第37話:混沌《こんとん》

 人工池の中心部からゆっくりと巨体がせり出す。しかし、それに気を取られていた俺たちに襲いかかってきたのは、細く鋭い触手であった。2本の触手が鞭のように水中から飛び出し、素早くしなる動きでライラを狙うのを、俺は反射的に盾で防ぎ、剣で切り捨てた。断面からどす黒い体液が散乱する。


「《障壁》!」


 エルが守りの法術を発動すると同時に、エレナが詠唱を始めた。最大級の攻撃魔術を仕掛けるつもりだ。触手は次々に飛び出してきて、数度の攻撃で《障壁》は破られたが、その頃には既にゴルド卿がエレナの盾になって立ちはだかっていた。襲い来る触手を捌ききれずに右の篭手こてが粉砕し、むき出しになった腕から血が吹き出すが、血を流した右手で剣を握ったまま立ち続けている。


「《獄炎ごくえん》!」


 長い詠唱の最後の一節とともにエレナの魔術が発動する。奴の潜む池を中心に、巨大な火柱のような爆炎が、聖堂の高い天井を舐めるような勢いで吹き上がる。本来は無秩序な爆発を、狭い範囲に制御することで威力を集中させるという彼女の切り札だ。


 炎が収まると、池の中の液体は完全に干上がり、『混沌の獣』がその全貌を露わにする。『獣』というよりも全体的な印象はイモムシに近い。紫がかった黒い皮膚は節くれだっており、あれだけの炎を浴びてもなお粘着性の体液で覆われている。頭部と思われる場所には巨大な口と、無数の触手が生えていた。


「さてと、どこから手を付けようかねえ」


 イザは竜の爪のナイフを右手に構え、左手でどの武器を使うのかを見定めているようだ。


「狙いは僕とライラだと思います。おとりになるんで、まずは触手を!」

「わかった、私も!」


 アランが奴の側面に向かって走り出すとアルフも付き従う。そしてライラは反対方向に回り込むと、それぞれを数本の触手が追いかけてくる。


「《風刃ふうじん》!」


 俺は法術の刃を飛ばして、ライラに迫る触手を斬り飛ばす。反対側ではイザが氷のロッドから放った冷気によって触手が凍結し、粉砕されているようだ。


「大丈夫ですか?」

「ああ」


 正面への攻撃が手薄になっている隙に、エルがゴルド卿の治療に回る。エレナは再び詠唱を始めている。やがて、雨が振り始めた。《獄炎》によって蒸発した水分が雲となり、清浄な水となって降り注ぐ。これは稲妻の魔術の予兆だ。


「たぁっ!」


 アランが池の淵から飛び降りて、奴のぬめった背中に『聖剣』を深々と突き立てると、その柄を足場にして床の上に舞い戻った。これは以前、巨人を仕留めた時の戦法だ。


「ライラ、奴から離れろ!」


 アランに続いて飛び乗ろうとした彼女を俺が制すと、とっさに引き返した。上空では既に火花が音を立てている。


「《豪雷ごうらい》!」


 束ねられた火花が巨大な稲妻となり、轟音とともに奴の背中に突き立てた『聖剣』目掛けて突き刺さる!剣を通じて体内にまで直接稲妻を浴びせれば、さすがの巨体でもタダでは済まないはずだ。


「行くぞ!」


 ゴルド卿の掛け声で、一斉に攻めかかる。アランは再び奴の背中に飛び乗って『聖剣』を掴み、そのまま重力に任せて皮膚を縦に斬り裂く。ライラとアルフも背中に飛び乗ると、粘液がすっかり蒸発した体表を伝って頭部に移動し、鋭い爪で奴の触手を片っ端から斬り落とした。


 ゴルド卿自身も負けていない。真正面から大剣を振り下ろして顔面を叩き斬る。続いてエルは自らのメイスに《祝福》をかけて全力で振るい、奴の牙を粉砕する。イザは池の底に飛び降りると、飛竜の爪と稲妻の短刀を左右の手に構えて、踊るような動きでアランが切り開いた体内に猛烈な斬撃を浴びせかけた!奴はうめき声を上げながらのたうち周る。


「《聖炎せいえん》!」


 奴は生命体なのか、アンデッドのような反生命体なのか。俺には判断が付かなかった。よって選んだ呪文は回復でも反転回復でもなく、純粋な破壊をもたらす炎の力である。エルが牙を砕いてこじ開けた口の中に、豊穣神による浄化の炎が注ぎ込まれる!


 そして、エレナは3度目の大呪文を唱え終えようとしていた。奴の体に降り注いだ雨が宙に舞い上がる。そして上空で一つの水の塊となり、再び降り注ぎながら凍結していく。


「《氷瀑ひょうばく》!」


 滝をそのまま凍らせたような巨大な氷の槍を操り、奴の焼けただれた口内に狙いを定める。全力で放たれたそれは一気に突き刺さり、そのまま後頭部を貫通した!


「アラン、とどめだ!」

「はい!」


 アランは走りながら『聖剣』を逆手に握り換えると、奴の頭部の下、おそらく心臓があるであろう場所を、下から上に斬り上げた。俺も床から飛び降りながら同じ場所を斬りつける。そして俺とアランは、その傷口に二つの剣を深々と突き刺した。そして飛竜の心臓に剣を突き立てた時のことを思い出し、アランの手を引いて即座にその場を離れた。


 *


 吹き出す漆黒の体液と共に、文字では表現できない異様な断末魔が聖堂を揺るがす。奴の最後の足掻きか、壁や天井が崩れ始めた。しかし、空中に漂う青白い影が、崩れる天井を支えている。


「あれは……歴代の勇者と神狼の魂?!」


 青白い影はかすかに人間と狼のような姿を留めている。先の戦いでエルが浄化して大地に還っていったはずの魂がこの聖堂に留まり、俺たちを守ってくれているようだ。


「長くは保たないわ!脱出するから捕まって!」


 俺たちはしばし見とれていたが、エレナの声で我に返る。イザが《浮遊》の力を秘めた護符を起動し、俺とアランを抱えて床まで飛び上がる。


「みんな、手を離さないで!」


 エレナは確認するより早く詠唱を始めた。自分自身と、それに触れているものを瞬間移動させる高等魔術、《転移》である。極度の集中を必要とする上に、失敗が大事故に繋がるため、実戦で使うのを見るのはこれが初めてだ。エレナが差し伸ばした手に仲間たちが集まる。アルフはアランが抱きかかえて前脚を触れさせている。よかった、誰も失わずに帰ることができる。


 しかし、呪文の最後の一節が唱えられる直前、足元の床が崩れて、俺の体は奈落へと投げ出されていった。


「トム!」


 ライラは左手でエレナの手を掴んだまま、とっさに右手を伸ばして俺の手を取った。だが、天井から落ちた瓦礫が彼女の左手を直撃してエレナの手を離してしまった。自分の力だけでは落下し始めた俺を支えきれずに、自らも奈落へと飲み込まれていく。


 仲間たちの乗っていた床が崩れるよりも一瞬だけ早く《転移》が発動した。取り残されたのは俺とライラだけだ。やはり、聖剣の勇者と神狼の巫女が犠牲になる運命は避けられないのか。死ぬのが若いアランではなかったことだけが救いか。


 すまない。俺の……俺たちの冒険はここまでのようだ。

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