第7話 涙がこぼれそう
「……ただいま」
灯織が店に帰ると、食材の仕分けをしていたナギが出迎えた。まだ店内に客はいないようだ。
「おかえり。冬弥くんは?」
「なんかあいつ、男に人気みたいで。友達と一緒に帰るんだってさ」
灯織はそう言ってため息をつくと、荷物を下ろした。
「ほんと、いっつも周りに男がいんの」
「あー、たしかにあの子、男子ウケ良さそうね」
「……しかも借金のことを笑い話にしてた。危うく、わたしの部屋着の色もバレるところだったんだから」
灯織は弁当箱やその辺に置いてあったコップを洗いながら、そんなことを言う。
それを聞いて、ナギは笑った。
「へぇー。冬弥くんたちの話、盗み聞きしてたんだ?」
「!? いや、たまたま聞こえてきただけで! あいつ、声でかいし……あっ!」
灯織は動揺して手を滑らせると、そのままコップが床に落ちた。大きな音を立てて転がる。
「大丈夫!?」
ナギが急いで灯織の元に駆け寄る。幸い灯織は無傷で、コップに割れ目はついていなかった。
「……なんかあいつが来てから、調子悪い」
「そうなの?」
灯織は不機嫌そうに頷くと、皿を洗いながら言った。
「うん。男って、ほんとバカ」
その時、扉が開いた。お客さんだろうか。灯織はすぐに駆けつけると、微かな笑みを浮かべた。
「い、いらっしゃいませ。おひとり様ですか?」
灯織は時折つっかえながらも、テーブルにお客さんを案内する。
最初は接客なんて全くできなかったのに、成長したなぁ……とナギは思うのと同時に、いつも当たり前のように店の手伝いをしてくれることに心から感謝した。
「かしこまりました、少々お待ちください。……お姉ちゃん、ホワイトモカと幸せふわふわパンケーキだって」
灯織はナギの元に行って注文を伝言した。
幸せふわふわパンケーキ、なんて言葉を真顔で言う灯織がなんだかおかしくて、ナギはふふっと笑った。
「わかった。灯織、いつもありがとね」
ナギはそう言って灯織の頭を撫でると、パンケーキの生地をフライパンに広げた。
「何さ、いきなり」
「いつも手伝ってくれるからさ。灯織も忙しいのに」
「別にいいよ。今日は部活もなかったし、その……」
灯織はおもむろに、指でナギの頬を押した。
「貸しってやつ。ほら、将来何か頼み事ができたら、その時に返してもらうから」
あざとく、灯織は笑ってみせた。あまりに破壊力のある笑顔だったから、ナギはなんだか黙ってしまって。
「あ────」
「お姉ちゃん、なんで固まってるの。パンケーキ焦がしちゃう」
灯織がそう言ってから、ようやくナギは手を動かし始める。
「いやー危なかった。あまりに灯織がかわいくてさ」
「もしかして褒め言葉で借り返そうとしてる? それはナシだからね」
灯織はそう言って、いたずらっぽい顔で笑った。それは決して冬弥に向けられたことは無い、とびきりの笑顔だった。
☆
「いらっしゃいませー!」
茜色の日差しが窓辺から差し込んでくる頃。若宮家の喫茶店には、いつもより多くの客が集まっていた。こんなにも混んでいるなんて、この店に何が起こっているのか──ナギと冬弥は、それぞれ厨房とフロントで同じことを思う。
「お待たせしました、特製オムライスとアイスコーヒーです。……あっ。こちらのお客様、チョコパフェになります。ごゆっくりどうぞ!」
冬弥は忙しく動き回りながらも、しっかりと対応していく。まだこの家に来てから一週間も経っていないが、もうすっかり仕事に慣れつつあった。
「冬弥くん、空いたテーブルから案内して!」
「わかりました!」
冬弥は厨房にいるナギの指示に従い、素早く動いていく。灯織は現在休憩中であり、ナギも大急ぎで料理を作っているため接客は実質冬弥のみとなっていた。
「いらっしゃいませ、こちらの席にどうぞ!」
冬弥は汗を拭いながら、大勢の学生を席に案内した。あと二時間ちょっとで閉店するというのに、まだまだ客足が止まる気配はない。
喫茶店は何となく落ち着いているイメージがあったが、今日は週末ということもあり一段と客が多かった。
「…………よし。こんなもんか」
冬弥はカウンターでコーヒーを淹れてから、再びテーブルに向かった。
「はい、こちらホットコーヒーになります! ……あっ、いらっしゃいませ。ご注文ですか? 今日は寒いですからね、こちらなんかオススメですよ!」
「じゃあ、それでお願いします」
注文を受け取ると、冬弥は再びカウンターに向かう。彼はこの忙しい状況を心から楽しんでいた。今は希望しか見えない。
東京で親に見向きもされず、ご飯もろくに作って貰えなかったあの頃に比べれば、誰かに必要とされていることが嬉しくて仕方なかった。
「…………ふん」
冬弥がせっせと働いている様子を、灯織は裏から眺めていた。なんだかんだ彼のことが気になって、Tシャツの裾をキュッと掴みながら見守っていたのだ。
「ナギさーん! これってこのグラスで合ってます?」
「うん! 合ってるよ!」
やはり、彼は労働するということに慣れていた。わからないことはすぐに質問する。当たり前のようで、意外にできないことだ。
「あ、お会計ですね。ありがとうございます! たしか今ポイント還元セールやってるんで、PayPayとかオススメですよ」
「え。でもここ、キャッシュレス決済出来なかったような……」
「本当ですか!? すみません、今のは忘れてください!」
東京で培ったのか、冬弥は明るい雰囲気でお客さんと接する。そのおかげか、店内が自然と和気あいあいとしたムードになっていたのだ。
「…………」
灯織はそれを遠巻きに眺めた。時折感心したり、心のどこかで彼を嫌悪する自分がいることに嫌気が差したり。
恥ずかしいことに、自分は他人と上手くコミュニケーションができない。わたしにないものが、あの人にはある。それがなんだか気に食わない。
「ありがとうございましたー!」
冬弥は最後のお客さんを見送ると、ふぅと息を吐いた。ドアの札を『CLOSE』にしてから店内に戻る。
──それにしても今日はお客さんが多かったな。これじゃ、ナギさん一人では店が回らなくなるわけだ。
「よし。今日もよく頑張った」
「…………そうだね」
冬弥はその言葉に思わず顔を上げる。そこには、ジャージ姿の灯織がいた。
「え?」
「な、なんでもない。その……妙にこなれてるんだなって。そう思っただけ」
灯織は曖昧にそう言い放つ。ただ労いの言葉をかけたかっただけなのに、なんだか嫌味のようになってしまって。
彼に声をかけたのを後悔した。
「慣れてるっていうか……俺は、これでやっていくしかないからな」
しかし灯織の心配とは裏腹に、冬弥は皿洗いをしながら、噛み締めるように言った。
「夜逃げされて、借金を押し付けられて……何もない俺に、手を差し伸べてくれる人がいるんだ。そんな人たちに恩返しするために、俺は精一杯頑張ってただけだ」
冬弥は淡々と話す。その姿は、あまりに等身大で。灯織は気づけば、彼の横顔をまじまじと見つめている自分がいることに気がついた。
「そ、そっか──」
灯織はなんだか小っ恥ずかしくなって、背を向けた。やっぱり、この人は自分と住んでる世界が違う。こんな嫌味を言われて、それを好意だと受け取って。
なんだか、わたしがバカみたいじゃないか。
「っていうか、灯織だって────あれ」
冬弥が顔を上げると、そこには人影のない階段だけがあった。
すると灯織と入れ替わるように、ナギさんが一階に降りてくる。
「お、冬弥くん。お疲れ様ー。今日は上がっていいよ」
「……えっ。あっ、はい! お疲れ様です!」
冬弥は皿を置くと、イマイチ煮え切らない気持ちを抱えながら階段を上がった。
「………………っ」
灯織の部屋の前を通った時、彼女に声をかけようかとも思ったが、冬弥は手を引っ込めた。
なんとなく、今は灯織と会わない方がいい気がしたからだ。
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