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この日はしっかり六時限目まで入っていて、最後の英語の講義を終えた後でぼんやりとした眠気と共に教室を出た。
まだ日は高く、午前中に降り続いていた雨がすっかり上がった為か、いつもより空が綺麗な気がする。それでも体はすっかり気だるくて、二十歳を超えた自分から体力というものが日に日に失われていっているような心地になってしまう。
鞄から携帯電話を取り出して時刻だけ確認し、参加すると返事した手前、今日のサークルの会合には顔を出すべきなんだろうな、という諦めにも似た気持ちを思い出した。
講義棟から外に出るとずっと続く並木道の下を生徒が疎らに歩いている。
「今日子。今日は302だって」
「聞いたよ。あんたの方から参加するって言ってくれたんだって?」
先輩は私の肩に手を掛けて嬉しそうに身を乗り出す。しっかりと化粧された整った顔の長い
「ちょうどその日、用事がなかったもので」
そう答えた私を見て先輩の後ろで幸子が笑いを堪えているように、確かに最初は行く気はなかったのだ。
「あの」
「そういえばもうすぐ彼も来る予定なんだけど」
幸子の視線が右肩を超えたずっと後ろに向けられ、それから「あ」という声で私もそちらを振り返った。
松本亘だ。
首のところから黒い紐が伸びたカーキ色のパーカー姿で、のっそりと会釈をしてぼそり、低い声で挨拶をした。
「松本です。よろしく」
「わたしは砂山でこっちの彼女が岩根今日子」
「なんで私だけフルネームなの?」
けれど彼女は「いいからいいから」と私と松本を向き合わせる。彼とは頭一つ分以上差があるからどうしたって顔を見上げることになるのだけれど、特に彼に照れた様子はなく、それどころかやはり私に対して何か気に入らないことがあるのか、一瞬睨むような表情になってから、すっと視線を
「椚木さん。俺、今日はちょっと用事あるんで決まったこと後でLINEしといてもらえますか」
「入部そうそうサボるとはなかなか良い根性じゃないか、松本」
椚木先輩は構わずに松本の肩に手を回して舐めるようにその
「いや勘弁して下さいよ。今日は彼女のライブの手伝いしないといけないんすから」
「松本の彼女って軽音部?」
「大学じゃないすよ。普通にバンド組んで歌ってます」
へえ、と声を漏らしたのは幸子だった。先輩はどんな彼女なのかの質問を始めて、彼は困った様子で何とか逃れようとする。
その姿を見ながら「彼女がいる」と堂々と口にできる松本亘という人間が、少しだけ羨ましく感じた。
翌週の火曜日だった。一時限目から授業を入れていて、それでもこの日はいつもより早く出掛けられたこともあって、十五分も前に教室に入ることができた。
全部で八十ほど席が並ぶ中、私はいつも後ろの窓際を確保する。窓際が空いていなかったら廊下側。真ん中や前の方は落ち着かない。誰かに見られているかも知れない、という感覚が強くなるからだ。
あの子たちがいない、見えない空間というのは、普通に考えれば私にとってとても落ち着ける空間のはずだった。けれど現実はびくびくと怯えて、つい周囲の人の視線を確認してしまう。
開始時刻が近づくにつれ、教室にも人が増えていくけれど、私を視界に入れて何か表情が変わるような人間はいない。
気にしすぎている、ということは理解していた。
それがまた新しい自分を生み出すかも知れないということも、中学の頃から
常に一緒にいる訳ではないきょう子もキョウコも、本当に私のイマジナリーフレンドなのだろうか。未だに一度として、クリニックの病室に彼女たちが現れたことはなかった。
気を抜くと、授業が始まっていた。
眼鏡を掛けた女性講師が教育と子供の成長について、やたらとカタカナ語を交えて話している。
けれど私の二つ前に座った女子二人組はそんな内容とは全く関係のない雑談を、こそこそと、それでも何とか聞き取れる程度の大きさで行っていた。
先生はそれについていちいち気にしたりはしないようだが、美人な同級生の誰々がストーカーされて大変だとか、私にもその先生にも一切関係なさそうな話題で、それでも時折笑い声を漏らすものだから集中して講義を聞いていられないな、という思いが湧き上がった。
彼女たちは大学に何をしに来ているのだろうか。
ということは思わないけれど、何も文句を言わずに大学の授業料から月々の仕送りから出してくれた新しい父親のことを考えると、私は心の中で小さな溜息を吐き出すしかなくなる。
視野から彼女たちの姿を消したい、という思いで廊下側に視線を向けると、窓から教室を覗き込む一人の男性がいることに気づいた。
松本とは全く違うタイプで、髪の色を染めているのか、濃い栗色のように見える。前髪多めで首裏の辺りが刈り上げになっているので、マッシュルームという印象を抱いたが、くりっとした人形のような大きな瞳は一瞬だけ私に投げかけられ、彼は楽しそうに唇を結んだ。
教室を覗いていた彼は誰を探していたのだろう。
鞄から出したアルミホイルに包んだおにぎりを頬張りながら、私は図書館で借りた本を開いていた。
晴れた日はベンチでなく芝生の上の木陰に場所取りをして、一人の時間を満喫する。吹き抜ける風がちょうど心地よくて、日本一の面積を誇るこの大学のキャンパスには緑も多く植えられている。
フリスビーを持ち出して遊んでいる男女の集団や、バドミントンをしている女性陣、彼女の膝枕で横になっている男性がいたりと、それぞれ思い思いの時を過ごしている。
そんな誰かと一緒の時間を少しだけ羨ましいと思うこともあるけれど、見えないはずの誰かをつい見てしまうんじゃないか、それを気味悪がられてまたあの目を向けられてしまうんじゃないか、と怯えながら息をすることは、今の私にはまだまだ難しいことだった。
だからこうして、本を読む。
本の中には沢山の友人がいて、そんな彼らは決して私を裏切るようなことはないから。
彼らはいつだって、私の目の前には現れない。勝手に喋らないし、物を奪ったりもしない。
ご飯を食べることだって、彼らには必要ないのだ。
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