process 5 ティータイムはひと時

 別の日。東防衛軍基地地下8階は、コンピュータサイエンスラボと生化学ラボの部屋が揃う。生化学ラボのある一室では、ピンクのセーターにタイトスカート、長い黒髪の女性が1人、リクライニングチェアに座っていた。

 宙に浮いた複数の画面は女性がかける眼鏡を通さなければ見えない。

 リクライニングチェアの両サイドに小さなサイドテーブルが備えられており、左手にファイブキーボール、右手にトラックマウスボールと呼ばれる入力機器を慣れた様子で操作している。


 せわしなく視線が移動し、一定間隔で画面がスクロールしていく。かれこれ30分、長い黒髪の女性はそうしていたが、腹の虫が彼女の集中力を削いだ。


「あーお腹空いた~。でも今ダイエット中だしなぁー」


 女性の視線が横目に逸れる。


 女性は眼鏡越しに映した。

 携帯にかかりっきりになる女性は、優雅におやつタイムに講じている。長い金髪を切り、ショートヘアの金髪となった先石の勤務態度に、黒髪の女性は不満そうに顔をしかめる。


「室長だけズルいですよ~。私にもくださいよ~!」


 先石は大容量サイズの袋から一切れ分のつぶチョコ苺ロールを手にする。小さな包装を切って、中身を露わにした。


 粒状のチョコチップと苺の紅色コーティングを施されたロールケーキは、先石の長い指先に掴まれ、口に入った。

 咀嚼し、間を持って飲み込んだ先石は、眼鏡の女性を一瞥いちべつする。


「なら取りに来なさい」


 気だるげにそう返した先石に唇をとがらせる。


「たまには室長がお茶入れてくれたってよくないですか~?」


「それくらい自分でやりなさいよ」


「……私にはいつも持ってこさせるくせに」


 女性はリクライニングチェアのアームレストのボタンを押した。

 仰向けになっていた背もたれが起き上がっていく。リクライニングが上がったと同時に画面が消失し、女性は眼鏡を外してサイドテーブルに置いた。

 立ち上がった女性は伸びをすると、生ぬるいため息を落とす。


 長い黒髪の女性は先石のいるデスクに近づいた。


「じゃ、お菓子いただきますよ」


「どうぞ」


 女性は袋から一掴みして、つぶチョコ苺ロールを持って第三生化学ラボの端に設けられた狭い給湯室に向かう。横から給湯室に入り、おしゃれなやかんをIHに置く。

 第三生化学ラボの室内にありながら、給湯室の正面は透明な壁で仕切られている。細長い間取りに小さな冷蔵庫と電子レンジ、IHにシンクなどがある給湯室は、簡易的なキッチンとしても使えた。

 女性は小さな容器に菓子を入れ、マグカップを用意する。


「ああ、そういえば室長」


 こもった声が先石の緩んだ微笑みを消す。


「なに?」


「いえ、大したことじゃないんですけど」


「ええ、知ってるわ」


「え?」


 女性はポカンとした表情で腑抜けた声を漏らす。


「あなたがいつも大したことじゃない話しかしないのは知ってるわ」


「う……そんなことないですよぅ~。って! そんなことはどうでもいいんです!」


 やかんが伸びる口からわずかに息を吹かす。


「あの、体内生成機能表を修正してて思ったんですけど、時々出てくる親和律しんわりつってなんですか?」


「ああ……それね」


 先石は携帯から目線を離し、苦い顔で視線を横に向け、頭を掻く。


「私も詳しくは知らないけど、なんでも機体スーツに欠かせない項目らしいわ」


「先石室長もよく知らないんですか?」


「アレの専門は脳生理学のオジサマだからね。私も説明は聞いてるし、ある程度頭には入れておいたけど、話が横道に逸れてばっかで聞いてらんなかったわー」


 黒髪の女性は苦笑いを浮かべて濁す。

 やかんが沸騰の合図を出した。長い黒髪の女性はIHのスイッチをオフにし、マグカップにティーバッグを入れる。


「でも、重要なんですよね? 機体スーツの話を聞くたびに時々出てくる単語だったので、気になってしまって……。ま、まあ、私たち生化学ラボの研究員が知る必要もないかもしれませんが……」


「確かに、今じゃ最大の武器になってるようだしねー」


 先石はデスクに置いた携帯の画面を見つめながら、椅子のアームレストに肘をついて頬づえをつく。

 背後から足音が近づいてくる。先石の後ろを通り過ぎ、隅の丸テーブル席に腰かける。長い黒髪の女性は紅茶を一口含み、ほぐれた表情と共に柔らかい息を零した。


「世界最速の機体って言われてますよね。日本の機体スーツって」


「他国は重機体タイプに傾倒してるからねー。触手を避けなくても、全部破壊しちゃえば同じことだし」


「重機体タイプでも充分に避けられそうですけどね。うちでは作らないんですか?」


「さあ? 他国や隊員から受注があれば作るんじゃない?」


 午後のティータイムが香る部屋は客を招き入れた。

 ドアの開く音に2人の視線が注がれる。


「ああ、お疲れー」


「お疲れ様です。木城さん」


「お疲れ様です」


 白衣を身に纏う木城は棚にタブレット教材を置く。


「講義頼んで悪いわね」


「いえ。なんか、いい香りですね」


「あなたも休憩入れたら?」


「じゃ、お言葉に甘えます」


 先石は丸テーブルにいる女性に視線を投げる。


甘楽かんら、お茶」


「また私ですかぁ!?」


「先輩に入れるのは当然でしょ」


「いつも無礼講じゃないんですかぁ~」


「無礼講なんて言った覚えないわ」


「出まかせですか……」


 甘楽と呼ばれた女性は重い腰を上げる。


「あ、いいよ。自分で入れてくるし」


 甘楽は苦笑する。


「大丈夫ですよ。少しだけ待っててください」


 甘楽は給湯室へ向かう。


「あ、そうだ。木城さん」


「はい?」


「親和律について甘楽が知りたいそうよ」


「え!? 木城さん知ってるんですか?」


 甘楽は給湯室の透明な壁越しに驚愕する。


「ま、まあ、知ってますけど……」


 木城は疑問を表情に貼りつけながら戸惑う。


「簡単にでいいから、教えてあげて」


「は、はあ……」


 木城は困惑しながら赤いフレームの眼鏡にかかる前髪を指先で分け、唇を湿らせると給湯室に向かう。


「日本の機体スーツの生命線である機動性を担保しているのが、親和律。基本的に体を動かしているのは脳からの指令。その指令を機械にも伝達して、機体スーツは動いてるの。機体スーツ内部に張り巡らせた疑似神経ネットワークは、放電体質者の電気を使って信号を出してる。放電体質者の帯電させてる電気が、普通とは違うのは知ってるでしょ?」


「ええ、本来、六次元の世界に現出するはずの現象なんですよね?」


「そう。それに加えて、機体スーツを作製する仮想光物質。これによって、物質、伝達信号までが六次元の世界に適応できるようになった。でも、問題は隊員の肉体」


「あ、そっか。隊員の体は三次元のままですね」


 甘楽は黄色のマグカップにティーバッグを入れる。


「隊員の肉体を仮想光物質に変換することはできない。そこで疑似神経ネットワークとリンクさせるの。特殊な神経回路を持ってる放電体質者の神経細胞を個体ごとに正確に模倣し、放電体質者の体と機体スーツは同一化できる。でもただつなぐだけじゃ不充分。機体スーツの疑似神経ネットワークと神経細胞を馴染ませないと、体がついていかない。同じ機体スーツを何度も着て、訓練を行い、生体内の神経伝達リズムを疑似神経ネットワークのリズムになじませるの。その疑似神経ネットワークのリズムとの同調度合いを表しているのが親和律よ」


 甘楽はマグカップにお湯を入れる。


「つまり、肉体を六次元の世界になじませるわけですか」


「ま、ざっくり言うとそんな感じ」


 木城はマグカップを受け取り、甘楽と一緒に給湯室を出る。


「これくらいのことでしたら、室長もご存じじゃありませんでした?」


 木城は怪訝けげんな顔で尋ねる。


「ん? そうだっけ?」


 先石は椅子を回して振り返り、不敵に笑みを浮かべる。


「え、ええ!? 知ってたんですか!?」


 甘楽は信じられないという風に狼狽うろたえる。

 先石はクスクスと笑って答えとした。


「もう~~意地悪しないでくださいよ~」


「違うデザートもあった方がいいでしょ」


 先石はデスクに置かれた携帯が着信を告げたのを目に留め、携帯を手に取る。


「何がデザートですか! 男と呑気にメールしてるそばでコキ使われる身にもなってくださいよ」


 また甘楽と先石のじゃれ合いがあったのだと察し、木城は先石のデスクの端に腰かけ、紅茶を口に含む。ほのかに甘い微香を感じながら温かな息を零す。


 穏やかな午後のひと時。こんなにゆっくりできたのは久しぶりな気がしていた。

 この製作チームが発足した当初の忙しさは人生史上一番だった。もう3年もたとうとしているという事実にまだ現実感がない。現在の生化学ラボでやることと言えば、隊員と候補生の健康管理と定期検査、新居住者の遺伝子検査、放電体質者の細胞研究など、急ぎのものはほとんどなかった。


 だから、木城の時間にも余裕ができていた。このまま言われていることだけをやる日々に終わりを告げ、独りコツコツと進めていた。軌跡を形にして収納しているものをポケットから取り出す。

 コネクターを見つめ、浅く息をすると、意を決して先石に声をかけた。


「あの……」


「ん?」


 先石は携帯の画面に夢中だった。


「室長に見ていただきたいものがあるんです」


 先石は画面から視線を外し、真剣な木城の顔と相対する。

 木城はデスクから腰をどけて、デスクにマグカップを置く。改まった様子になった木城に注目する先石は、木城の左手にあるコネクターに目を留める。

 力んだ左手にらしさがなくなっていて、木城の様子を可愛らしく思えてきた先石の口が、柔らかく緩んだ。木城は緊張する自身の心を整えて口を開く。


「ここ最近、隊員の中で確認されている事象がありますよね。突然放電できなくなったり、突発的に放電のコントロールができなくなったりして、機械を壊してしまったり……」


「そうね。放電に制限があるんでしょ。脳生理学のオジサマと一緒に調べてるところよ。それがどうかした?」


「私なりに仮説を立てて、色々試しました。結果をまとめたファイルを室長のメールボックスに送りましたので、お時間のある時に見ていただけませんか?」


 先石の瞳が携帯の画面に戻り、数秒考えを巡らせる。


「分かった。参考にさせてもらうわ」


「ありがとうございます」


 木城はマグカップの紅茶を一気に飲んで空にする。


「じゃ、私はこれで」


 そう言って木城が給湯室に向かおうとした。


「コップはそこに置いておきなさい。私が後で一緒に持っていくから」


「すみません」


 木城は先石のついている机にマグカップを置く。


「あ、待ってください木城さん!」


 甘楽は木城の下へ駆け寄る。


「その、先ほど教えていただいたお礼というわけではないんですが……」


 甘楽の手には水色の長財布が握られていた。長財布を開いてチケットを取り出した。


「これ、コミュニティフロアの抽選で当たったんです。私、水着はちょっと控えてまして。よかったら関原さんと行ってください」


「は?」


 突拍子もなく関原の名前が出てきて、表情に疑問を這わせる。


「なんで関原?」


「え、木城さんと関原さんって、同じ大学の同期なんですよね?」


 木城の薄い反応に甘楽も首をかしげる。


「同期だけど、別に友達ってわけじゃ……」


「そうですか? でも関原さんと木城さん、すごく仲がいいって聞いたんですけど」


「誘ってあげたら? 彼、きっと喜ぶわよ」


 先石は猫のような目で見上げて微笑む。


「そうですかね……」


「はい、これ」


 甘楽は戸惑う木城の手を取り、強引に渡した。


「大丈夫です! 関原さん、優しい人みたいですから、ちゃんと受け取ってくれますよ」


 木城が困っているのを盗み見る先石は、肩を揺らしてクスクスと笑う。


 木城は眉尻を下げて受け取ったチケットを見下ろす。屋内プールの無料入場券。期限付きらしく、2ヶ月しかないようだ。


「ありがとうございます……」


 断りづらくなってしまい、とりあえず受け取っておくことにした。


 木城が出ていったのを見送ると、先石は持っていた携帯の画面を操作し、やっていたゲームやバックグラウンドのチャットメールを閉じる。


「さて、どんなもんかな……」


 デスクに右手を置き、弧を描くように右から左へ動かす。

 デスク表面にメッセージが浮かび上がる。


『こんにちは。IDとパスワードを音声入力してください』


「E01745029。vlot21ogsXXヴィロットテューワンオージーエスダブルエックス


『……声紋認証中……。声紋データ照合完了。生化学ラボ室長先石桐花。ログインを許可』


 宙に浮かんだボックスアイコンに触れて開く。

 左のメニューウィンドウに新着メールの表示を確認。件名に木城の名前。

 本文に短い主旨、木城が言っていたテキストファイルはメールに添付されていた。


 ファイルを開き、ざっと読んでいく。

 検証もしっかりされたもの。現在隊員に起こっている原因不明の健康被害。普通に暮らしている放電体質者にはほぼ見られないが、なぜか機体スーツを着ることが多い隊員に見られる不定愁訴ふていしゅうそ

 原因はだいたい察しがついているが、うまいこと効率のいいアイディアが思い浮かばず、苦慮していた。


「へぇ……」


「木城さんが言ってたヤツですか?」


 部屋の端にあるテーブルに戻った甘楽かんらは先石に声をかける。


「ええ」


「室長。なんか嬉しそうですね?」


「そう?」


「はい、かなり喜色きしょく満面ですよ」


 先石は肘をついてじっくりと読み始めていた。


「賭けが大当たりしちゃったら、踊り出すくらい嬉しくなっちゃうのも無理ないんじゃない?」


「宝くじでも買ったんですか?」


「そうね。人生の時間を賭けた宝くじ」


 甘楽は先石の笑みや言葉に真意を悟れなかった。

 携帯が着信を告げても画面から視線は離れない。先石は木城の書いたレポートをしばらく眺めていた。

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