三章(二)

 私は、先生の後に続いて彼の病室に入った。

 ベッドには、彼が横たわっていた。彼はベッド付近にある様々な機器と管で繋がっていた。

 そして、その機器の横には丈の長い安っぽい生地のワンピースを着た母親が彼の顔をみながら座っていた。憔悴しきった様子で生気が全く感じられず、魂が抜け人間のがわだけがそこにあるように感じた。

「ど…なたでしょう…か?」

 こちらを見ずに掠れた声で聞かれた。

「お世話になっております。私は、村雨くんの担任の小野寺です。こちらは、桂恵さんです。」

  先生が自分と私の紹介をした。彼女は、私たちを全く見ていない。先生は気にせず、つづけた。

「まずは、お子様のご全快を祈念し心よりお見舞い申しあげます。心ばかりのお見舞いのお花ですがどうぞ。」

 先生は、白いトルコキキョウの花束を差し出した。 彼女はそれを、座りながら見上げていた。

「お花大丈夫でしたか。気分害されましたら、持ち帰りますが…」

「そこ、に置いといてください」

  窓辺にあるテーブルの上の花瓶を指差した。

「分かりました。」

 先生は、花瓶を覗きこんで水が入っていないことを確認し、花瓶を持って病室を出て行った。



「あなたは、繁のなんなの?」

 低い声でテーブルの近くで突っ立っていた私に声をかけてきた。初めて目をみて言葉を投げ掛けられた。その目には怒りや悲しみ、蔑み、悔しさ全てが混じりあっているように見えた。

「そうですね。知り合いという表現が一番近いです。」

  確かに、私と彼は、友達ではない。顔と名前のみを知っているため、知り合いという表現が最も近い。

「知り合い程度の関係なのになんで来たの?」

  彼女は、立ち上がりベッド周りのカーテンを閉め、椅子を持って近づき、私の前で座った。私もテーブルの下にあった椅子を出し、彼女と向き合う形で座った。  

 私は、少しだけ戸惑った。こうもストレートにいわれると、私も正直に言うしかない。

 それに、私には明確な目的がある。願いもある。

「彼に、村雨君に、生きてほしいからです。」

「そんなの、ある程度の関係性があれば当たり前に思うことでしょう。 私は、それが無いあなたが、なぜ来て、なぜそう願うかを聞いてるの。」

  彼女は、語気を強めた。空になっていた彼女の体に負の感情のみが入り込み動いているように感じた。

「生きて、あのときの言葉の真意を彼に聞きたいんです。」

 私も、負けじと語気を強めた。このまま死んでしまっては困る。あの日、あなたは私に「お母さんを大切にね。」という言葉だけ残して去った。暗闇の中へ駆けていった。

 自分が一番大切にできていないではないか。さっきまで、あなたの母親は完全に抜け殻になってしまっていた。あなたが、そうさせていたのだ。

「あのときの?」

 彼女は、私の顔をじっと見つめた。何かを思い出そうしていた。

「私の父の通夜で言われたんです。「お母さんを大切にね」って。」

 彼女は大きく目を見開いた。息子がクラスメイトだった私にそんな言葉をかけていたからだろうか。それとも、私のことを誰か思い出したからだろうか。

 彼は、通夜に来たのだ。少なからずこちらの事情を彼女も知ってはいるだろう。

「あなたが桂さんだったのね。」

「はい、私が桂恵です。三年前は、参列ありがとうございました。」

 私はもう一度しっかりと彼女の目を見て自己紹介をした。

「いや、私はしてないから。さっきの言葉は本当に繁があなたに?」

「ええ、お香を上げて私の目の前を通るときに肩を叩かれそう告げられました。」 「そう、繁が。」

  彼女の目には先ほどまでとは違い、光が生まれた。

「私はその意味を知りたいんです。通夜の後に聞いたのに、教えてもらえなくて。」

「そのまんまなんじゃない。あなたが母子家庭になったから、気を使ったのよ。」   

 彼女は少し、イラついているように見えた。それは、私と話しているからなのか、息子にだろうか、それとも自分自身にだろうか。

「それは、分かるんです。 ですが、あのとき全く関わりの無かった私の肩をわざわざ叩いてまでそう言ったんです。」

「あなたが、泣いてるからかわいそうだったのよ。」

 彼女は、怒っていた。語気はさっきよりさらに強く、すでに叫んでいるようだった。

「それは、違います。彼は真剣な顔をしていたから。私の目をしっかり見ていたんです。」

「あなたに繁のことなんて分からないじゃない。」

「分かりませんよ。でも教室でいつもうつむきがちだった彼が私の目を正面から見たんです。だから、私は今でも覚えているんです。だから、彼が本当にこの言葉を私に伝えたかったことだけは分かるんです。」

 彼女は言葉に詰まり、私のことを大きく見開いた目で見上げていた。私は立ち上がっていた。 このまま言いたいことを言うと心に決めた。

「それに、あのとき、形式上でいわれた、お悔やみのことばなんて、もう誰から貰ったかなんて私覚えてないです。だけどあの言葉は、そのときの景色までも鮮明に覚えている。」

 私は、興奮している自分の感情を鎮めるために椅子に座った。

「じゃあ、何でこんなことになったのよ。あなたのことは心配していたのに、私にはこの仕打ちは残酷じゃないの。」

 彼女は、ポケットから取り出した茶色い封筒を床に叩きつけた。

 「遺書」と封筒には書いてあった。 彼女は、私の目の前で泣き崩れていた。

 私は何も言えなかった。ただ、目の前で泣き叫んでいる彼女を椅子に座ってみおろすしかなかった。



「私の家庭も、繁と私の二人なの」

「え」

彼女は、涙でぬれた顔を下に向け、封筒を拾い掠れた声でそう言った。

「あなたとは違う理由だけど」

「はあ」

 彼女は、ベッド周りのカーテンを見つめながら語った。

「あなたのお母様は…、変わらなかった?」

 私は、あの日以降という意味で受け取った。

「母親自身が変わったという様子はないですね。ただ、私には少し過保護気味になったと思います。」

確かに、母の性格が変わったということは無かった。ただ、私には、暗い姿を見せないようにしていたのかもしれない。

「あなたは、女の子だから。過保護にもなるわよ。守る立場であったお父様が亡くなったんですから。」

 彼女は、まだカーテンを見ていた。その向こうに昏睡状態にある息子の様子を案ずるかのように見つめていた。

「私は駄目ね。」

 彼女は小さくつぶやいた。それは、私に向けて言ったのか。自分に向けて言ったのか、それともカーテンの向こうで眠る我が子に向けて言ったのか分からなった。   

 外は、沈みかけの陽が光の筋を薄く、長く伸ばしていた。青や紫、橙や黄が混じり、段々と夜へと近づいていく空を彼女は、見つめていた。

 しばらくして、彼女は、「昔は。」と前置きして、語り始めた。




 

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