2
自転車で朝の路地を駆け抜ける。
大学までの十分程度の道のりが、私の心をほんの少しだけ解き放ってくれる。
でもそれは天気が良い時に限るというのは、私だけに限定した話じゃないだろう。
「何でなのよ……」
急に振り出した雨は私の肩まで伸びた髪をしっかりと濡らして雫を大量に
私は鞄からハンドタオルを出して、何とか髪の上辺の水分と冷たくなったシャツの肩なんかを
他の生徒も同様に文句を言いながら自転車で入ってきたけれど、中にはどこかで拾ったんじゃないかと思うような骨の折れたビニール傘で何とか一時しのぎをしているように見える男性もいる。
彼は私を一瞬だけ見たが、すぐにそのまま講義棟の方へと駆けて行ってしまった。
私は籠から鞄を引っ張り出して一度天を見上げる。雨は少し弱まったけれど、もうちょっとだけ濡れる覚悟が必要かも知れない。
心の中で「よし」と合図して駆け出そうとしたところで、声を掛けられた。
赤と白の市松模様をした傘を持った友人が、小さく手を挙げてこちらに近づいてくる。
「入ってく?」
「助かります」
三十度の深いお辞儀をしてから顔を上げ、互いの顔を見合わせると気の置けない笑顔になる。
私は砂山幸子の傘の下をおすそ分けしてもらうと、彼女が話し出した昨夜のドラマの話に適当に相槌を打ちながら歩き出した。
階段教室になった講堂では既に社会心理学概論の授業が始まっていたけれど、私たちより後からバラバラとやってくる生徒たちが開始五分を過ぎても沢山いた。
最近はノートを広げるよりもパソコンやスマートフォンにメモを取ったりするという人が増えていると言っていたけれど、私はガラケーだし、左隣に座る幸子も私と同じようにノート派だ。ただ彼女の場合はノートの隅に花びらを書き込んでいて、それがあまりにも丁寧に漫画の背景みたいに線が沢山あって、思わず見惚れてしまった。
「これでも昔は漫画家を目指したものよ」
彼女はそう得意げに口の端を上げる。
「あ、そうそう。カンポカに新しい人入ったんだけど聞いてる?」
「え? 知らない」
正式名称『環境保全同好会』だけれどそれを略して先輩たちはカンポカと呼んでいる。私はLINEをやっていないのでこういった情報がすぐに回ってこない。私と幸子も去年の秋に人数が足りないからどうしてもと誘われたから入ったくらいで、人が増えることは結構稀だった。
「えっとね……」
彼女はバッグからピンクの水玉柄のスマホケースに包まれたそれを取り出すと、右の真ん中の指三本を使って器用に画面を操作する。それは使い慣れない私からすれば魔法そのものに映るが、驚いている間にもモニタには写真付きで松本亘という男性が現れた。
「あ……」
「何? ひょっとして好み?」
短く切り揃えられた髪に他人を値踏みするような奥二重の目、何より顎髭が中央部だけ濃いところは、見間違えようがない。
「でもなんか彼女持ちだって言ってたから残念だね」
「好みじゃないし、そういうんじゃないけど……」
さっき駐輪場で私を一瞬睨んでいった人だった。
「その人ってさ、私の顔とかも知ってるの?」
質問の意味が分からなかったのか彼女は顔を
前の大きなホワイトボードには『イマジナリーフレンド』と乱暴な字で書かれ、手に持った資料を何度か見ながら、白髪混じりの男性講師は話を続けた。
「君らも耳にしたことはあるだろう。イマジナリーフレンドとは空想上の友達のことだ。小さい頃に子供が何もない場所を指差して”誰かいる”と言うのは、何も幽霊やそういった超常的な存在を見つけたからではなく、自分が生み出した架空の友達を見ているからだ、とも云われている」
隣で幸子はスマートフォンを見てほくそ笑んでいたけれど、私の関心は講師の口から紡ぎ出される見に覚えのある事柄に向けられていた。
「一部の研究では幼少期には誰もがこのIFを持っており、成長には欠かせない存在だという提言もなされている。ただ一方でこのIFの多くは二歳から三歳までに消えてしまい、殆どは記憶からも消えてしまう」
IFと呼ばれる存在を、私は高校時代に相談に乗ってもらった理科教師から教わった。
「だが稀に成長し大人になってからこのIFを生み出してしまう人間がいる。彼らは精神的なストレスから逃避を図る為にIFを生み出すが、時にこのIFに依存しすぎて彼らの存在なしには生きていけない、といった精神状態を構築することもあるそうだ」
他にも集中して聞いている生徒がいるかと思って自分より下に座っている人たちを覗いてみたが、午前一番始めの授業だけあって誰もが眠そうにしていた。ただその中で一人、一番隅の席で背筋をぴんと張って真っ直ぐに講師を見ている大柄の男性がいた。
「大人になってからのIFというのはよく幻視や幻覚、解離性同一性障害のようなものと勘違いされることもあるが、これについては同一のものではないという研究結果がある」
その男性はおそらく松本亘だと思ったけれど、幸子から呼びかけられて私の意識からは抜け出してしまった。
「何?」
「それで今日子はサークルどうする?」
彼女はLINEの画面を見せながら週末の奉仕活動への参加の可否を私に求めてくる。
私は最初から今回は断ろうと思っていたが、彼のあの目を思い出してしまったからだろうか、参加することにしておいてもらった。
「そっか。今日子が行くならわたしも参加する」
「幸子って、そういうところがあるよね」
「いい性格してるって言われる」
少しくらい小言を口にしても笑ってくれるところは、確かに付き合い易いし、何より他人とは一定の距離感を置いていたい私からすると、必要以上にこちら側に介入してこない彼女は、一番安心できる友達かも知れない。
いつの間にか講師の説明はIFから別の話題へと移り、どうやって心理学調査というのは行われるべきかという方法論の解説が息継ぎの難しそうなタイミングで行われていた。
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