だから読むなと言ったのに

改淀川大新(旧筆名: 淀川 大 )

第1話 脈々

 湖面は夕日を返して黄金色に輝いていた。周囲の森は深く、人の気配は無い。太陽はすぐ近くの山の陰に隠れてしまうので、暗くなるのは早かった。十二歳になったばかりの甥っ子とその三歳下の弟が湖岸に立つ私を呼びに来てくれた。


「おじさん、そろそろお夕飯だね」


 私はニコリと微笑んで返した。使い慣れない釣り竿を畳み、荷物と獲物を肩に担いで、私は甥っ子たちと共に山道を歩き、我が家へと帰る。


 私には妻も子もいないのに、先祖から引き継いだ広い家がある。ここは町からも随分と離れていて、周囲に人家は無い。車道も敷かれていないほどの深い山奥で、正直、歩いて見つけるのも困難だろう。そんな所に築三百年以上にもなる我が家が建っている。


 こんな山奥でも生活に不便はない。森を抜けて山を越えれば、川やこの湖で魚を獲ることができるし、山の中では山菜やキノコを採取できる。勿論、動物も居るから肉も手に入る。何にせよ、手に入れた肉は天日でしっかりと干せばいい。干し肉なら何か月ももつし、それを削って少しずつ食べれば、腹は満たせなくとも命を繋ぐことはできる。寝床はあるのだ、こんな広い家が。作りは古いが、雨風をしのぐには十分だ。そこで伝統に倣った生活をすればいい。家の中に肉を干し、囲炉裏で湯を沸かし、食せる草と山菜で飢えをしのぎ、森の木々で暖を取り、虫の音を聞いて、木立の隙間に傾く月を見ながら眠りにつけばいい。いつの世になろうと、我が一族はそうしてきた。この地で育ち、この地でめとり、この地で育ててきたのだ。


 私は若くして妻を得た。妻は、たまに出くわす登山者の一人だった。近くの山に一緒に登ったグループからはぐれて道に迷い、この山の中を何日も彷徨って、この家のすぐ近くの森の中で倒れていた。それを偶然に私が見つけ、この家に運んできたのだ。生前の母と妹以外に始めて見る女性だった。私はその人のことがすぐに好きになり、一生懸命に介抱した。やがて彼女は元気になり、私は結婚を申し込んだ。私たちは結ばれ、夫婦となり、それまで味わったことのない幸せな日々を送った。だが、それは長く続かなかった。妻は私と結婚してすぐに居なくなってしまった。その理由は私にある。それ以来、私は一人で暮らしている。


 さっきも話した通り、たまに登山者が訪れる事がある。今着ている服や靴や使っている道具は、その人たちが私に残してくれた物だ。このナイフや鍋もそうだが、この小刀は違う。これは先祖代々伝わる物だ。切れ味も鋭い。私は先祖同様にこの小刀で硬い干し肉を削ぐ。これでなければ奇麗に削げない。薄く削いだ干し肉は、採ってきたキノコ類と一緒に鍋で煮て食べると美味い。体も温まるので、今日のように寒い冬の日の夕食にはもってこいだ。子供たちも腹を空かしているだろう。今日は少し多めに肉を削るとしよう。


  私は、ぐつぐつと煮える鍋をかき回しながら考えた。どうも、この現代風の釣り竿というものを上手く使いこなせない。軽いだけでなく、えらく丈夫で、木の枝で作った竿と違い、どれだけしなっても折れない。これを使いこなせれば、きっと湖で何匹でも魚を釣ることができるだろう。今日のように大物を苦労して捕えなくても、小魚でも何匹も釣り上げた方が沢山食えるだろう。今日の獲物は捕まえてから押さえつけても随分と暴れたので、ついに石で頭を打って大人しくさせた。途中、手を噛まれてしまい、怪我までしてしまった。釣り竿さえ使えれば、今後はこういう事も無かろう。よし、さっそく明日からこの釣り竿の使い方を練習しよう。


  私は心の中でそう誓いながら、お椀に汁と肉と山菜を注いで、手を伸ばす甥っ子に差し出した。下の子の小さな掌の上にお椀を載せる。お椀がするりと落ち、囲炉裏の上に転がった。炎が汁を吸って音を立てる。白煙が立ち昇り、やがてそれが消えると、甥っ子たちも消えていなくなっていた。私は我に返った。また、やってしまった。


 妻が居なくなって以来、しっかりとした肉を食べていないので、栄養が足りないのか、この頃、幻覚を見てしまう。甥っ子たちなどいない。あの兄弟は幼い頃の私と弟だ。私は何度も自分に言い聞かせた。しっかりしろ。弟は随分と前に食べ終わったじゃないか。


 幼い頃、父と弟と妹と私で母を食べた。吊るして干し肉にした母が無くなると、私と弟と妹で父を食べた。暫くして父の肉が無くなると、私と弟で妹を食べた。妹が無くなったので、私は弟を食べた。みんな食べた。その中で一番美味かったのは妻だ。格別に美味かったので、すぐに食べ終わり、妻は居なくなってしまった。短い間だったけど、幸せだった。


 その後は時々、登山客を食べた。近頃は登山ブームも過ぎたようで、湖に魚釣りに来る奴の方が増えている。今、そこの隅に吊るしている奴がそうだ。まだ肉は乾いていないから、この鍋を食べ終えたら、もう少し干して乾かしてから食おう。ご先祖様がしてきたように。



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