと吸い込まれていきました。

 ベランダでは薔薇が少しずつ蕾を膨らませています。もう少し暖かくなれば一斉に咲き始めるでしょう。リサは嬉しくなりました。暑くも寒くもない、花もたくさん咲いている季節がとても好きなのです。

「そろそろ私の薔薇が咲きますよ」

 リサは言いました。変わらず返事がないのですが、それでも話し続けます。

「あなたが買ってくれた鉢も、もうすぐですよ。これが咲くのが毎年楽しみなんです、香りもいいんでしょう、去年きちんと剪定したから、今年もきっとたくさん咲いてくれると思いますよ」

 返事はありません。リサは歌を流し始めました。昔ラジオで流れていたものを録音しておいたのです。タイトルはもうわかりません。ただ歌詞に元気をもらえるからと、彼が好んで聴いていた曲でした。

「それにしても良い天気ですね、お散歩日和ですよ。植物の世話が終わったら、どこか散歩でもいかがですか?」

 返事はありません。

 リサはじょうろを置き、土の様子を見て肥料置き場からスコップで肥料を持ってきては足していきます。ふんだんに用意されている肥料のおかげで植物たちは元気に育っているのです。少し匂いがきついのが難点ですが、リサは気になりませんでした。

「今日は新しい肥料が届く日ですね」

 言い終わるか終わらないかのうちに、チャイムが鳴りました。はあい、と返事をしてリサは玄関のロックを外します。

「お世話になっております、今週の配給にきました」

「いつもありがとうございます」

 青色の帽子が特徴的な配達員は表情ひとつ変えずにリサに大きな段ボールを一つ渡して、挨拶だけして立ち去って行きました。中を見ると野菜とフェイクミートがたくさん詰まっています。これで一週間を生活しなければなりません。そして、これからが力仕事です。

 リサは段ボールの中に入っていたいろいろな野菜を全て取り出すと、包装のビニールを破きながら肥料置き場の奥の方にどんどん放り投げていきました。袋から出して、投げる。出して、投げる。袋はすべて、部屋に備えつけのリサイクルゴミ箱に入れてしまいます。アパートの下でリサイクルされて、きっとまた別のものに生まれ変わるはずです。腐っている野菜を手前に寄せながら、新しい野菜は奥の方へ。そうしないと、肥料を使うときに面倒だからです。週に一回の大仕事、リサは音楽を流しながら進めていきます。土が関節に飛び散るのをあとで拭いておかないと、きっと錆び付いて動かなくなってしまうでしょう。大丈夫、リサには自分をメンテナンスする機能も標準で装備されているので安心です。

「これで肥料にも困りませんね」

 すっかり投げ入れてしまうとリサは段ボールを畳んでこれもリサイクル窓に放り込んで言いました。二ヶ月もすれば、部屋の植物たちの栄養として立派に働いてくれるでしょう。

「さて。今日は何をしましょうか? このまま植物たちのお世話をしますか?」

 返事はありません。リサは少し考えて、とりあえず腕の泥汚れを拭き取ることにしました。


 汚れの付着した腕を、清潔なタオルで拭き取るリサをひとつの頭蓋骨が見つめています。目があったはずの場所にはふたつの真っ黒い穴があいていて、とても風通しが良さそうです。高くのぼり始めた太陽の光を受けて、白い骨は陶器のようです。彼は随分前に動くのをやめてしまいました。リサは彼の動かなくなった部屋で、彼が好きだった植物を育てながらまいにち暮らしています。太陽光の光で自家発電を行うリサが、決まった時間に起きて、部屋を整え、植物の世話をし、足りない日用品を注文しながら暮らすのに特に不便はありません。街のあちこちでリサとおなじ型番の彼女あるいは彼が誰かのために働いています。その誰かはみんな、動かなくなってしまいました。

「お散歩はいかがですか? きっと気持ちがいいですよ」

 返事はありません。

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