第36話 神授式 ~その男、フッケバイン~

神穹姫 アスベル・バウムガルトナーの物語


 カルスダーゲン亜大陸の諸々の神々を祀るゾフィア大聖堂は、ヴァルデス公国の王宮アイヴォリー・キャッスルに並ぶ一大建築物である。

 今から三百年前、ヴァルデス選帝侯家がエフゲニア帝国に対する独立戦争に勝利し、帝国から自治権を確保して、ヴァルデス公国を統治するヴァルデス大公家としての第一歩を踏み出した時、その名誉と栄光を記念して建築された。

 大神殿を構成する基礎となる石材は大理石であり、外壁の表面はうっすらと黄みを帯びたモルタルで被覆されている。

 ゾフィアとは、北方エフゲニアの古語で「叡智」を意味している。

大神殿の中央には、至聖所が置かれている巨大なドームがあり、ドームの周辺は、六基の尖塔で囲まれている。

 六基の尖塔は、魔法の六つの属性、「地」「水」「火」「風」「光」「闇」を現わしている。

 尖塔は、天を貫かんばかりに地表から垂直に伸びている。

それは、死を免れぬ人の身にあるものが、不死なる神々の世界に憧れて、神の領域まで到達してやろうとする不遜の意思を感じさせた。

 大聖堂の内部に目を転じれば、円形ドームの中央が至聖所になっており、その前にはアトリウムが設けられている。

 円形ドームの内部の壁面は、多色大理石と化粧漆喰スタッコ、金字モザイクで飾られ、美しく、精緻を極める彫刻が施されていた。

 独立戦争以来、ゾフィア大聖堂は、ヴァルデス公国の最も重要なイベントが開催されるステージなってきた。

 例えば、前大公が薨去し、新たなヴァルデス公国大公が襲位するたびに、ゾフィア大聖堂はその戴冠式の舞台となっている。

 そして今日、ヴァルデス公国で重大な国事が開催される。

「神授式」である。

 「神授式」とは、神々が人間たちに、聖遺物を授ける儀式という事である。

 そして、ヴァルデス公国における「神授式」は、姉である「繊麗の女神アルシノエ」と、妹の女神「雄渾の女神ネグベド」、この二柱の女神たちが、バウムガルトナー家の少女たちに「魔導弓」と呼ばれる神々の武器を伝授することを意味していた。

 二柱の女神たちが授ける「金の魔導弓クリューソス」と「銀の魔導弓アルギュロス」、この二張りの魔導弓と、レオンハルト伯爵家が所有するデスサイズ「月影ムーンシェイド」、そして、グアルネッリ伯爵家が所有する「エメスの指輪」、この四つの神々の武器を以て、ヴァルデス公国では、四基の「魔神器」と呼んでいる。

 二柱の女神たちは、なぜか、バウムガルトナー家の女子に対してのみ、金と銀の「魔導弓」を伝授してきた。

 バウムガルトナー家が女児に恵まれない時代は、金銀の「魔導弓」は、地上に顕現することはなかった。

 バウムガルトナー家に生れた女児が一人だけの場合、「金の魔導弓、クリューソス」が与えられたり、「銀の魔導弓、アルギュロス」が与えられたりした。

 同じケースで、金と銀の「魔導弓」が伝授されなかったこともある。

金銀の「魔導弓」が、二張り同時に地上に出現したのは、ヴァルデス選帝侯家が、帝政エフゲニアに対して独立戦争を戦った三百年前の戦い、ただ一回である。

 なぜ、男子には「魔導弓」が授与されることがないのか、なぜ、「銀の魔導弓、アルギュロス」は、この三百年間で十回以上、雄渾の女神ネグベドによって、バウムガルトナー家の少女たちに授けられたのか、なぜ、繊麗の女神アルシノエは、同じ三百年間で、たったの二回しか、「金の魔導弓、クリューソス」をバウムガルトナー家の少女に与えなかったのか、姉妹であるアルシノエとネグベド、二柱の神々は、いかなる基準で下界の人間たちに神々の聖遺物を与えたり、与えなかったりするのか、それは神々の心の裡にあることで、人間が想像したり、斟酌したりできるものではないのかもしれなかったが…

 しかしながら、今回ばかりは「神授式」は、ヴァルデス公国全土の注目を集める事となった。

 バウムガルトナー家には、神々と同じ、双子の姉妹が生まれた。

残念ながら、姉のアスベルの方は、「魔導弓」の使い手をして優れた資質に恵まれておらず、幼少の頃から「出涸らし姫」と陰口を聞かれるほどであった。

 一方、双子の妹マリベルは、姉の分まで才覚を吸いつくしたのだと噂されるほど、魔法と格技の双方に最高レベルの才能を備えた逸材であった。

 マリベルは、六つの魔法の属性の全てを使いこなし、弓術ばかりでなく、剣術、槍術、杖術、ケイパーリット式旋舞拳闘など、あらゆる戦技に秀でていた。

 マリベル・バウムガルトナーは、幼い頃からバウムガルトナー家がこの三百年で生んだ最高の素材であると一門の期待を一身の受けていた。

 こんな事情であったから、今回の「神授式」では、妹のマリベル・バウムガルトナーに対してのみ、金銀いずれかの「魔導弓」が与えられ、姉のアスベル・バウムガルトナーには、与えられることはないだろうと思われていた。

 ところが、だ。

アスベルとマリベルが、バウムガルトナー家の訓練場で家中の者たちとトレーニングしていた時、その後、涼しい風の通るガゼボで午睡ごすいをとっていた二人の姉妹の上に、繊麗の女神アルシノエと雄渾の女神ネグベド、二柱の女神たちがその姿を現したのだった。

 ヴァルデス公国の人士は、騒然となった。

この三百年間で、「金の魔導弓、クリューソス」と「銀の魔導弓、アルギュロス」が同時に女神たちから授けられたのは、独立戦争時の一回だけである事は述べた。

 女神アルシノエとネグベドが、姉妹である以上、聖遺物を授けられる人間もまた、姉妹、それも双子であることが必要条件なのではないか。

 ヴァルデス公国は、実に三百年ぶりに、金と銀、二張りの「魔導弓」を獲得できる絶好の機会に恵まれたのではないか。

 北方のエフゲニア帝国と、南方の「沙馮シャフー部族国家連合群」、南北の双方から軍事的脅威を受け続けているヴァルデス公国にとって、四つの「魔神器」が打ち揃う事は、何にも増して重大な事であるからだ。

 このような事情であったから、この日、ゾフィア大聖堂に参集した人々は、国の内外を問わず、数百人の規模に達した。

 ヴァルデス大公家からは、病床にあるペンドラゴン三世に代わって、第一公子、ウラジーミル・ゲルトベルグ・ヴァルデス、第二公子、アブド・アルラスール・ヴァルデス、そして、第三公子、ラスカリス・アリアトラシュ・ヴァルデスが式に列席している。

 ウラジーミルの傍らにいるのは、その母親、ダーリア・ゲルトベルグ・ヴァルデスである。

 ウラジーミルとダーリアは、エフゲニア帝国の大使と外務官僚を引き連れて、険しい表情で「神授式」が開始されるのを待っている。

 アブド・アルラスール・ヴァルデスは、やはり、その母親、シャルーシャ・アルラスール・ヴァルデスと並び立ち、母親の出身部族である沙馮シャフー最大の部族ウルス、サイード族の代表たちを従えている。

 エフゲニア帝国にしろ、「沙馮シャフー部族国家連合群」にしろ、ヴァルデス公国に四つの「魔神器」が勢揃いすることに対して鈍感ではいられない。

 三百年の長きにわたって、エフゲニアも沙馮シャフーも、ヴァルデス公国の遺跡探索者エクスカベーターが地下の廃ダンジョンから発掘した四基の「魔神器」に数えきれないほど、優秀な戦士たちを殺害され続けてきたのだから。

 ラスカリス・アリアトラシュ・ヴァルデスの母であり、すでに故人となっているシータ・アリアトラシュ・ヴァルデスの出身部族であるハザーラ族の代表の顔もちらほらと見える。

 ハザーラ族は、沙馮シャフーの代表であるサイード族に遠慮して、少数の代理人を送るだけにとどめているらしい。

 「沙馮シャフー部族国家連合群」の最高権力者、「天王可汗テングル・カガン」の地位は、現在、サイード族の「可汗カガン」、すなわち、族長が務めているから、それは当然の配慮と言えるかもしれなかった。

 円形ドームの最も奥深い部分、そこに主祭壇が設けられていて、すでに雪のように真っ白な生地に目も彩な刺繍が施された寛衣ローブを身にまとった大神官と助祭の少年たちが、蜜蜂の羽音のように単調な節回しで、祈祷の文言を述べていた。

「凄いわねェ、姉さん。まさか、こんな大勢の人たちが集まって来るなんて思わなかったわ」

 マリベルが、くすくすと笑いながらそう言った。

「え、ええ、そうね…」

 アスベルは緊張で強張った声で、やっと返事を返した。

マリベルは、そんな姉の様子に気が付いた様子もなく、ドームの全体を俯瞰しながら、普段と変わらない表情で言った。

「外国からも、たくさん、お客さんが来ているみたいね… 見てよ、姉さん。変わった服装をしている人が側廊にいるわ。あの人たち、クリスタロスの使者みたいね」

 自由都市クリスタロスは、アポリネール大河の河口に位置する独立要塞都市である。

 ヴァルデス公国が、アポリネール大河の水源である巨大な湖に浮かぶ中洲に位置している国家ならば、クリスタロスはその水が大海に臨む場所にある。

 いわば、アポリネール大河の水源と河口、始まりと終わりの関係にあたる。

クリスタロスは、世界に向けて開かれた境界に位置しているためか、カルスダーゲン亜大陸を「蛮土」と呼び、亜大陸の覇権をめぐって争う国家群を後進国とみなして軽蔑し、亜大陸の内情に積極的に関わろうとはしない。

 そのクリスタロスにして、今回の「神授式」は無視できない、重要なイベントであると認識しているという事なのだろう。

 「魔神器」とは、それほどに強力な神々の兵器なのであった。

マリベルもまた、姉のアスベルが極度の緊張で全身を強張らせているらしいという事に気が付いたようだった。

 マリベルは、ころころと笑って言った。

「あはははは、姉さん、今からそんなに緊張していたら、身が持たないわよ。リラックス、リラックス」

 アスベルは、大きくため息を吐いた。

「マリベル、あなたって本当に肝が太いわね… 私、何にも前から今日という日が来るのが怖くてしょうがなかったっていうのに…」

「その割には夜もよく眠れていたみたいだし、食事だってもりもり、食べていたじゃない。姉さんらしくないわよ、あははははは」

 アスベルは、唇に微苦笑を浮かべた。


大切な、大切な妹、マリベル。


この世に同時に生まれ落ちた自分の半身。


 アスベルは、改めて思い返した。

マリベルに比べたら、滑稽なほど、能力の面で劣るアスベル、その自分に対して、マリベルは、決して驕ることもなく、侮ることもなく、軽んじる事もなく、妹として普通に接してきた。

 マリベルの行動の全てが、姉であるアスベルに対する無条件の愛情で溢れていた。


見下してくれた方が、どれほど楽だったろう。


面と向かって侮辱を受けた方が、どれほどすっきりしたことだろう。


 しかしながら、マリベルが姉に注ぐ視線は、いつも温かく、肉親に対する情愛で満たされていた。

 だからこそ、大切な妹、マリベルのためなら、そしてバウムガルトナー家を再興するためなら、素封家の老人に身売りをしてもいいとまで決意を固めていたのだ。

 だがあの日、バウムガルトナー家の訓練場に、繊麗の女神アルシノエと雄渾の女神ネグベドの姉妹の神々が出現した時、「もしかしたら、マリベルばかりでなく、自分もまた、魔導弓を授かることが出来るのではないか」という希望が生まれた。

 あの日以来、その希望がアスベルを苦しめ続けてきたのであったが…

「姉さん」

 マリベルが、いきなり強い力でアスベルを抱擁した。

「どうしたの、マリベル」

 マリベルは、姉の胸に顔をうずめた。

「結果がどうあれ、これからも何も変わったりしないよね…」

「マリベル?」

「もしかしたら、私たちは二人とも、魔導弓を授かることが出来るかもしれない。もしかしたら、二人とも失敗するかもしれない。私だけが魔導弓を授かって、姉さんは駄目かもしれない。あべこべに、姉さんだけ魔導弓を授かって、私はしくじってしまうかもしれない。でもね、でもね、姉さん…」

「どうしたの、マリベル。そんな真剣な顔をして…」

「神授式の結果がどうであれ、姉さんは姉さんだし、私は私。姉さんは私にとって、この世で一番大切な人間だし、姉さんも私の事をそう思ってくれているでしょう?」

 アスベルは困惑した。

「金銀の魔導弓… 『魔神器』なんて、そんなもの、神様からもらっても、もらわなくても関係ない。私たちはずっと仲良しの姉妹だよね…?」

「…もちろんよ、マリベル」

 アスベルは、半身とも呼ぶべき双子の妹の身体を優しく抱き締めた。

「神授式がどんな結末に終わるか、そんなことは関係なしに、私たちはずっと仲のいい姉妹だよ。あなたは、同じ日にこの世に生を享けた大事な双子の妹だよ」 

「姉さん」

 その時、小さな咳払いが聞こえた。

アスベルとマリベルは、抱き合ったまま、その方向へ視線をやった。

 鴉の濡れ羽色とも呼ぶべき、夜の衣をまとった男がそこにいた。

男の顔は、眼窩の部分を覆う仮面に覆われている。

 その仮面もまた、衣服を同じく、漆黒の絹地に金色の刺繍が施されている。

「失礼、お嬢さん方」

 深みのあるバリトンであった。

その声は、秘められた強い意志の力と聞く者に信頼感を与える温かみを帯びていた。

「クリスタロスの使者の方?」

 マリベルが、アスベルの身体を解放して、その男に言った。

その見慣れない衣裳は、少なくとも亜大陸の諸民族のものではなかった。

「ここは、神授式の会場です。部外者の方は、立ち入り禁止になっていますが…」

 アスベルが、妹の台詞を引き継いだ。

仮面の男の唇に微笑が浮かんだ。

「確かに私は、クリスタロス総督府からのメッセンジャーなのですが… それでも、ヴァルデス大公家とまんざら、無関係の人間ではありませんのでね」

「大公家と?」

 アスベルとマリベルは、顔を見合わせた。

美しい双子の姉妹のそんな様子は、鏡に映された像のように見えた。

 仮面の男は、アスベルとマリベルに深い親愛の視線を注いだ。

その目は、薄青の色味を帯びていて、その出自が北方エフゲニアであることを意味していた。

 独立要塞クリスタロスは、亜大陸の外からやってきた外国人たちが多数、住まう都市国家であり、ペールブルーの双眸を持つ者はほぼいないはずだった。

 アスベルとマリベルは、自分たちに向けられる仮面の男の視線に動揺した。

それはまるで、愛娘を見詰める慈父のごとき眼差しであった。

 愛しい我が子を慈しむような、そんな慈愛に満ちた視線であった。

「重要な儀式の前に、申し訳ない。あなた方の姿を拝見して、どうしても声をかけてみたくなってのでね」

「は、はい」

「立ち聞きするつもりはなかったのだが、お二人の会話の一部を耳に挟んでしまった。妹のマリベルさんがおっしゃるように、神授式の結果がどうなろうとも、あなた方がお互いにとって、何よりも大切な存在であることに間違いはない。どうか、これまでそうであったように、これからもずっと仲の良い姉妹であってくださいますよう。遠くからあなた方を見守っている人間がいること、その人間が何よりもあなた方の幸せを願っていること、どうか、それを覚えておいていただきたい…」

 アスベルとマリベルは、息を飲んだ。

その声はどこか懐かしく、幼い頃に聞き慣れていたように思われた。

 仮面の男は、そう言って小さく首を垂れ、二人に背を向けた。

「それでは、これで…」

 アスベルは、仮面の男の背中に声をかけた。

「あ、あの… あなたのお名前は…?}

 仮面の男は、顔だけを二人に向けて小さな声で言った。

「私の名前は、フッケバイン。それでは、お元気で、アスベルさん、マリベルさん」

 その時、バウムガルトナー家でメイドを務めるリィーン・アフメドが小走りにアスベルとマリベルの元へ駈け寄ってきた。

「アスベル様、マリベル様、そろそろ、お時間です」

 リィーンは、ちらと仮面の男を横眼で見やった。

仮面の男、フッケバインは足音を立てずにその場を立ち去った。

 リィーンに促され、ドーム中央の至聖所に足を向けようとして、アスベルは仮面の男、フッケバインの背中を振り返った。

 それは、とても大きな背中で、何故か深い安心感を抱かせた。

「どうしたの、姉さん」

「あの人、私の名前を知っていたわ」

「えっ」

 アスベルは、直前にマリベルと交わした会話を反芻した。

姉妹の対話の中で、アスベルは妹の名前を呼んだが、マリベルは、ただ「姉さん」と呼ぶだけで、アスベルの名前を挙げることはなかった。


 ならば、なぜ、私の名前を…?


「アスベル様、お急ぎ下さい。大神官様の祈祷が終われば、神授式のスタートです」

 心配そうに自分を見詰めるリィーンの言葉に促され、アスベルは脳裏に浮かんだ疑問をそれ以上、追求することをやめた。

 これから、バウムガルトナー家の姉妹の運命を決定づける儀式が始まるのだから。


「偉大なる二柱の女神、繊麗の女神アルシノエと雄渾の女神ネグベドの名前において、これより、聖遺物の神授式を開始する。バウムガルトナー家の娘らよ、神の御前に進み出よ」

 アスベルとマリベルは、大神官の言葉に従って、至聖所の講壇の前に進んだ。

大神官の表情にも、いくばくかの緊張が見て取れた。

 ヴァルデス選帝侯国が帝政エフゲニアから独立を勝ち取り、ヴァルデス公国として独り立ちしてから三百年、バウムガルトナー家が世代を交代するたびに実施されてきた神授式だが、バウムガルトナー家が双子に恵まれ、もしかしたら、三百年ぶりに金と銀、二張りの魔導弓を同時に得られるかもしれないという機会を得たかもしれないのだから、大神官と大聖堂のスタッフの緊張も無理からぬことかもしれなかった。

 見事な白髭を蓄えた大神官は、バウムガルトナー家の双子を等分に見やった。

「アスベル・バウムガルトナーよ、汝は繊麗の女神アルシノエ様、あるいは雄渾の女神ネグベド様から、金の魔導弓クリューソス、または、銀の魔導弓アルギュロスを伝授して頂く意志と覚悟があるか」

 アスベルは絶句した。

何か月も前から、神授式の本番に向けてその式次第を繰り返し、繰り返し、予行演習してきたというのに、いざ本番となると、アスベルは極度の緊張のため、身じろぎできず、声を発することが出来なかった。

「姉さん?」

 マリベルが神前に叩頭したまま、姉の様子を窺った。

「マリベル、お願い。あなたから先にやって…」

 マリベルは小さく頷いて、顔を上げて大神官に言った。

「お願いします、大神官様。私の方を先に、妹であるこのマリベル・バウムガルトナーを先に式を進めて下さい」

 大神官は、マリベルに怪訝な視線を注いだ。

しかしながら、式次第を滞らせるよりはましだと判断したのだろう、マリベルの言葉に従って、祈祷書に目を落としながら、厳かな口調で告げた。

「で、では、マリベル・バウムガルトナーよ、汝は繊麗の女神アルシノエから金の魔導弓クリューソスを、あるいは雄渾の女神ネグベド様から、銀の魔導弓アルギュロスをお受けする意思と覚悟があるか」

「はい、このマリベル・バウムガルトナーは、繊麗の女神アルシノエ様から、あるいは雄渾の女神ネグベド様から、金の魔導弓クリューソス、または、銀の魔導弓アルギュロスを伝授して頂く意志と覚悟を持っております…」

 大神官は、聖杖を高く掲げた。

「おお、偉大なる二柱の女神たちよ。何卒、汝らの忠実なしもべ、マリベル・バウムガルトナーに聖なる弓を与え給え」

 次の瞬間、ドームの天井辺りで青い光が輝き始めた。

大聖堂に参集した内外の貴顕たちが息を飲んで、上空を見上げる。

 青い閃光の中で、光の粒子が集合して一つの形を象り始めた。

それは、一匹の霊獣の姿をとった。

「霊獣だ… 霊獣パトラ・パトラだ…」

 何者かが、絞り出すようにそう言った。

「霊獣パトラ・パトラ… そ、それでは…」

 青い光の輪の中で、くるりと一回転した霊獣パトラ・パトラが、一筋の光の箭となって、マリベルの右目に飛び込んだ。

 思わず、マリベルが目を瞑った。

その目が再び、見開かれた時、マリベルの左の瞳は、生まれついての薄い蒼から、青玉サファイアのような濃い青へと変わっていた。

 霊獣パトラ・パトラが、マリベル・バウムガルトナーの瞳に宿ったのだ。

続いて、奇跡が起こった。

 大聖堂の天井の高さに、一人の美しい女神が出現した。

「ネグベド様… 雄渾の女神ネグベド様だ…」

燃えるようなあかい髪、鞣した革のように滑らかな茶褐色の肌の下に、女性ながら極限まで発達した隆々たる筋肉が隠されている。

 雄渾の女神ネグベドが、戦神いくさがみである証拠であった。

雄渾の女神ネグベドは、青い光に包まれたままゆっくりと下降し、マリベルの頭の上ほどで止まった。

 ネグベドは、マリベルの御髪おぐしに小さく接吻して、その後、彼女の右手首を両手で包み込んだ。

 そして、ネグベドがマリベルの手首を解放した時、マリベルの左手首には、銀の地金に青い宝石で飾られたブレスレットが残されていた。

 ネグベドは、優雅に笑って煙のように大聖堂の空間を上昇し、青い光の中へ没入して、そのまま消滅した。

 神授式が成功したのだ。

マリベルは、自分の左手首に嵌められた優美なブレスレットを見やった。

 

これが、銀の魔導弓アルギュロス…?


 大聖堂に集合した観衆は、呆然と式を眺めていたが、やがて我に返ったかのように万雷の拍手で、バウムガルトナー家の娘を祝福した。

 この日、バウムガルトナー騎士爵家の二女、マリベル・バウムガルトナーは、雄渾の女神ネグベドから、「銀の魔導弓アルギュロス」を伝授されたのだった。

「お、おめでとう、マリベル」

 アスベルは上ずった声で、妹を祝福した。

「姉さん…」

  大神官が再び、厳めしい声で式の進行を告げた。

「アスベル・バウムガルトナー、汝は繊麗の女神アルシノエ様から、金の魔導弓クリューソスをお受けする意志と覚悟があるか」

「……」

「アスベル・バウムガルトナー、問いかけに答えよ」

「はい、あります… こ、このアスベル・バウムガルトナーは、繊麗の女神アルシノエ様から、金の魔導弓クリューソスを伝授して頂く意志と覚悟を持っております」

 アスベルは緊張で強張った声をようやく絞り出した。

マリベルに、雄渾の女神ネグベド様から銀の魔導弓アルギュロスが与えられた以上、アスベルに与えられる可能性があるのは、繊麗の女神アルシノエ様の金の魔導弓クリューソスという訳だが…

「おお、偉大なる二柱の女神たちよ。何卒、汝らの忠実なしもべ、アスベル・バウムガルトナーに聖なる弓を与え給え」

 大神官が聖杖を高く掲げて、女神に祈った。

しかし…

 何も起こらなかった。

マリベルの時には、大聖堂の天井近くの空間に青い光が出現し、その光が霊獣パトラ・パトラの姿を形作って、マリベルの右目に飛び込んだ。

 もし、繊麗の女神アルシノエが、アスベルに金の魔導弓クリューソスを与える意思があるのなら、伝承のように、この場に赤い光が出現して、その光は同じく、霊獣アハト・アハトの姿となって、アスベルの左右の瞳のいずれかに突入するはずだった。

 その後、繊麗の女神アルシノエがアスベルに祝福を与え、アスベルの左右の手首のいずれにかに、偉大なる力を帯びたブレスレットが残されるはずであった。

「偉大なる繊麗の女神アルシノエよ、汝らの忠実なしもべ、マリベル・バウムガルトナーに聖なる弓を与え給え」

 大神官がもう一度、祈りの言葉を捧げた。

しかし…

 やはり、何も起こらなかった。

大神殿に参集した聴衆が、ざわざわと騒ぎ始めた。

「偉大なる女神アルシノエよ… 何卒、何卒…」

 三度、大神官は聖杖を掲げながら、そう祈願した。

そして…

 やはり、何も起きなかった。

大神官は、沈黙した。

 その後、この白い髭の老人は、アスベルに心から気の毒そうな視線を送った。

「アスベル・バウムガルトナーよ、残念ながら…」

 アスベルは、俯いたまま、消え入るような声を発した。

「承知しております… 女神様を初め、誰も恨んだりしません… この私に魔導弓をお受けする能力がなかっただけです… それだけです…」

「姉さん」

 マリベルが、悲痛な眼差しでアスベルを見詰めた。

その時、大聖堂にくぐもった哄笑が響いた。

「ははは、とどのつまり、予想通りの結果に終わった訳か」

 それは、ヴァルデス公国大公位の第一継承権を持つウラジーミル・ゲルトベルグ・ヴァルデスが発した声だった。

 続いて、母親のダーリアの失笑が漏れ聞こえてきた。

「とんだ茶番ね、時間の無駄をしたわ」

 ウラジーミルとダーリアを囲んでいるのは、当然、エフゲニア帝国の関係者たちである。

 カルスダーゲン亜大陸にあって、恐怖の代名詞として知られる四基の「魔神器」のうち、ひとつがこの世の出現しなかったのであるから、帝国にとっては僥倖と呼ぶべきことであっただろう。

 明らかな安堵の空気が、その場を占めていた。

「ヴァルデス公国にとっては、不運という事だな」

 いかにも胸を撫で下ろすといった風情でそう言ったのは、ヴァルデス公国大公位第二の継承権を持つアブド・アルラスール・ヴァルデスだった。

「あの娘、かわいそうに…」

 その母親であるシャルーシャ・アルラスール・ヴァルデスが言葉を紡ぐ。

だが、ヴァルデス公国に強力な神々の兵器が与えられなかったことは、沙馮シャフーにとっても、願ってもない事なのは間違いない。 

 エフゲニア帝国の関係者と同じく、沙馮シャフーの一団にも、これで一安心だという空気が漂っていた。

「姉さん、式の前に言ったよね。神授式の結果がどうであれ、私たちはずっと仲の良い姉妹であり続けるって」

 マリベルが、泣きそうな表情でそう言った。

アスベルにできるのは、できるだけ平然を装う事だけであった。

 アスベルは、その身体に残されていたすべての力を振り絞って、双子の妹に向かって、ぎこちない笑顔を作って見せた。

「私は大丈夫だから… あなたが言ったように、神授式の結果に関係なく、

私たちはずっと仲の良い姉妹のままだよ… マリベル、おめでとう…」

「姉さん」

 マリベルが泣きそうな顔で、アスベルの顔を見詰めた。

「おめでとう… マリベル、本当に… おめでとう…」

 だが、まだ十代半ばの少女にとって、忍耐は限界に達していた。

アスベルは、くるりと背を向けて、大聖堂から走り出していた。

「姉さん!!」

  

授からなかった…


繊麗の女神アルシノエ様は、私に金の魔導弓を与えてはくださらなかった…


みんな、あんなに期待してくれていたのに…


だったらなぜ、あの時、アルシノエ様は私の前に姿を見せて下さったの…?


どうして、何百人の人間の前で、私自身を否定されなくてはならないの…


 聴衆の波が、アスベルと衝突するのを避けて左右に別れた。

アスベルは、その中を涙とともに失踪した。

 アスベル・バウムガルトナーがその全てを失った日であった。



 

 



 

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