2 アウトリーフ

「立花さん、チェックお願いしていい?」

「わかりました」


 係長から書類を受け取り、指で数字をなぞりながら赤いボールペンで印を入れていく。経理の仕事は正確性が重視される。とはいえ、人間は誰しもが必ずミスをするのでダブルチェックを入れる。

 ダブルチェックがあるからこそ、油断をすることもあるのだけど。私はその油断をすくいあげる立場にいる。


 勤めていた会社を四年前に辞めた。理由はパワハラだ。

 ダブルチェックで書類を突き返してばかりいたら、それが他の社員の癇(かん)に障ったらしく、ありえないほどの業務量を押しつけられ、理不尽なことで怒られるようになった。

 運が悪いことに、私が書類を突き返していた相手が、課長の愛人だった。この愛人が泣きながら上に訴えたらしい。


 立花たちばなひとみという女は重箱の隅をつつくような、意地の悪い人間なのだと。

 就職してすぐの頃は『あなたには信頼して仕事を任せられる』と評されたのに、いつのまにか細かくて人間味がないやつだと疎まれる。この世の中はなかなかに生きづらい。


 そういうわけで私は心身共に疲弊していった。仕事でもミスが増え、ミスが多いことを理由にさらしあげられるようになった。ミスを指摘する側の人間がミスをすると、鬼の首を取ったように嬉々として突っこまれる。この社会はミスが許されない風潮だけど、実際にミスが少ない人間はあまり人間扱いされない気がする。ほどほどにミスをするくらいが可愛がられる秘訣なのかもしれない。


 どうにかして仕事を続けようかと思っていたけども、私が留まることで社内の空気が歪むし、おまけに業務量まで増やされると身体に堪える。そういう理由で大学卒業後に入社した会社を辞めた。

 その後にアルバイトとして入った今の会社ではそれなりにうまくやっている。今は契約社員にグレードアップして、正社員雇用も検討してもらっているところだ。


 以前の会社に比べて小さい会社ではあるものの、人間は穏やかだ。仕事ものんびりしているし、居心地は悪くない。ただ、昼食時の雑談は少しだけ面倒くさい。人の入れ替わりがほとんどないので、一度対応を間違えばずっとそれを引きずり続けることになる。


 便利だけど古い吊り橋を渡っているような感覚だ。余計なことを言わないように、対応を間違えないように私は常につま先からそっと足をつけて、進んでいる。


 係長から受け取った書類のダブルチェックを終えて、丁寧に返す。点数が悪い答案用紙みたいに、資料を真っ赤にすると相手の気分を害してしまうので、適当に他の色を使いほどほどにカラフルにしておく。


 私もチェックに自信がないのでご自分でも見てみてください、と柔らかくつけ加える。色をつけたところは、実は全部間違っているけどあえてすべて指摘しない。間違えると大変なことになる箇所だけを確実に伝えるだけだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る