1-19.父の背


 シシィの背に庇われながら、バロンは緊張した面持ちで周囲へ視線を走らせる。

 どうしてだか、この場に漂っていた濃い魔が鎮まり、少しながらに空気の動きを感知出来た。

 命の気配においに誘われたのか、周囲に蠢く気配を感ずる。

 魔が鎮まったのは、先程吹き荒れた母の気をまとった風のおかげなのかもしれない。

 父は周囲の様子に気付いているのか。

 バロンはちらりとシシィの様子を窺う。

 変わらずシシィはバロンに背を向けたまま、うねる蔓と対峙している。

 対峙といっても、相手は攻める機を掴みあぐねているようで、今のところ蔓にシシィを襲う様子はない。

 その代わりか、蔓の意識がバロンの方に向けられている気がしなくもない。

 無意識にプリュイを抱く腕に力が入る。

 嫌な汗が噴き出すのは、重なる疲労のせいか、それとも己を支配する緊張のせいか。

 そんなバロンの肌を冷えた清涼な気が撫でた。


「安心くださいまし、バロン様」


 耳元に届いた落ち着いた声。

 バロンの目の前を朱色の金魚が過ぎていく。

 長く伸びたひれをふわりと広ろげ、煌めく何かを散らしながら宙を泳ぐ金魚。


「……アケ」


「はい、アケです」


 ぽつりと呟くバロンに、にこり、とアケが笑った――気がする。

 金魚ゆえに表情の変化はないが、バロンを安堵させるために笑顔を向けてくれたように、彼には見えた。


「この場はシシィ様と、このアケにお任せくださいまし」


 胸びれを器用に胸に添え、アケは丁寧な所作で頭を下げる。

 そして、彼女はシシィを振り返る。


「シシィ様」


「うん。いくよ、アケ」


 アケの呼びかけにシシィは応え、徐ろに片手を上げた。

 こちらの様子に気づいていたのか。

 少しばかりの驚きで、バロンもシシィを見やる。

 その瞬。周囲が清涼な水の気で満ちた。

 ぴちょん、と響く水音。

 周囲を蠢いていた気配が突として動きを止める。

 が、違うなとすぐにバロンは気付く。

 僅かな空気の動きを感じ、蠢く気配の動きを封じたのだと知る。

 雲が動き、月明かりが周囲を照らす。

 彼らの周囲に幾つもの水球が浮かんでいた。

 その光景にバロンは息を呑む。

 水に満ちる球の中には、獣の姿形にも似た植物が暴れている。

 ある植物は犬ようで、ある植物は鳥にも見え、ある植物は鹿にも見えた。

 もしかしたら、かつては森に生きる動物だったのかもしれない。

 それとも、森に根を下ろす植物だったのかもしれない。


「魔物が、こんなに……」


 身を強張らせたバロンは、シシィの方へと身を寄せる。

 シシィがちらりとバロンを見やり、上げていた手を下ろして、彼の頭に手を置いた。

 バロンがシシィを見上げると、父の碧の瞳が柔く笑った。

 大丈夫、と言うように父の手がバロンの頭を撫でる。

 そして、アケへ視線を投じて。


「お願い」


 と、一言。

 シシィの視線を受けたアケは、ひれで宙をかいてシシィの横を泳いでいく。

 ふわりとアケの尾ひれが大きく広がったかと思えば、彼女は何かを振り払うように尾ひれを振るった。

 そこから迸る不可視なそれ。

 それはやがて大きな風を呼び起こす。

 小さな身体のアケが呼び起こしたとは思えぬその風は、シシィが周囲に浮かべた水球を次々に絡め取っては吹き飛ばしていく。

 半ば呆気に取られて呆然とするバロンに、シシィの苦笑が聞こえた。


「ここら一帯の魔力マナが、ティアの風で鎮められてて良かったよ。でなかったら、アケもここまでの風は呼び起こせなかったかも。この辺りは今、ティアの力を取り込んだ空気で満ちてるからね。浸透性がある」


「やっぱり、あの荒風あらかぜは母さんの?」


「そう。ティアの風に乗るっていう強行で森に乗り込んで、その途中でバロンの存在に気付いたティアが僕を落としたんだ」


 シシィがくしゃりとバロンの頭をまた撫でた。


「おかげで間に合った」


 そして次に、シシィはバロンの腕の中へ視線を落とす。

 そっと手を伸ばし、プリュイの頬を撫でた。

 その際にシシィは触れた箇所からプリュイへ気を流す。

 苦しげだったプリュイの表情が幾分か和らぎ、寝息も少しばかり穏やかなそれになる。


「これで少しは楽になったかな」


 シシィは最後にプリュイの頭を撫で、バロンへ視線を戻す。

 見上げてくるバロンの顔が今にも泣き出しそうだった。


「父さん……オレ……」


 涙で潤む琥珀色の瞳が揺れ動く。

 何かを口にしようとして、けれども言葉にならず、結局は口を閉じる。

 俯いてしまったのは、兄として妹をこんな目に合わせてしまったことへの罪悪感か、負い目か。

 シシィがバロンの肩を抱き寄せた。


「叱るのはあとだから、反省もあとだよ、バロン」


「……ん」


 シシィの胸に顔を埋め、返事をするバロンの声がくぐもる。

 今は叱られる場面でも、それを反省する場面でもない。

 堪えるようにバロンは唇を噛む。


「でも、これだけは覚えておいて」


 シシィの穏やかな声。

 バロンが唇を噛むのを、シシィの指がやんわりとやめさせる。


「バロンの行動は最善じゃなかったかもしれないけど、間違ってもないよ」


 のろのろと、バロンがシシィを見上げ、涙に濡れる琥珀色の瞳が大きく揺らぐ。

 そんなバロンを、シシィの優しげな瞳が見下ろす。


「さあ、慰めるのもここまで。今は奥地を脱して、精霊界に戻ろう。僕でもプリュイに出来たのは応急処置までだから」


 強く噛んで赤くなってしまったバロンの唇をシシィの指がなぞった。

 指先から癒やしの気が流れ、バロンの唇を冷していく。

 その唇を引き結び、バロンは涙で濡れる瞳で強く頷いた――が、次の瞬には、その瞳が大きく見開かれた。

 彼の瞳に映るのは、自分らへと迫る蔓。

 あれは先程、シシィが先端を切り落とした蔓を持った魔物。

 そういえば、アケが一層した魔物らの中に、蔓の魔物の姿はなかったような気がする。

 恐さと焦り。息が詰まり、咄嗟の声が出なかった。

 シシィの背から迫る蔓に、彼はまだ気付いていない。

 早く父に知らせなければいけないのに、声が詰まって、言葉が絡まって、喉につっかえしまっている。

 その間にも迫る蔓が恐ろしくて、バロンはそこでぎゅっと目をつむった。

 が。耳に届いた音ですぐに目を開けた。


「――え?」


 どさり、と重い音を立てて何かが落ちる。

 目を開ければ、父がバロンに背を向けていた。


「僕達、これでも急いでるだよね。――アケ」


「はい、すぐに」


 宙を泳ぎ、シシィの前へと進み出たアケのひれが大きく伸び広がる。

 彼女がひれで振り払うと、先程よりも一際大きな風が呼び起こされ、蔓の魔物が森の奥地へと押しやられていった。

 暫くの沈黙が落ちたあと、力尽きたアケがゆっくりと落ちていく。

 シシィが手の平で受け止め、肩に乗せる。

 アケを見やる碧の瞳に気遣う色が滲み、申し訳なさに揺れる。


「無理させてごめんね。ゆっくり休んでて」


わたくしはここでシシィ様の魔力マナをいただきますゆえ、お気にせず、先をお急ぎくださいまし」


 アケは胸びれをひらひらと振った。

 それが単なる強がりなのは、シシィにもバロンにもわかった。

 けれども、それを指摘してはアケの気遣いを無駄にしてしまうだけ。

 シシィは、ありがとう、と言葉にはしなかったが、アケの頭を指先で一撫でだけした。

 彼女にもそれだけで伝わったのだろう。

 シシィの魔力マナ補給食べるため、彼女はその場でくたっと潰れる。

 少しでもシシィとの接触面積を増やすためだ。

 その方が、より彼から魔力マナを得やすい。

 シシィがバロンを振り返る。


「いくよ、バロン。プリュイはこっちへ」


 そう言うと、シシィはバロンからプリュイを受け取り、腕に抱く。

 こちらも触れた箇所から少しばかりの気をプリュイへと流す。

 シシィがバロンを一瞥したのを合図に、彼らのは夜の森を駆け出した。

 が、そこでバロンははたと思う。

 己の足で奥地を抜けるのか、と。

 けれども、すぐにその理由に思い至った。

 そもそもが選択肢がないのだ。

 この場に居るのが、補助なしでは転移がままならないシシィと、転移する余力が残っていないバロン。

 この状況下では、残された手段がもう足しかないのだ。

 そのことに思い至り、バロンは思わず緩く笑った。

 バロンから見て、圧倒的と言えるほどの力を見せた父であるシシィ。

 なのに、なんだろうか、この締まらない感じは。

 漂う残念な空気感に、どこか父らしいなと思いながら、バロンは彼の背に続いた。

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