5

 五分後、彼にどこかでお茶でもしようと誘われて、人のごった返しているファーストフード店で適当に注文を済ませて、二階の窓際の一画に席を取った。


「それで、きょう子ちゃんちゃんたちはまだ見つからないの?」


 彼はハンバーガーの包み紙を全部引っぺがしてしまってから、躊躇なく大口でかぶりつく。


「うん」


 力なく答えると、私はストローを咥えてオレンジジュースを啜った。

 席は入れ替わり立ち替わりにお客さんがやってきては、空いた場所を埋めるように収まって談笑を開始する。一人で来ている人も多かったが、大半が誰か友人知人と訪れているみたいだ。

 そういえばこういう場所に男性と二人で来るの初めてかも知れない、と気づいて途端に私は頬が熱くなる。もっとちゃんと化粧をして出てくれば良かった。


「もしあの子たちが本当にそのIFだとすれば、消えたってことはもう必要なくなったからなんじゃないの?」


 出会った頃から変わらない耳までを隠すマッシュルームカットの茶髪が、冷房の風に靡く。口の端にソースを付けたまま、そのくりっとした瞳で私の心を覗き込むようにした彼は、考え込んだまま何も言おうとしない私のポテトを一本、引き抜いて食べた。


「そういうことすると、怒られたんだ」

「あ、ごめん。悪気はなかったんだ」


 そうじゃないの、と首を横に振り私は続ける。


「私の母親はね、手順とか決まりとかにうるさい人だったの。いつもご飯は大皿に入っていて取り分けるんじゃなくて、個人個人が小鉢なんかに盛られて、好き嫌いせずに全部を綺麗に食べることを強要された。だから大好きな玉子焼きとかウインナーは決まった数以上には食べさせてもらえなかった」


 一人暮らしになって一番自由になったのは、食べ物に関する全てだった。食べ方、食べる順序、量、箸の持ち方からナイフとフォークの使い方まで。何故そこまでを母である彼女が拘ったのか、今でも私には分からない。それでもその拘りは彼女を追い詰めるほどに彼女自身にとって必要なものだったのだろう。

 そう。私にきょう子たちが必要だったように。


「色々な家庭があるんだね。ボクは食べることだけでなく色々な面でかなり自由にさせてくれたよ。でも何でもしていい、好きなものだけ食べていいっていうのは、本当に自分のことを考えてのことなんだろうかなって、この頃になって疑問に思うようになってさ」


 彼は長い睫毛を瞳に被せて、その視線を私から顔も知らない、けれど同じ空気を吸っている大勢へと向ける。


「私にはその気持ちはよく分からないけど、愛しているから何でもさせてやりたいというのは、何も親子に限った話じゃないと思う」

「じゃあ今日子もボクを愛していたら、何でもさせてくれるの?」


 突然食いつくように私を見つめたから、慌てて椅子から立ち上がってしまう。


「そのさ……まだ、結婚の約束のこと、思い出してくれてないんだよね?」

「ごめんなさい。私、記憶が曖昧な時期があって」


 彼が顔を逸したことに安堵して、椅子に座り直す。それでも少し距離を置いたままにしたのは、いつの間にか彼への警戒心が薄れていたことに気づいたからだ。


「今でも五歳前後とか、小学校の頃の教室の様子とか、訊かれてもうまく思い出せないの。記憶喪失とは違ってただ思い出せないだけ。ひょっとしたらその頃の私は生きてなかったんじゃないのかなって思ってる」

「生きて、ない?」

「ええ」


 小さな噛み跡の付いたバンズの間から、ソースが紙を伝ってトレイに落ちた。

 どうしてか彼の目は私ではなく、その落ちたソースを見つめていて、何度か「生きてない」と寂しそうに呟く。


「実際に生きてなかった訳じゃなくて、その、比喩表現というか、実感としてそうだったのかなって思うだけです」

「今日子はさ」


 その彼の手が、オレンジジュースを取ろうとした私の手を押さえる。


「誰にも心を開かないまま生きていこうとしているの?」


 彼の指の形が分かるくらい、私の手にその熱が伝わった。

 その所為だろうか。心臓が少しだけいつもと違う風に跳ねた気がした。



 すっかり昼間の熱気が冷めた夜の駅前通りを、人通りを掻き分けるようにして私たちは歩いていた。

 そう。私たちだ。

 翔太郎の手がぎゅっと左手を掴んだまま、私を振り返ることなく横断歩道を渡っていく。


「ねえちょっと」

「もしさ、ボクが明日消えるとしたら……今日子はどうする?」

「え? 何?」


 車の騒音に、遠くで鳴り始めた救急車とパトカーのサイレンが重なる。


「ねえ、ちょっとってば」

「ボクがいなくなったとしたら、いつか今日子は忘れちゃう?」


 彼は一度だけ振り返り、そう言って私の答えを待った。けれどそんな質問にすぐ答えなんて用意できなくて、口を半開きにしたまま何も言えないでいると、再び彼は前を向いて遮二無二しゃにむに歩き出した。


「ねえってば!」


 駅に向かうのかと思ったら彼はどんどん離れるように歩いていき、やがて人波から外れるようにして細い路地に流れて行った。

 賑やかな通りから一本入ると少しだけ空気の色が違っていて、私たち以外に歩いているのはカップルばかりだった。

 顔を上げると色味の違うネオンと店の名前が幾つも目に入り、ここはそういうものが沢山ある場所なんだと急に意識し始めてしまう。


「ねえ……翔太郎」


 何度か彼に呼びかけてみる。けれどぎゅっと握り締めた手の力が更に強くなっただけで、もう私と言葉を交わす気はないんじゃないだろうかと感じるほど、何か今までとは別人に思えた。


「入ろう」

「え」


 咄嗟に体が建物へと吸い込まれるようになって、私は抵抗することも出来ないまま、公園のトイレの入り口みたいなレンガ調の壁を回り込んで、その中へと入った。


「翔太郎? ねえ帰ろう? せめて私のアパートで」


 何なのだろう。自分のアパートなら良いのだろうか。

 初めて入った男女がそういうことをする、所謂いわゆるラブホテルみたいな場所は、どこに目を向けていいのやら分からず、私はただ彼に手を引かれるままにエレベータに乗って、三階で降りた。

 部屋に入るとドアが閉められ、間接照明になっているところに置かれた巨大なベッドに、彼だけが寝転がった。


「一体何のつもり?」


 やっと解放された自分の左手を擦りながら、天井を見上げて大の字になっている彼に尋ねる。


「もし明日消えるとしたら、今日子にボクを忘れないでいてもらう為の方法って、こういうことしかないんじゃないかって思うんだ」

「明日消えるの?」


 引っ越したりするのだろうか。

 けれど彼は私の問いには答えず、手招きをする。


「今日子もここにきて天井見てみなよ。面白い」

「天井ならここからだって見られる」


 そう言って顎を上げたところで、私の腕が引っ張られた。ベッドに顔から突っ込んだが、布団の感触が想像以上に柔らかくて、少しだけ良い匂いがした。


「今日子」


 上を向いた私に、彼が馬乗りになる。


「翔太郎……やめて」


 彼の腕が両肩を押さえ込んで、じっと見つめる小動物の瞳が、潤んでいた。その彼の後側に、薄っすらと沢山の星が見えて、何だか急に切なくなる。


「まだ、思い出さない?」


 涙の混ざった声は、いつもより子供っぽい。


「ごめんなさい。でも本当にあなたと結婚の約束をしていたとしても、今の私じゃ結婚をしてあげられないわ。誰か他人との生活を受け入れられるほど、強くないから」

「今日子じゃなきゃ、駄目なんだ」

「それでも……ごめん」


 彼の頭が私の胸元に落ちてくる。


「ねえ!?」

「ちょっとだけ……このまま」


 すすきを始めた彼はそう言うと、私の背中に腕を伸ばして思い切り抱きついた。でもそれが全然不快に感じなくて、むしろ私は自分の胸元で泣いている生き物を愛おしいと思って、柔らかなマッシュルームの髪を抱き締めた。

 自分じゃない誰かを、抱き締める。

 ただそれだけの行為がこんなにも自分を安心させてくれることを、この日初めて私は知った。

 彼はそれ以上何も言わず、私もそれ以上何も尋ねず、いつの間にか消えた間接照明は天井に夏の大三角をくっきりと映し出してくれた。

 星空がこんなに近くに見える。

 そう感じた刹那、私の意識は隙間の闇に吸い込まれるようにして途切れてしまった。



    ※



 自分の胸の上の軽さに驚いて、私は目を開く。

 まだ天井には星座がゆっくりと動きながら映し出されていたけれど、カーテンの外は既に明るくなっているのが分かった。


「え……あれ……」


 部屋には彼の姿はなく、私は裸になることもないままラブホテルのベッドの上で一夜を過ごしたのだと気づいて、起き上がった。

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