第38話 蝶のように舞い、蜂のように刺す

「…………」


 冬弥は初代に言われるがまま海に入り、浮き輪をつけてプカプカと浮かんでいた。しかしその顔は険しいものだった。


 初代の質問攻めの理由が見当たらなかったからだ。──俺が北海道に来た経緯のことに言及していたし、何か裏がありそうだが──。


「……」


 冬弥はちらっと横を見る。そこにはこちらを心配そうに見つめる初代の姿があった。


「どうしましたか……?」

「い、いや! なんで俺と泳ぎたいのかなって思ってさ……」


 冬弥は思わず疑問を口にした。初代は口元を緩めると、そっと目を閉じた。


「貴方様と……海を感じたいと……そう、思っておりましたので……」

「あ、あぁ」


 冬弥は曖昧に頷いた。いまいちピンと来ないが、純粋に海を楽しみたいということなのだろうか。


「なんだかすまんな。灯織に泳ぎを教えてもらったとはいえ、まだ浮き輪が無いと泳げないんだ」

「問題ありません……そうやって……ぷかぷか浮かんでいる姿も……お可愛いですから」

「そ、そういうもんなのか?」


 冬弥は照れくさくなり、視線を逸らす。初代は頷いた。


「どうぞ……浮かんでいてください……」

「お、おう」


 冬弥は言われた通りに、全身を脱力して空を見上げた。見渡す限りの青は気持ちを晴れやかなものにしてくれるし、時折吹く風は気持ちよい。また、波の音も風流なものだ。


「────」


 冬弥が物思いにふける一方で、初代はそーっと彼の背後に回り、息を飲んでいた。


 ここでなら、触れることが出来る──そして、冬弥の肩に手を伸ばした。


「……あっ」


 すると、後ろの方から初代の声が聞こえた。冬弥は驚いて振り返る。


「ど、どうした?」

「な……なんでもありません……!」


 初代の顔はやや赤かった。彼女は冬弥の背後から離れると、同じように水面にプカプカと浮かんだ。


「……」

「気のせいか」


 初代が何も喋らずにただ波に身を任せているだけなので、冬弥は再び警戒を解き、空を見上げた。


「────」


 こうしてただ、空を眺めるのも悪い気分ではない。電線もビルも何も無い、群青──それは本当に貴重なものだからだ。


 冬弥は心地よい風に吹かれながら、目を瞑った。浮き輪によりかかって、波の揺れに身を任せる。


「────!」


 そして、その微かに息が漏れる音を聞いた瞬間、冬弥は高速で振り向いた。


「………………あ」


 そこには、こちらに向けてぎこちなく小さな腕を伸ばす初代の姿があった。


「ええと……何を企んでる?」

「……!」


 初代は慌てて手を引っ込めると、視線を逸らした。


「なんか俺の後ろで手を伸ばしているのが見えたんだが」

「き、きっと……目の錯覚でしょう」


 初代は顔を真っ赤にして答える。


 しかし、冬弥は頭をかいてから言った。


「無理なお願いじゃなきゃ、協力するぞ」

「……!!」


 願っても無い提案に初代は一瞬躊躇ったが、やがて意を決したように口を開いた。


「……少し……お触りしても……よろしいでしょうか……?」

「お、お触り!?」


 冬弥は動揺した。一体全体、どういうことだろうか。こちら側から灯織に「お触りスケベさせてください」と言うのはまだわかる。


 しかし、初代が自分に触れても何のメリットもないだろう。女湯に入りたがる男は後を絶たないが、男湯に入りたがる女性はこの世に存在しないのと同じ理屈だ。


 だが、こちらが知らないだけで、女性が男の身体を触ると何か良いことがあるのかもしれない。冬弥は深呼吸してから答えた。


「別にいいぞ」

「……! 本当に……!」

「あぁ。減るもんじゃないし」


 冬弥はそう言って、浮き輪に座ったまま両手を広げた。すると初代は恐る恐る近づいてきて、冬弥の手に触れる。


「これが……貴方様の……」


 初代は少し息を荒くしながら、冬弥の手をぷにぷに触っていた。冬弥は首を傾げる。


「えっと……楽しいか?」

「はい……とても……素晴らしいです……」


 初代はそう答えると、自分の中で何かが吹っ切れたのか、ゆっくりと指を動かして、冬弥の首筋に触れた。


「っ……」


 冬弥はビクッとするが、初代はそのまま続ける。首元から鎖骨までなぞるように触れた。


「ちょっ、くすぐったい……!」

「あっ……すみません……」


 初代は我に返ったように呟くと、そのまま冬弥の正面に行き、水面に浮かび始めた。


「えっと……満足か?」

「はい。大変……楽しかったです」


 初代はそう答えると、自分の胸に手を当てた。未だに興奮冷めやらぬといった感じだ。


「そっか。なら良かった」


 冬弥は大きく伸びをした。──初代は突然『真っ白な心を初代色に染める(意訳)』と言い始めたり、すごく楽しそうに身体を触ってきたり……よく分からない行動をすることが多い。


 しかし彼女の情趣に満ちた笑顔を見れば、冬弥はなんだかんだで安心するのであった。


「あの、初代?」

「はい。……なんでしょうか」


 自分の胸とにらめっこしていた初代は、冬弥の方に振り向く。


「さっき砂浜にいた時、珍しく俺の身の回りの事を多く訊いてきたけど……あれはどうしてだったんだ?」

「それは……」


 初代は言葉を止めると、やがて身体を起こし、海底に足をつけた。


「ふふっ……簡単なことです」


 初代は冬弥に近づくと、そのまま囁くように言った。


「貴方様のことを──知りたかったからです」

「……!」


 その姿は、いつかの喫茶店で見た初代のそれと被って見えて。


『真っ白な心を染める』と宣言した彼女の面影が鮮明に浮かんできた。


「それと……実はもう一つ、要件がございまして」

「な、なんだ!?」


 冬弥は焦りながらもそう聞き返す。


 先から、初代の様子がおかしい。もしかして、何か一線を超える要求でもしてくるのではないか──!


「『エマ先輩にお触りした』という話について……詳しく聞かせてもらいます」

「────」


 そう言われるなり、冬弥は遠い空を見上げた。今すぐに逃げ出したいが、苦手な水の中なので当然逃げられない。


 ──どうやら初代の身体が自分の返り血で染まる時も、そう遠くは無いらしい。

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