#36 現実逃避と翌朝





 キッチンが、普段より片付いている。



 普段から掃除はする方だから汚くしていた訳じゃないけど、いつもなら何かしら出しっぱなしだったり汚れたグラスとかがシンクに置きっぱなしなのに、綺麗に片付いてることに違和感を感じる。


 施錠忘れのせいで、不安な気持ちから神経質になっててそう感じさせているのだろうか…


 でも、そういえば…


 五日前、家出る時に急いでいたから、調理に使ったフライパンや朝食の食べた後の食器などの片付けは「帰ってからやろう」と、洗わずにそのままシンクに放置しておいた記憶があるな。


 だが、現状はと言うと、フライパンは洗った状態で目の前の収納棚に収まっている。

 振り返って食器棚を確認すると、その時に使った食器も収納されている。

 炊飯ジャーのフタを開けて中を覗くと、綺麗に洗ってある。

 当然、洗った記憶も棚にしまった記憶も無い。


 俺が無意識に洗い物してから家を出発した、ってことは無いよな…


 サァーと血の気が引いて真夏だと言うのに背筋がゾクゾクする様な感覚に、冷たい汗が額と首筋を流れる。


 何者かが姿を隠したまま、また俺に忍び寄ろうとしている。

 謝罪の手紙や捕獲作戦で空振りが続いたことで、心のどこかで『もう来ない』と思い込もうとしてたのは否めず、でもそんなことは全然無かったんだ。



 ミキがトイレから出て来たのと同時に、火に掛けていたヤカンがシュンシュン音を噴き出し始めたので我に返り、急須でお茶を煎れて湯呑2つと一緒にローテーブに運び、母さんが用意してくれてたおにぎりを広げて二人で食事を始めた。



 とりあえず、考えよう。


 キッチンの違和感をミキに話すべきか、悩む。

 やはりベランダから侵入した何者かが居たのは間違いなさそうだ。

 何を目的としたのかは不明だが、キッチンの洗い物でもしてたのだろう。

 盗んだ物の弁償の件といい、マジで意味不明だ。



「のんびりメシなんて食べてる場合じゃない」と言う焦燥感と、「疲れてて体調もよろしく無いミキにこれ以上の負担を掛けるべきでは無い」と言う気持ちの両方で揺れてて、内心で動揺しているせいもあり、食事中は黙りこくったままおにぎりを頬張った。




 食事を済ませると、キッチンの洗い物のことはミキに話さないまま他にも何か異変は無いかと室内のチェックを始め、金目の物から、下駄箱、クローゼット、洗面所と順番に確認して行き、最後にキッチンも確認するが、特に物が無くなっているということは無かった。


 今のところの違和感は、キッチンの洗い物だけだ。


 被害らしい被害が無いことに若干安堵する気持ちはあるものの、やはり侵入者の痕跡があったことには落ち着く気になれず、でも、やはり今夜はミキには言うべきじゃないと考え、何とか平静を装って一緒にお風呂に入ってから、いつもよりも早めに就寝することに。

 まぁぶっちゃけ、ミキを不安にさせたくないと言いながらも疲れきってる今夜は、厄介で面倒なことを考えたくなかったという現実逃避のが本当のところだ。



 普段、ミキが俺の部屋に泊まって行く時は、エッチしてから寝る流れがほとんどなので裸のまま抱き合って寝ることが多いが、流石に今夜はエッチ無しと決めていたので、同じベッドだが抱き合わずに横になっていた。

 抱き合ってればお互いムラムラ発情してしまうからね。



 消灯してからもミキは一人饒舌に喋っていたが、今日は朝から二日酔いのミキの世話やら、長時間の移動やら、帰宅してからの侵入者の痕跡への動揺やらで、疲労困憊ひろうこんぱいの俺は早々にウトウトしていた。



「ミキ、悪いけど、今日は早く寝よう。俺もうクタクタ…」


「もうちょっとだけ!聞いて欲しい話があるの!」


「うん、ちょっとだけだよ…」


「あのね、帰りの電車の中で『どうしてこんなにもヒロくんに夢中なのか』自分で考えてたのね」


「この間の展望台で話してた話?」


「うーんとね、あの時のお話は、付き合う切っ掛けとか最近不安になってた悩みとかの話で、今日考えてたのはもっと根本的な、私がヒロくんに執着する理由?」


「ほう」


 ウトウトしてはいたが、ミキの話に興味が湧いて来た。


「私にとってヒロくんって、初恋なんだよね。 切っ掛けはヒロくんからの告白だったけど、初めて異性を好きになって、恋する気持ちを教えてくれた人? ヒロくんと付き合い始めるまでは、男性と手を繋いだりハグしたりキスしたりなんて、自分には無理だって思ってたのに、ヒロくんと付き合っていくウチに、そういうのが当たり前になって、むしろそういう愛情表現をすることが楽しいし嬉しいって思えるようになってて、恋人と過ごす時間が何にも代えがたい幸せなことなんだって教えてくれたのがヒロくんで、だから私にとってヒロくんは唯一無二の存在で――――」



「初恋かぁ。要は、男っ気の無かった青春時代の反動みたいなものなんだろうな」と興味深く話を聞いてはいたが、話長いし疲労と睡魔には勝てずに、ミキの話を聞きながら寝落ちした。




 ◇




 翌日水曜日の朝、目が覚めると同時に、ミキに襲われた。

 と言うか、襲われてて目が覚めた。


 寝惚けながらも「エッチはしない約束じゃん」と抵抗しようとするも、寝起きの体では力が入らずパワータイプのミキを押し退けることも出来ず、更に「エッチしない約束は昨日の夜でしょ?もう日付変わって朝だから問題ないし!」と言われ、諦めてミキの濃厚な愛情表現を受け入れた。


 ヒト仕事終えて、頭は起きたが体は気だるくミキを抱いたまま放心していると、ミキは俺の腕の中から起き出して満足そうな笑顔で「シャワー浴びよ?」と俺の手を引いて俺の体も起こした。


 ミキのこの様子なら、体調も完全に復活しているようだ。

 むしろ、俺よりも元気だな。



 二人で一緒にシャワーを浴びて完全に目が醒め冷静になると、侵入者の件をどうするか考えなくてはいけない現実に引き戻され、憂鬱な気分となった。

 そんな俺を見てミキは、「流石に朝からやり過ぎた」とでも勘違いしてくれた様で、シャワーの後は落ち着いた様子だった。



 ミキと手分けして朝食の準備を始めた。

 ミキが味噌汁を作ることにしたので、俺は炊飯を担当。


 お米を研ぎながら、考える。


 人間は、嫌なことがあると楽な方へと逃げたくなる生き物で、自分にもそういう部分が大いにあることは自覚している。

 昨夜は、留守中の侵入者の痕跡を見つけたにも関わらず、ミキが居ることと自分自身の疲労を言い訳にして、その件は棚上げして寝てしまった。 更には、朝っぱらからミキとのエッチに興じてしまった。


 マジで「そんなことしてる場合じゃないだろ!」とは思うのだけど、ミキには侵入者の痕跡があったことは話せてないのでミキの中では窓の鍵が開いていたという事実のみのグレー判定な訳で、朝からウキウキラブラブなテンションなのは仕方が無いとは思う。


 寧ろ、ミキがこの場に居なくて俺一人だったら、もっと不安とか恐怖に怯えていたかもしれない。


 そう考えると、強引にミキがウチに泊まりに来てくれたことは、結果的には助かったとも言える。

 但し、大事な娘さんを預かっておきながら、体調不良にさせて旅行を1日延長させてしまっていると言う状況に、ミキのご両親から不興を買ってそうだけども。

 今日はミキを自宅まで送って行き、一言でも謝罪しておいた方が良いだろうな。


 ミキが味噌汁の他に、粗挽きウインナーを炒め始めた。

 俺は炊飯ジャーのセットが終わったので、キッチンの二人掛けのテーブルに腰掛けて、キッチンで料理をしているミキの後ろ姿を頬杖ついてボーっと眺めていた。


 因みに、炊飯ジャーの釜やフライパン、そして食器類は全部洗い直した。

 流石にストーカーが触った物をそのまま使うには怖すぎる。

 本当は全部買い替えたいところだけど、金銭的なことを考えたら厳しいので、しっかりと洗ってから今まで通り使うことにした。

 ただ、フライパンだの釜など見た目綺麗なのに俺がいきなり洗い始めたから、ミキには「洗ってあったんじゃないの?急にどうしたの?」と不審に思われてしまい、「なんとなく気になりだして…」と誤魔化すハメになったけども。



 朝食を食べながら、今日の予定を相談をした。


 ミキのお母さんには今日B県から帰ると伝えてあるのでお昼過ぎに帰ることにして、自宅までは俺も一緒にタクシーで送って行き、お盆休み中で今日は在宅らしいので親御さんに一言謝罪をしてから帰る。


 ミキの自宅からはそのままタクシーでヒトミのアパートまで行って、自転車を回収してから帰宅。


 帰宅後は、旅行の荷解きやら着てた服の洗濯やらの家事を済ませて、夕方5時にはバイトなので少し早めに家を、バイトして、終われば再びミキを自宅まで送り届ければ、今日一日のお役目は終了だ。


 中でも『ミキの親御さんに挨拶と謝罪』が一番重要なミッションとなるだろう。

 こういうのはぶっちゃけ苦手だけど、だからこそ疎かにせずにキチンとすべきだと思う。









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