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     ・


 閉館日のデータ整理を終わらせて館内見回りをしていると、入口のドアが開く音がした。

 そういえば施錠するのを忘れていたなと思いつつ、誰だろうと書架の間から顔を出すと、その人物は一直線に私の方へ早足で来て、目の前で立ち止まった。

 夕刻の背の高い書架の谷間は薄暗くて、顔ははっきり見えなかった。

 しかし、見えずともそれが校内で有名な風紀委員長ハヤカミセンパイであることはすぐにわかった。何度も貸出カウンターで顔を合わせているので知っている。

 先輩はなんとなく追い詰められたような、とても焦っているような様子で私をじっと見つめてきて、その勢いというか雰囲気に少し気圧けおされた。

 それでも「何か御用でしょうか」とたずねようと口を開きかけた、それよりも早く。


「あなたが好きです。恋人になってください」


 私をぎゅっと抱き締めながら、先輩はそう言った。

 他に解釈のしようのない、わかりやすく真っ直ぐな告白だった。

 単純明快かつ意味不明なことこの上なし。

 なので私は、


「お断りします。わけがわかりません」


 と脊髄せきずい反射で答えていた。


     ・


 そのときの先輩は、テストでヤマを張って一夜漬けしたところが一切出題されていなかったときのような絶望を顔に貼り付けて硬直していた。

 その頼りなく凛々りりしさの欠片かけらも見当たらない表情には、これが本当に校内で有名なあのかみ先輩なのかと疑問を持ったものだ。


「厳しくも優しい風紀委員長がすることじゃないですよね」


 当時を思い出し、私は呆れてため息をついた。


「普通は友達からじゃないんですか。それを一足いっそく飛びに恋人になってくださいと相手を抱きしめるなんて」

「うん……私も実は言ってからそう思った。やっちゃったー! って。でも、そのときはそれだけ切羽詰まって余裕がなかったから……」


 自嘲じちょう気味ぎみに笑って、先輩は私の頭を撫でた。

 その手が妙に優しくて、温かくて、心地よさに思わず先ほどとは違う吐息が漏れる。


「私は、あなたほど強くなかった。だから――ヒナを求めた。あなたの強さが欲しくなった。一人でも平気でいられるあなたの強さがうらやましかった」

「そう言われても……自分が強いなんて思わないですし、先輩が弱いなんて思いませんけど」

「うん。それは、ヒナと過ごしているうちに弱くなくなっただけ。私に興味がなくて、偶像として接したりしないヒナは、私が欲していた『対等な存在』だから。嫌そうでなくても、あなたが一緒にいてくれるだけで、いつしか私は孤独を感じなくなった。あなたが私を強くしてくれた」

「……そんな大袈裟な。私は何もしていません」

「一緒にいてくれた。それだけでよかったんだよ」


 ふふふ、と嬉しそうに笑って、先輩はぎゅっと私を抱き締める。初めて告白されたあのときのように。

 相変わらず良い匂いがして温かで柔らかくて、なぜか安堵する感覚だった。


「大好きだよ、ヒナ。愛してるー」

「そうですか」

「つれないなー。でもそういうところが好き」


 と首筋にキスされた。不意打ちでくすぐったくて、ひあ、と変な声が出た。


「ここ弱いんだ? 可愛い。……と、そういえば、ヒナに聞きたいことがあるんだけど」

「別に弱くありませんちょっと驚いただけです。それより聞きたいことって何ですか」


 話を変えようと急かすと、私の背に回していた手を両肩に移動させ、少し距離をとって先輩が私をじっと見つめてきた。おちゃらけた気配がふと消えて、周囲の甘い空気が引き締まる。


「取り巻きにいじめられたとき、どうして本当のことを言わずに嘘をついたの? 私がヒナに近づいたせいでいじめられたんだよ。それって完全に私のせいじゃない?」


 問われて、先輩を泣かせてしまったことを思い出し、胸がチクリと痛んだ。

 あのとき私はどうするのが正解だったのだろう、といまだに悩んで答えを出せずにいる。


「……理由はいろいろあります。隠れて報復されるのが面倒でしたし、黙っていれば問題は大きくならないし、取り巻きの人たちもそれで気が済むと思ったので」

「私に話そうと思わなかったのは、私が頼りにならないからだとしても……私に対する苛立ちとか怒りはなかった?」


 と、先輩は痛いところを突いてきた。

 前髪を切られたときに、先輩にすべてを話して守ってもらうという方法を考えなかったわけじゃない。先輩がそもそもの原因でこんな目にっているんだと考えなかったわけじゃない。先輩に責任を取って欲しいと思わなかったわけじゃない。解決の最後のカードとして考えたのが、先輩にすべてを話すという方法だった。このカードなら間違いなく問題が綺麗さっぱり片付くことはわかっていた。

 けれど、私はカードを切らなかった。

 この件で先輩をわずらわせたくなかったのだ。

 私が沈黙を通せば先輩を悲しませなくて済むと思ったから。

 いやがらせを受けるより、私のせいで先輩の顔が曇るのを見たくなかった。

 だから話さなかったし、先輩に対して怒りもしなかった。

 強いて言うなら、全校生徒の前で大演説をぶちかました先輩にちょっとだけ苛立ったくらいか。

 大事おおごとにならないようにと私がやってきたことをひっくり返されたのだから、少しばかり腹が立った。

 しかしそれは私を守るためだったと今はわかっているから、その件で先輩を責めるつもりはない。むしろ苛立ってしまった自分の浅慮せんりょを反省している。

 最も怒りを覚えたのは、悲しませないようにとついた嘘で、結果的に先輩を泣かせてしまった自分自身の絶望的なバカさ加減にだけだ。


「怒ってもいませんし、頼りないとも思ってません」

「そっか」


 ほぼ即答に近い私の一言に、うんうん、とうなずいて先輩は笑った。

 それはすごく悲しそうな笑顔だった。

 私が本心を語っていないとわかっていて、それを引き出そうとはしていない、諦めと無力感が混じった表情。

 凛々しい風紀委員長ともティータイムの甘えん坊とも違う――寂しそうな笑顔。

 それを見た瞬間、心の奥底がきゅーっと絞られたように痛んだ。

 そんな顔を見たくなくて沈黙を通したのに、それが原因で悲しませてしまったかもしれないことがこの上なく苦しい。

 また私は先輩を泣かせてしまうのかと思うと、たまらなくなってそんな顔をしないでくださいと叫んでしまいそうになる。

 そうできなかったのは、先輩が先に動いたからだった。

 再び私を抱きしめて、言った。


「ごめんなさい、ヒナ」

「なんで先輩が謝るんですか」

「ヒナが怒れないのは、きっと私が原因だと思うから。溜め込んだその気持ちを吐き出すところがなくて、すごくつらいと思うから。ごめんなさい、気づいてあげられなくて」

「いいですよ、もう。今朝の先輩の宣言で、正直、何もかもすべて吹っ飛びましたし」

「……ありがとう」


 そう呟いて、先輩は私の胸に顔をうずめた。その肩が少し震えている。

 それを見て、そういうことか、と私は今更ながら気づく。

 先輩は、私に嘘をつかせたことを謝りたかったのだと。

 私が今、何をどう思っていようと、怒り(自覚はないが、先輩にはそう見えるらしい)を嘘でおおい隠したことに対して謝らなければいけないと、ずっと思い悩んでいたのだろう。

 そんなことはどうでもいいのに。

 溜め込んだ怒りも、理不尽ないじめの鬱憤うっぷんも、これからどうやって平穏に過ごそうかという悩みも――その原因たる先輩が全部綺麗さっぱり洗い流してしまったのだから。

 何があってもずっと私のそばにいることを周囲に知らしめるという強引な方法で、すべてを片付けてしまったのだ。

 この極上甘えん坊が私を守り、ずっとそばにいると言うのなら、私はそれに従うしかない。今更私が何を言おうと、ワガママ放題の先輩に逆らえるはずもないのだから。

 許すも許さないもない。

 そういう次元はとっくに超えている。


「もし……迷惑だったら、もうヒナには近づかないように……するけど……」


 なのに、こんなことをおっしゃる。すごく悲しそうな顔で、心にもないことを。

 そんなものを見せられると嗜虐心しぎゃくしんが湧いてしまうではないか。


「先輩にできるんですか? そんなこと」


 突き放すような私の言葉に、先輩はこの世の終わりを迎えたような表情でうめいて、じわりと涙までにじませたりしていた。


「うぅ……でっ……できっ……できません……ッ!」


 激しい葛藤の末、血を吐くような苦しい顔でいつわれなかった気持ちを吐露とろした。

 ええ、そうだとわかっていましたとも。

 我ながら意地の悪いことだ。


「ですよね。まったく、変に気を使って心にもないことを言わないでください。先輩がそばにいたいならいればいいんですよ。散々ワガママを通してきて今更遠慮してどうするんですか」

「い、いいの……? 迷惑かけちゃうかもしれないんだよ? ヒナはそれでいいの……?」

「迷惑も何も。先輩があんなカミングアウトをするから、常に先輩がそばにいないと私の身があやういんですよ。その責任を取ってもらわないと困るんです」


 ……まあ、別に先輩がいなくても、取り巻きたちに何かされることはもうないだろうけど。

 私はいまやなのだ。

 それを知っていながら手出しできる『甲矢神教信者』はいないだろう。内紛で忙しそうだし。


「ヒナ……。わかった、責任取るからねっ! 何人なんぴとたりとも、絶対にヒナに手出しはさせないから! 約束するっ!」


 私の返答に先輩は鼻息荒く宣言した。


「期待してます」

「うん!」


 私の反応がお気に召したらしく、先輩は嬉しそうに笑った。

 やはり先輩は笑っているほうがいい。

 その表情が一番輝いている。

 そのほうが私も嬉しくなるから、いつも笑っていて欲しい。

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