7月15日

 目を覚ましてみると家ではなかった。どこかで見たことがあるような白い天井、白い壁。自分の体には点滴の針が刺さっている。


 …病室か?何でだ?


 何があったのか思い出せないでいるとドアが開いた。ばあちゃん、…いや、美穂が入ってきた。


「亮!やっと目が覚めたの!?」


 視界が美穂の顔でいっぱいになる。


「美穂…、近いよ」

「覚えてる?起きたと思ったら、倒れちゃって…。全然目を覚まさなくて…二週間も眠ってたんだよ」

「そんなに?…俺も何かの病気だったの?」

「いや、特に病気ではないみたいなんだけど。…あのね…」


 確かに深刻そうな顔ではない。でも、何かがあったのは間違いないようだ。


「…何?」

「純粋に喜んでいいのかわかんないんだけど…」


 そう言いながら鏡を差し出してきた。体を起こして受けとる。


「それで自分を見てみて」


 言われたとおりに鏡で自分の姿を見てみると、倒れる前と違って…あきらかに老けていた。髪は白髪混じりになっていて、肌にしわが増えている。少し痩せたように見える。


「これって…」

「寝てる間、徐々に老けてったという感じだよ」

「あれから何年も眠ってたわけじゃないんだよね?」

「違うよ。二週間だよ。何年も経ってたら私が死んでるよ」

「…だから、なのかな」

「え?」


 自分の姿を見て何故か納得してしまった。 ……今までの記憶が戻っている、ようだ。厳密に言えば『戻っている』とは違うかもしれない。クローゼットにあった写真を見て知った事、美穂から聞いた事だけではなく、それ以外の事も思い出すような感覚で知っている。


「美穂、落ち着いて聞いてほしいんだけど」

「……何?」

「…今までの記憶があるっぽいんだよね」

「…え??」

「治った、って言っていいのかわかんないけど」

「本当、に……?」

「多分…」

「……亮っ!」


 美穂が抱きついてきた。ボロボロと涙を流している。


「ほ、本当に思い出したの?!」

「思い出すっていうか、わかるっていうか」

「プ、プロポーズ、どんな感じだったかわかる??」

「……旅館で、しゃぶしゃぶ食べてからの指輪だろ?」

「っっ!!!!」

「あれ??違った??」

「っりょ、うっうっ、ちがわ、ない…。ひっぐ…」


 もう何を言っているかわからないぐらい泣いている。今までも何度も泣かせてきたのはわかる。もちろん、今は喜んでくれてるんだと思う。でも、それだけではないのかもしれない。だって、こうなるまでが長すぎたもの。だから、思う存分泣かせてあげよう。



 数分後、少し落ち着いてきたところで先生を呼んできてもらった。今の自分の状態を話して、それから検査をしてもらった。


 その結果は、ほぼいつも通り何も異常は見当たらない健康な状態だった。いつもと違う点は、あらゆる数値が年相応になってきているという事ぐらい。


 今まで何十年もの間、ある程度一定の期間で記憶がなくなっていた事。このタイミングで記憶が戻った事。それと同時に老けてしまった事。どれもやっぱりわからないそうだ。…何も根拠はないけど、こんな事が起きる事はもうないんじゃないかと思っている。何か、意味があったんじゃないか。…そうじゃないと、自分と美穂の今までの時間が報われない。


 結婚する前から、今に至るまで長い間ずっと二人で過ごしてきた。けど、ちゃんと夫婦として過ごせたのは初めだけだった。


 彼女として、


 妻として、


 母として、


 祖母として、


 いろんな美穂と過ごしてきた記憶がある。母や祖母としては、出来る事なら本当の子供や孫にやってあげさせたかった。…でも、残念だけどそれはもう叶えてあげる事ができない。今の自分に出来るのは、これまでの分を取り戻すくらい、一緒に居て、一緒に年を重ねていく事だけ。美穂の病気の事を考えるといつまでできるかわからないけれど…。



 そう思っていた。


「えーと、奥様の事なんですが…」


 いつも淡々と話す先生が珍しく落ち着かない様子でいる。起きるまでの間に美穂の検査もしていたんだろうか。その結果、病気が悪化してしまってるんだろうか?今の状態で悪化なんてしていたら、もう……。


 この間倒れてしまったことを思い出してしまう。美穂をチラリと窺うと俯いて黙っている。自分の体の事だし何かを察しているんだろうか。


「どうしたんですか?」


 黙っている美穂に変わって、なるべく落ち着いて聞く。


「なんて言ったらいいのか。まぁ病気の事なんですけど…」


 それはわかっている。早く言ってくれ。


「…健康、なんですよね…」

「…………は?」


 何をもって健康なんて言ってるんだ?余命宣告もしてたんだろう?もうダメだからって気休めのつもりか?


 きっと、怒りや不信感がそのまま顔に出ていたんだろう。先生が慌てている。


「いや!あの、すみません!…だから!がんじゃなくなってます!」


 俯いていた美穂が顔を上げて聞く。


「どういう意味ですか?別の病気だったって事ですか?」

「いえ!それもなく、完全に健康な状態になってます!」


 二人で顔を見合わせて、何も言えないでいると先生が続ける。


「去年倒れてから先月までは落ち着いてはいました。でも、本当にいつどうなるかわからないっていう状態でした。…ですが、今回検査してみたところ、がんがどこかに転移したという事もなく跡形もなく消えてるんです」

「消えて…」

「最初からがんになんてなっていなかったかのように」

「そんな事って…あるんですか?」

「もちろんそんな事なんて聞いた事ありません。もう治せるレベルではなかったので、処方していた薬で治るはずはありません。だから、本当なのかもう少し経過を見てみたいと思います」

「わ、わかりました」


 自分の身に起こっていた事は棚に上げて思うけど、いったいどうしてそんな事に?……いや、病気じゃないのは嬉しいんだけど。




 日を改めて、時間をかけて徹底的に調べてもらった結果、美穂の病気はやっぱり完治していた。いや、完治と言っていいかわからないらしい。そもそも本当にがんになっていたのかすら疑わしいレベルだそうだ。そう言われてもわからないし、こっちとしては健康ならいい。残り少ないと思っていた時間を気にしなくてもいい。とても嬉しいことだ。…まだ信じられないけども。



 どうしてだろう?



 過去何十回、何百回と自分の状況に対して思った事。今度は美穂の身に何か起きてるんだろうか。少し心配になる。そう思って聞いてみたんだけど。


「案外、亮のおかげだったりして」


 あっけらかんとしている。


「俺の?なんで?」

「ずーっと長いこと記憶が戻らなかったのに、急に戻ったでしょ?」

「うん」

「それで私も治るなんて、タイミング良すぎでしょ?」

「それはそうだけど…」

「亮の記憶が戻らなかったのは、私の病気の為だったとか」


 そう嬉しそうに話す美穂の顔は、新婚当初のように見える。


「何十年も前から?そんな事…」

「普通に考えればありえない事だけど、今まで普通じゃなかったでしょ?」

「まぁ、そだね」

「本当の事なんて私にもわかんないけど、そう思ってもいいんじゃない」

「………」

「……それに、そう思えば今まで過ごしてきたことが報われるっていうかね、むしろ、ありがとうって思えるかもね」

「えー、それ釣り合うかなぁ」

「…死んでしまうよりはいいよ。きっと他の人より特別な経験したし」

「それは間違いないね」

「でしょ?……亮を残して先に…なんてならなくて良かった」


 そう言ってくれた事で、美穂に対して感じていた罪悪感が和らいだ気がした。いつも前向きな考えで引っ張っていってくれる美穂。付き合った当初の頃から変わってない。そんな美穂だから、何十年もやってこれたのかな。

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