102 夢の終わり

 でも、幸せな時間は長く続けなかった……。

 雪乃ちゃんが中学生になった頃、胡桃沢くんは事故で命を失ってしまう。死因は急発進。向こうの車両がいきなりぶつかってきたのが致命的だったと、お医者さんにそう言われた。私は何度も胡桃沢くんに言ったのに……、外には行っちゃダメって。葬式で胡桃沢くんを見た時、私のすべてが崩れてしまったような気がした。もう、何も残ってないって絶望する。どうしたらいいのかすら分からない。頭が真っ白になって涙だけが床に落ちていた。


「……お母さん、お父さんはどこ行ったの?」

「…………」


 雪乃ちゃんの話には答えられなかった。

 そして車の中から出てきたいくつかの荷物、その中にはどっかに向かってるように見える彼の荷物がたくさんあった。やはり胡桃沢くんは私から離れようとしたんだ。どうして……、私はずっと愛していたのに……。どうしてそんなことを選んだのか私には全然分からなかった。ずっと……、ずっと分からなかった。


「…………」


 どこに行っても、空っぽになった心は満たされない。

 執着と愛は違う……。私は胡桃沢くんが私の前にいないと、すぐ心配してしまうから居ても立っても居られない。だから仕事で外に行く時も、ずっと……連絡をしていた。でも、それは心配になるから……特に責めたりしたわけじゃないのに。どうしてそんなことを考えていたのかな……。胡桃沢くん……。


 ぼとぼと……。


 ずっと二人で過ごしていたこの部屋に、今は胡桃沢くんの匂いしか残ってない。

 そして私を抱きしめてくれた時の温もりとその匂いはどんどん消えていく。私は今からどうすればいいの……? 胡桃沢くんと一緒に、楽しい人生を過ごすために……ずっと一人で頑張ってきたのに。私の人生、意味がなくなってしまった。


「お母さん……? 大丈夫? 夕飯、食べない?」

「……雪乃ちゃん。ごめんね……」

「えっ……? どうしたの? 泣かないで……」

「ごめんね……。ごめんね…………」

「泣かないで……? 私が悪かったから、お母さん泣かないで……」

「雪乃ちゃん……」


 私のせい……?

 それは私のせい……?


 寝られない日々が増えて、私は胡桃沢くんがいなくなっても胡桃沢くんのことばかり考えていた。毎晩泣いて、また泣いて……、胡桃沢くんと撮った写真を見つめる。それでも私の心は満たされない。いなくならないで……。私が一番怖がっていた状況が、まさか現実で起こるとは思わなかった……。


 愛が足りなかった自分のせいだと、ずっと自分を責めて……声を上げて、涙を流した。今の状況が変わらないって知っていても、私にできるのは胡桃沢くんのことを思い出して、後悔して涙を流すだけだった。


 私たちの楽しかった時間は、あの日から過去になってしまう。

 それが怖くて、怖くて……、たまらなかった。私には胡桃沢くんしかいなかったのに……、ずっと愛していたのに……。そんな風に死んでしまうなんて……、私が今までやってきたことは全部胡桃沢くんのためだったのに……。


「ああ……、ああ…………」


 ずっと私の頭を撫でてくれた胡桃沢くんを思い出す。

 もう……、戻れないって知ってるのに、そんなことばかり……。

 だから、仕方がなく。仕事に専念することにした。まだ雪乃ちゃんがいるから、胡桃沢くんと作った子供だから……。この気持ちを抱えて自殺するのは無理だった。馬鹿馬鹿しいけど、私はずっと何が間違っていたのか分からなかった。


 ……


「…………」


 そして今の雪乃ちゃんが、あの時の私と一緒だったことに気づく……。

 胡桃沢くんとの思い出を忘れられなくて、つい……宮下くんに手を出してしまったけど……。雪乃ちゃんのその顔を……私は知っていた。


「あの頃の私とそっくり……」


 冷たい病室の床で、私は昔のことを思い出してしまった。

 別にそれを隠したかったわけじゃないけど、雪乃ちゃんはすでにそれを知っていたんだ……。なら、もっと私を責めるべきじゃないの……? 胡桃沢くんを殺したのは私だから……、私はずっとそれから目を逸らして知らないふりをしていたのよ……。私がやっていたのが監禁って知っていたのに、それを愛だとずっとそう思っていたから……。


 正しいのはなんなのか、私は知らなかった。

 だから———雪乃ちゃんにも教えてあげなかった。

 今更、それを自覚してももう遅いから……、私は雪乃ちゃんの後ろ姿を見つめるしかなかった。


 香水には不思議な力がある。

 その匂いを嗅ぐだけで、あの人を思い出してしまうから……。


 私はずっと胡桃沢くんにあげたその香水を捨てるのができなかった。

 だから、宮下くんにあげたかもしれない。


「ごめんね。ハルキくん……」


 ハルキからもらった指輪を触る莉子。

 彼女は病室の中で静かに泣いていた。

 あの時の記憶が、ずっと我慢してきた時間が、そのすべてが彼女を苦しめる。


「…………っ」


 幸せだった記憶は、ずっと胸の中に……。

 溢れ出る涙は止まらず、床に落ちる……。

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