第拾参話 御贔屓様の場合
「いらっしゃいませ、ご隠居様」
このお客様はセフィリス・トリフォリウム・カンプス様。
王都グレンカイナでも五本の指に入る大商店、「
十年以上前に御長男に身代を譲られ、楽隠居を愉しんでおられるとはご本人の談。
御歳は当年とって七十幾つとお聞きしているが、とてもそうは見えない。
背筋はしゃんとしておられるし、声も
それだけなら冒険者ギルドの「
銀縁の
年齢不詳というのがぴったりくる。
もう長いこと
というよりヴィオレッタ嬢はご隠居に「
「おんや、
相変わらず
ただそこにちょっとした疲れのようなものが見えるのは、
「いえ、とくに理由は在りませんが、今宵見えられると予約表で知りまして。久しぶりにご挨拶をと」
――嘘だ。
確かに仕事で一階に降りてきている時にお見かけすりゃあ、当然ご挨拶はする。
だが大扉の前で来店されるお客様を
どれだけの御贔屓筋様が見えられるとしても、
王陛下でも見えられるってんなら話は別だが、さすがにそんなことはありえないだろうしな。
王族、しかも女性が来る娼館ってだけでも珍妙なのに、王陛下がお客様として来られる娼館はもはや娼館じゃねえような気がする。
だから今日、俺がこうしてご隠居をお待ちしていたには理由がある。
それは――
「はいはい、底意地の悪りぃ質問したアタシが悪かったから、猿芝居は止めにしておくれな。
「御隠居様……」
からからと笑って、俺が無粋にも大扉の前で待っていた理由をあっさりと仰る。
そうなのだ。
その名の通り三つの大陸全てに幾つもの支店を持ち、世界的な商売をしている「
「
俺が知り得たのは、偏に
「なんてぇ顔してんだい、あのお人のお弟子さんが。シャンとなさいな、こんなこたぁいくらでもそこらに転がってる話だよ」
「はい……」
ご隠居も
というよりも
そんな人が
おかげでらしくない事をしてしまったが、これ以上何を出来るわけでもない。
俺は娼館の
だったら今日の夜を出来るだけ楽しんでもらう事くらいが俺の出来ることだが、ハナからこんなむさくるしい顔にご隠居を付きあわせてたんじゃあ話にならない。
「だから特別な事はしなくていいからね。いつも通りヴィオレッタのお嬢ちゃんと遊ばせてくれりゃあそれでいいよ。もちろんお代は持ってきてる。ツケで遊べねぇってな粋じゃあないがしょうがないね。ま、娼館で銭金の話しといて粋もへったくれもあったもんじゃないけどサ」
いろいろと見抜かれている。
その上笑いながら
この人が夜街で銭金の話をするなんてな、本来ありえない。
それでもきちんとしなくちゃならない時には、きちんとする。
「いえ……。すぐにヴィオレッタ嬢は参りますので、それまでくつろいでお待ちください」
こういう手におえないくらいエロくて、粋で、見惚れちまうような遊び方をされる方がいなくなるってのは夜街全体の損失だ。
銭金の話だけじゃなく、夜街から艶が消えてしまう。
こういう夜の世界ってのは
そういう存在が夜街から失われると、殺伐とした空気になってしまいかねない。
この方はご隠居だ。
今回の原因に直接かかわっておられた訳じゃない。
――身代譲ったからには、余計な口は出さねえほうがいいんだよ。
と仰って、夜街で大金を使っては、当代に嬉しそうに叱られておられた。
当代もご隠居の代ほどではないが手堅く商いを行い、先代が築いた商売を堅実に広げて行っておられる、穏やかだが優秀な方だ。
間違っても店を潰してしまうような、愚かな方じゃない。
何と言ってもこのご隠居が育て、認め、身代を譲った方なのだ。
――息子というよりゃ、出来の悪い弟子ですよ。
というのが酔われた時の口癖で、何度かご一緒させていただいた当代はその言葉に嬉しそうに笑っておられた。
今回はしてやられたのだ。
しかも相手は同じ商売人ではなく、いくつかの国が組んでの事らしい。
俺はそういう経済だの商売だのの難しい話はよくわからねえ。
それでもなんか理不尽なものを感じる。
そういう事が
「悪い顔してますよ、
お好きな
それでも向こうがそういうやり方で来るのなら、こっちだって、というのは単純な俺はどうしても思ってしまう。
「お気持ちは有り難いけどね、
返す言葉もないです。
そういうつもりは無かったなんで、何の意味もない。
相手がそう取れる言動をした時点で言い訳の余地もない。
「息子は手前の判断で大勝負かけて負けたんです。そのツケは払わなきゃならない。そりゃ当たり前のことですよ。騙された訳でも、寝首をかかれた訳でもない。相手がでかいって事を知りながら、勝った時に得るものを望んで挑んだのはあの子です」
いちいちごもっともで、余計な言葉を差し挟むこともできない。
「これが軍人さんや冒険者さんだったらどうです。答えは簡単、死んじまってますよ。生きてるだけでめっけもんなんです」
そりゃそうだ。
己一人の事なら、俺だってそう納得できる。
だけど弟子の負けに、師匠が巻き込まれるのが納得いかねえ。
それが商売の世界だって言われりゃそれまでなんだろうが、軍人や冒険者――
いや違うか。
俺が駄々こねてんのはあれだ。
弟子が負けた時に、師匠が仇取ってくれねえことを子供みたいに拗ねてるんだ。
度し難いってもんじゃねえな。
「セフィリス様、お待たせいたしました」
準備の終わったヴィオレッタ嬢が、ご隠居から贈られた豪華な衣装に身を包んで現れる。
間違いなく仕事なのに、商売モードではなく嬉しそうなのは長年の付き合いの結果だろう。
ご隠居は今日、俺とお話に見えられたわけじゃない。
長年可愛がっていただいたヴィオレッタ嬢に、最後に逢いに来てくださったのだ。
俺のくだらない「納得いかない」ってな気持ちで、この時間を台無しにするわけにはいかない。
「はい
「セフィリス様……」
俺の前で具体的な話を出されたので、ヴィオレッタ嬢が赤面している。
今夜が最後になるって事は、ヴィオレッタ嬢はまだ知らない。
この後聞かされて、泣くことになるんだろうか。
ヴィオレッタ嬢の最大の御贔屓様が消えるんだ、
だが流される涙の数滴でも、娼婦としてじゃないものが混ざっていると信じたい。
いつものように笑顔でヴィオレッタ嬢の私室へ移動しようとしているご隠居が、すと俺の傍に寄ってくる。
呆れたような溜息を一つついて話される。
「しょうがないお人だねえ、
俺そんな情けない顔してたのか。
仕事中になにやってんだって話だ。
お客様に気を使わせるなんざ、
より落ち込む俺の背中を、細い腕でポンとたたいて話してくださる。
「なあ
そういって年齢不詳の顔に、子供みたいな笑顔を浮かべる。
それって――
項垂れていた顔を――項垂れてたんだな、俺は――跳ね上げる。
きっちり師匠として、ぶん殴り返すつもりも用意も出来てるってことですか。
それを隠して、しれっと
人が悪いですよ。
「商売ってな甘いもんじゃありません。一回すっ転んだ人間に手を差し伸べてくれる酔狂な相手なんかそうそう居やしねえんです。だけど幸いにしてすっ転んだのは息子でアタシじゃない。アタシにゃこれまでの人生で積み上げてきた人様との繋がりてえモンがあるからね」
そう言って笑う。
これこそが
さっきの俺が浮かべた顔なんて、小僧っ子が悪戯思いついた程度の事だ。
これは相手を根こそぎ叩いて潰す顔。
敵と見做したものと相対する時に、
何かゾクゾクしたものが身体に走るのがわかる。
これが「師匠」ってものだ。
「
そう言いながらヴィオレッタ嬢の所へ戻り、その腰を抱き寄せる。
この人たちは最後にお気に入りの女に逢いに来るなんて、殊勝な生き物じゃなかった。
喧嘩の前に、景気づけに来ただけだこりゃ。
思わず安心したような、呆れたような表情を浮かべた俺に、にやりと年甲斐もない
「色てなぁ、男の原動力ですよ
「いやあの、ご隠居、それは……」
なんだって誰もかれも
誰かが言って回ってるわけじゃあるまいな。
それともそんなわかりやすいのか俺達は。
この前呑んでから、そんな空気がだだ漏れでもしてるってのか。
もしそうなら引き締めなきゃならん。
はっはっはと嘘くさい笑いをしながら、ヴィオレッタ嬢と共に私室へ消えてゆく。
ヴィオレッタ嬢は不思議そうな顔だ。
さもありなん。
要らん心配して損したよ。
いや心配する事がそもそもおこがましかったんだが。
分を弁えんとなあ。
今度帰られた時にゃ、一度そっちの呑みに
十年はええよ、とか言わないで。
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