繰り返す、きみといつまでも。

うちの生活。

20XX年

7月9日

 ……ーン、ミンミンミー……。


どこからか、蝉の鳴き声が聞こえる。


「…ん…」


 気のせい程度に聞こえていた蝉の鳴き声が徐々に大きくなってきた。


 ミ゙ーンミ゙ンミ゙ンミ゙ーン!


「……うるせぇなぁ。寝れねーじゃん」


 もう少し寝ていたかったのに。セミめ。あー、暑いし。今何時だよ?


 時計を確認しようと体を起こしてみると、蝉への苛立ちと眠気が一気に吹き飛んだ。


「えっ?!」


 何冊もの本が雑然としている棚。

 壁に貼られたカレンダー。

 ベッドに向けられ、回っている扇風機。

 古そうなパソコンが置いてある机。

 半開きになっている窓から見える網戸越しの景色。


 目に入るもの何もかも見覚えがない。そんな中でようやく見つけた時計は11時40分と表示されていた。


 ここは…どこだ?てか、これって……。いやいや、そんなことは……。


 この状況にぴったりな単語が頭に浮かんできた。それじゃない、とそれを否定したくてもそれしか考えられない。…そう、あれだ。


 階段を上ってくる足音が聞こえてきた。段々と近づいてきてそれは部屋の前で止まった。


「起きてるかい?入るよ」


 ドアがノックされるのと同時に開いた。ノックに対する返事を待つ気はなかったようだ。入ってきたのは白髪混じりの女性。少し腰が曲がっているように見える。顔の皺からして70代くらいだろうか。


「おはよう。起きてたんだな」


 急に現れた人が誰だかわからずに困惑しているこちらにはお構いなしに、窓際まで進んでカーテンと窓を全開にする。少し薄暗かった部屋が一気に明るくなった。セミの鳴き声がさっきよりも煩くなった。


「あの、どちらさんですか?」


 そう聞くと顔の皺が余計に深くなったように見えた。


「やっぱりそうなったか…」

「え?やっぱり?」

「いや、なんでもないよ。私はあんたのばあちゃんだ」

「俺のばあちゃん?」

「そうだよ。あんた、自分の名前わかるか?」

「あー…」

「わかんないんだろ?」

「わかんない、ですね…」

「あんたの名前は亮だ」

「りょう…」


 この人に呼ばれても、自分で声にだしてみても全くピンとこない。本当に自分の名前なんだろうか。それに、この人が祖母だという事も。


「ま、記憶喪失ってやつだな」


 それはそうだろう。さっき否定したかった単語だけど、起きてから見たもの聞いたもの全てに覚えがないんだから。記憶がなくてもそれくらいはわかる。


「何年くらい前だったかな。今と同じように記憶がなくなったんだよ。それからはうちで療養してるんだよ」


「え、前にもなってるの?」

「……ここにいても暑いし、下にいくか」


 質問には答えてくれずに部屋を出て行ってしまった。


 記憶喪失って何度もなるもんなんだっけ?あ、でもあまり驚いたようには見えなかったし、普通の事なのかもしれないよな。まぁとりあえず話を聞いてみないと。


 下の部屋はエアコンがよく効いていた。さっきまでいた部屋との温度差が激しい。少し肌寒く感じるくらいだ。


「亮。あんたはそっちに座りな」


 促されて椅子に座ると、テーブルの上にはあるものが置いてあった。記憶がなくてすぐにわかった。


 ……これは冷やし中華、だよね。どう見ても。


「聞きたい事はあるだろうけど、まず食べな。もう昼なんだ」


 そう言ってズッズッと音を立てながら食べ始めてしまった。


 いやいや、それどころじゃないんだけど。いろいろ教えてほしいんだよね。前にもなってるって言ってたけどどういうこと……まぁ、食べながらでも聞けるか。


「じゃあ、いただきます」


 あれ?これは前にどっかで…


「どうだ?」

「ん、普通においしいよ。それに…前に食べた事があるような気がする」

「最近は暑いからよく食べてるんだよ。記憶がなくなっても体は覚えてるのかもね」


 起きる前の事は何も思い出せない。だからこれを食べたという記憶もない。でも、確かに初めて食べたような気はしない。


「体は覚えてるって、そういうもんなの?」

「本当のとこは、私にもわかんないよ」

「そっか。…さっきさ、前にも記憶がなくなってるって言ったよね?」

「言ったな」

「その記憶は戻らなかったの?」

「私が知る限りでは戻ってないね」

「じゃあ、ずっと戻らないって事なの?」

「……今日またなったんだもの。私にはわかんないよ」

「じゃあ、またなるかもしれないって事?」

「……そうかもしれないな」


 そう答える声のトーンが随分と低い。冷やし中華が残っている皿に視線を落としている。そのせいで表情が見えないが、明るくないのは確かだろう。前にも記憶をなくしたのに、戻らずにまたなくすなんて、自分もどんな表情をしているんだろう。


 食べ終わるまでの間は何も話せなくなってしまった。ばあちゃんも何も話さなかった。



 窓際に座って外を眺めてみると、塀の上から見える空は雲がほとんどない快晴。セミの鳴き声が小さく聞こえる。窓がしっかり閉まっているから、さっきよりは煩く感じない。


 天気がいいけど、外には出ない方がいいか。かなり暑そうだもんな。つか、出たところで迷子になっちゃうよね。このまま家にいよう。…普段は何して過ごしてたんだろう?仕事はしてないよな?療養してたって言ってたし。


「亮、そんなとこで寝るなよー」


 台所で後片付けをしているばあちゃんの声が聞こえる。いつの間にか寝転んでいたようだ。何か返事をしようかと思ったが眠気に襲われた。満腹になったせいなのか、単なる寝不足なのか、記憶を失ったせいなのか。いずれにせよ、この眠気に抵抗はできそうにない。視界が真っ暗になる直前、「ことしだっ…」とばあちゃんが何か言ってるような気がした。



「…うん?」


 何か乗ってない?


 お腹のあたりに重さを感じて目が覚めた。ゆっくり目を開けて重さを感じる方を見てみると灰色の物体と目が合った。あ、猫だ。とわかった瞬間、視界が灰色でいっぱいになった。灰色の端から、同じ灰色の足が迫ってくる。そのまま顔をぺしぺしと叩かれた。「にゃー」とわかりやすい効果音付きで。


「ちょ、ちょっと!やめっ!ば、ばあちゃん!」

「ん?起きたのか?あー、そいつはユキって名前だ。亮が拾ってきたんだよ」

「いや、今その情報はいいから!」


 なんとか叩いてくる足を押さえて抱き寄せてみると、嫌がる素振りを見せずにゴロゴロと喉を鳴らしている。俺が拾ってきたというくらいだから、結構懐いてくれているんだろう。動物のこういう行動は信用できる気がする。


「ねぇ、寝る前に何か言ってなかった?」

「ん?そんなとこで寝ると汗かくぞーって言ったかな。そこは結構日が当たるからな」


 言われてみると確かに着替えてしまいたい位の汗をかいていた。気持ち悪い。猫の毛もついているし。


 でも…、


「それだけ?今年とかって言ってなかった?」

「……言ったかなぁ。忘れたな」


 まぁ、寝落ちする寸前だったし、聞き間違いの可能性もあるだろう。


「そっか。それならいいや」


 起きてからずっと、ばあちゃんはこちらを見ることなくテレビを見ていた。何か面白い番組でもやっているのだろうか。


 片手間にユキとじゃれながら、眺めてみたけど誰が誰だかわからない。しばらく見ていてもそれは変わらなかった。


「全然わかんないな…」


 思わず声に出ていた。そんな呟きに対して、


「そりゃそうだろうなぁ」


 まるで「当たり前だ」というように返された。ばあちゃんにとってはそうかもしれないが、こっちにとってはそんな事ではない。


「なぁ!なんでそんな普通にテレビなんか見てんの?病院とかいいのかよ?本当はこうなってる原因とか知ってるんじゃねぇのか!こっち見ろよ!」

「普通に、っしてるつもりはっ……」


 そう言いながら、やっとこちらを見たばあちゃんの顔には涙が流れていた。


「あ…」


 よく見てみると目が真っ赤になっている。今泣いたわけではなく、少し前から泣いていたのかもしれない。でも、どうして?


「ごめんな。亮の方が泣きたいよな……」

「………」

「でも、ごめん。ちょっと一人にしてくれないか?」

「……わかった」


 声を荒らげても離れることなくそばにいたユキを抱えて部屋を出た。


  いや、本当にこっちが泣きたいくらいなんだけど。なんなんだよ……。

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