第38話:帰還《きかん》
闇へと落ちていく中で、ライラは俺を強く抱きしめた。
「私、トムと一緒なら怖くない!」
「ああ、俺もだ」
俺もまた、ライラを抱きしめながら答えた。
このまま甘美な死を受け入れることもできただろうが、神官にも最後の切り札と言うべき呪文がある。それは魔術師の《転移》のように失敗することもなく、思い描いた場所に自らと仲間を連れて行くことができる。
***
「今から教える呪文は《帰還》という。たとえ地の底の奥深くからでも一瞬で脱出することができるのじゃが、決して使ってはならぬぞ」
法術の修行は、呪文を実際に使用しながら学んでいく。実際に自分の力で使えるようになるにはさらなる修行や経験が必要なのだが、熟練者や
しかし、《帰還》に限ってはそれすらも許されないようだった。そもそも、なぜ使ってはいけない呪文を教えるのかといえば、体系だった法術の習得のためには避けて通れないからだそうだ。
「まず、この呪文で運べるのは肉体だけじゃ。これがどういうことかわかるかの?」
「つまり、荷物が失われるということですか?」
「それだけではない。運べるのは裸の体のみという意味じゃよ」
当時、思春期の只中であった俺は、裸で野外に放り出されることなど想像もできなかった。しかも仲間も一緒である。裸になるだけならまだしも、武器や防具が失われるのは致命的だ。高価で貴重なものが失われれば確実にトラブルになるだろうし、なによりも裸で放り出された先に魔物がいたらどうしようもない。
「もっとも、形あるものはいずれ失われるもの。本当に危ういのは物ではなく、心や記憶が失われることじゃ。仲間との絆、豊穣神への信仰……何が失われるのかは全くわからぬ。神官として修行したことそのものが無意味になることもあろう。この呪文で脱出を果たした後、仲間のことを忘れた挙げ句に同士討ちで全滅したという言い伝えもあるのじゃ」
「全滅……ですか」
生き延びるために脱出した先で仲間割れとは、なんとも不名誉で惨めな死に方である。これならば魔物に襲われて死んだほうがまだマシだろう。
「ともかく、決して使ってはならん。これを唱えるくらいなら仲間の傷を癒やしたり、目の前の敵を打ち倒すことを第一に考えよ。それが仲間を救うための王道じゃ」
***
師の教えを反復しながらも、改めて《帰還》を唱える決意をする。今の俺に生き残る……ライラを救うための手段は他にない。これ以上、失われて困るものなどあるものか。俺がどうなっても、彼女さえ助かればそれでいい。
俺はライラを抱きしめていた両手を離して印を結び、呪文を唱えた。
「《帰還》」
***
気がつくと、夜空の下で仰向けになっていた。紫がかった
ぼやけた記憶を整理する。俺は仲間とともに『混沌の獣』と戦って討ち倒し、崩れ行く聖堂からエレナによる《転移》を試みるも、床が崩れて俺だけ取り残されてしまった。そこで最後の手段である《帰還》を唱えたのだ。そうだ、《帰還》で肉体だけ戻ってきたのだ。道理で寒いわけだ、俺は真っ裸なのだから!
「トム……トム!」
俺の名を呼ぶ声がして振り返ると少女がいた。鱗のようなものを首飾りにして身に着けているほかは一糸もまとわぬ裸身を、月明かりが美しく照らしている。ややぼさぼさとした灰褐色の髪の中から狼のような耳が生えている。まさか豊穣神の化身だと言うのか。
「君は……俺のことを知っているのか?」
「え……? どうしちゃったの? 私、ライラだよ?!」
「ライラ……? すまん、知らない名前だ。それより怪我をしているようだから治してやろう」
少女は左手に痛々しい傷がある。俺は相当疲労していたが、この程度の傷を治すくらいならたやすい事だ。
「そんな……トム……」
少女は涙を流している。傷の痛みでは無いようだ。俺が彼女に酷いことをしてしまったのだろうか。
「ほら、手を出してみろ」
彼女の左手に、そっと右手を当てて治癒の呪文を唱えた。すると突然、彼女は身を
「どうしたんだ、いきなり!……いいから、じっとしてろ。大丈夫だから」
俺は右手で彼女の左手、いや左前脚を治しながら、左手で彼女の頭を撫でてやった。
ふと、脳裏に浮かぶ既視感。ずっと前にも同じようなことがあった気がする。あれは暗い森の中だったか。戦いに疲れて眠ろうとした俺の前に、左前脚を怪我した狼が現れて、その傷を癒やしてやったことがあったような……。
癒やしの力を注ぎ終えると、急に疲れが押し寄せてきた。この狼少女……ライラが何者かは思い出せないが、毛皮に覆われた暖かい体を抱きながら、少しだけ眠らせてもらおう。
*
……彼女の首飾りが何かにぶつかる。どうやら俺も同じ首飾りを付けていることに気づいた。《帰還》によって、文字通り体一つで帰ってきたのにこれだけは失われなかったらしい。この首飾りは飛竜の鱗で作られたものだ。そう、俺は飛竜を討伐したことがある。倒れ込んだ瀕死の飛竜に剣を突き立て、とどめを刺したのだ。その飛竜は俺を爪で刺して殺そうとしたが、狼が俺の盾になって守ってくれた。
……狼? この大陸にはいないはずの狼がどこから現れた? それは今、俺の腕の中で眠る狼少女のライラのことではないのか……?
そうだ、ライラだ。俺は彼女を知っている。一人でパーティを離脱した俺の前に現れたライラを。
「ライラ……! 今、全てを思い出した!」
「トム……? 本当に、元に戻ったの?」
狼は人間の姿になって、俺の声に答えた。
「ああ、お前と会った日のことから今日のことまで、記憶が蘇った!」
出会ったばかりの頃、彼女は俺のことをどう呼んでいたかも思い出した。
「ライラ。もう一度俺のことをこう呼んでくれないか。『ご主人さま』と」
「う……うぅ……ご主人さま!……大好き!……もう、どこにも行かないで!」
号泣する彼女を、俺はそっと抱きしめるのであった。
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