AVERSE NOVELSーAKASHIMORINONEKO SYOUHONー

三界旅手帖


差出人が書かれていない小包が届いた。祖父江そふへ、とある。果物ナイフで封を切ると、中には硬券の切符が一枚と、真新しい手帳が一冊入っていた。ふふっ。旅に行っておいで、と言われているような気がした。とても微笑ほほえましいじゃないか。手帳いっぱいに、みやげ話を詰め込んで帰らなければならないようだ。



思い立ったが吉日、押し入れの奥から柳行李を引っ張り出して、旅支度を始める。昔使っていたものだが、まだまだ使える。長旅にはならないだろうから、身軽に行きたい。しかし、夜は冷えるだろうから、外套がいとうは欠かせまい。遠足前の子供みたいにうきうきしている。童心どうしんに帰るというのも悪くないものだな。



駅へ向かう道すがら、通夜の帰りだという和尚に呼び止られた。和尚おしょうは、今しがた出てきた家に入っていったかと思えば、すぐに戻ってきた。断りはもらった、と垣根に植えてあった南天の枝を手折って懐紙かいしに包み、すらすらと筆を走らせる。持っていきなさい。渡された包みには、難転なんてん厄除けと書かれていた。



もうしそこの御方おかた行先いくさきは見えておられるのか。駅前で、辻占つじうらの老人に呼び止められた。問題ない、と返した。和尚といい、なぜ不安そうな顔をするのか。不思議でならなかった。別れ際、明かりだけは見失わぬよう気を付けなされ、と念を押された。何も心配などいらない。着の身着のままの旅だというのに。



 【中略】



汽車が遡上そじょうしている。というと何だか魚のようだ。この辺りの線路も水没しているらしい。水を掻く音が聴こえている。川上から、ぼんやりと光るものが流れてきた。ひとつやふたつではない。車掌から網を借りてひとつをすくい上げてみた。睡蓮すいれんであった。海へ向かっているだろう。



雲ひとつない宙には満天の星が輝き、大河を生み出している。汽車は川の上にかかる鉄橋に差し掛かった。水面には天の川が映っている。窓から身を乗りだせば、水鏡に吸い込まれてしまいそうな感覚に陥っていた。おのを見失わぬようお気を付けください、と見回りに来た車掌が言った。怖くなって窓を閉めた。



陸地を走るようになってだいぶ経ったが、車窓からはススキ野原しか見えない。その中に大小まちまちの石が並んでいた。きっと墓石なのだろう。見るからに古いものだが、しっかり菊が供えられている。いったい誰が―。それは知るすべもないこと。それでも信仰が残っているのだと思うと、心が洗われた。



改札口だけの駅だった。その向こうに広がるすすき野。空は沈む太陽と薄闇の色が混ざり合っている。かたわれどきだ。しばらく停車すると車掌が言っていた。プラットホームの柵に寄りかかって、まぶたを閉じる。耳をすませば、草れの音と秋虫の声。そのさらに遠くからドヴォルザークが風とともに聴こえた。


 【後略】

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