曠野にて ~in the wilderness~

@farfarello2

第1話 「朝もやの中で」

「ゴーレムマスター ザザ・グアルネッリの物語」


ー払暁。


 ヴァルデス公国の首都ヴァイスベルゲンの朝は早い。

北方エフゲニアの大地から吹き込んでくる冷たい季節風が、公都を囲む湖を吹き過ぎ、水面で気化熱を奪われることによって、さらに肌を噛む冷風へと変わる。

 春は遠くないが、公都ヴァイスベルゲンに吹き込んでくる風は、骨身を凍らせるほどの冷

たさだ。ヴァイスベルゲンの大通りに立ち並ぶ店舗の列には、まだ人影は見えない。

 建物の屋根や軒先には、びっしりと霜が置かれていた。東の空に暁の女神がその赫奕たるオレンジ色の裸身を現すまで、あと小半刻。

 濃密な朝もやの中で、一人の少年が、石畳の上を弾むようなステップで駆けている。

少年が着る膝丈のチュニックは、腰の辺りで革紐で結ばれ、少年が穿く洋袴の裾は、革の半長靴に押し込まれていた。

 少年のしなやかな脚が、石畳を蹴る。だが、不思議な事に足音が聞こえない。

少年の顔を覆う布製のマスクからは、白い吐息が見えない。それどころか、かなりの速さで走り続けているはずなのに、呼吸音ひとつ漏れ出てこない。

 少年は、まるで乳白色の闇の中を漂う亡霊のようだった。

少年は、小首を傾げて、公都中枢に位置するヴァルデス大公家の宮殿、アイヴォリー・キャッスルを見上げた。曙の最初の光が宮殿の白亜の壁面を朱に染めようとしている。

「……」

 少年は、脚を止めた。彼は今、豪壮な屋敷の前に立っている。元々、裕福な貴族か、大商人の邸宅であったのだろうが、真鍮製の門扉には、枯れた蔓草が絡み付き、庭に配置された大理石の女神像は、水垢で汚れていた。女神の顔には、黒ずんだ雨垂れの痕があって、まるで女神が己の幸薄い運命を嘆いているかのようだった。

 豪華だが、荒廃した邸宅である。

「何だ、小僧」

 頬に深い傷を刻んだ男が、少年を睨みつける。その言葉を聞いて、門扉の前で煙草を喫っていた別の男が、少年に鋭い視線を送った。どちらもまともな世界に生きてきた人間でないのは、明らかであった。ここは、公都でも悪名高い暴力組織の首領の館なのだ。

「お前、ここが、ブルーノ組のねぐらだと知っているのか。何の用だ」

 少年は、二人の凶漢にはにかんだ笑顔を見せた。

「え、え〜と…… な、殴り込みです……」

 二人のヤクザ者は、顔を見合わせた。それから、太鼓腹を揺すって呵呵大笑した。ヤクザ者たちが笑い転げている間、少年は気弱な笑みを浮かべ続けていた。

「えへへ……」

 頬に傷のある方が、いきなり真顔になった。

「面白くねェよ。ちょっと来い、クソ餓鬼」

 頬傷の男は、少年の肩に手を回し、もう片方の手で少年の手首を掴んだ。もう一人の男もそれに倣う。

「たっぷり、教育してやるよ。俺らみたいな人種との付き合い方ってやつをよ……」

 少年は、二人のヤクザ者によって、屋敷の中へ連れ込まれた。


ーー小半刻ほど後。


 少年は一人で邸内から走り出してきた。ニット帽が飛ばされそうになったので、少年は慌てて帽子を押さえる。少年は門扉を出た所で、邸宅を振り返って、ぺこりと頭を下げた。

「お、お邪魔しました」

 少年は、そのまま、後ろを振り返る事なく、再び、軽やかに駆け出していく。すでに暁の女神の投げかける曙光は、ヴァイスベルゲンの街並みを鮮やかな橙色に染め替えている。働き者の商人たちが、店を開ける準備をしている。買い物籠を抱えた女将さんたちが、立ち話に興じている。薄汚れた老犬が乾物屋の前に蹲っている。

 少年は、人々の間を疾風のように駆け過ぎていく。走るという行為は、穏やかな景色の中では、異様さが際立つ。誰かに追われているか、追いかけているか、いずれにしても危機の臨在を予見させる非日常的な光景だ。

 しかし、少年に目を止める者は誰もいない。まるで、そこに誰も存在していないかのようだ。日の光が軒先に置かれた霜を溶かしている。それでも空気は肌を刺す冷たさで、人々の吐息は白く凍っている。しかし、少年の吐く息は透明なままだ。

 石畳を蹴る少年の両脚から、足音が発せられることもない。それどころか、暁光を浴びる少年の背後には、本来、そこにあるはずの影さえ伸びていなかった。

 少年の姿は、そのまま、公都の下町の日常風景の中に溶けて行った。


 それから暫くして、一帯は騒然となった。

地回りの暴力組織の拠点が、何者かに襲撃された事が明らかになったのだ。惨劇の舞台は、麻薬と売春を扱う、悪名高いブルーノ組の凶漢たちが拠点にしていた、元貴族の館。

 そこに詰めていた15人のブルーノ組の構成員たちが、一人残らず、「潰されて」いたのだ。それはまさに、「潰されて」いたと表現するほかないものであった。

 刃物によって切り裂かれたり、刺し貫かれたり、魔法によって灼かれたり、凍らされたりしたわけでもなく、血を吸った蚊が無造作に人の手で叩き潰されるように、文字通り、巨大な何かによって、圧壊させられていたのである。邸宅の内部は、かつて人間であった物の残骸で、壁も床も天井すらも赤一色に塗り込められていた。

 分厚い絨毯を敷いた床は、ブルーノ組の男たちの鮮血を吸って一面。朱に染め替えられている。階段やその踊り場には、粉々になった男たちの手や脚が転がっていた。血の中に混じる黄色い塊は脂肪だ。そして、血の中に転がる白い欠片は男たちの砕け散った骨であった。

 屋敷の壁から、たらたらと流れ落ちる退紅色のモノは、粉々になった男たちの頭蓋骨から溢れ出た脳漿であるらしかった。

 屋敷の中に残るのは、荒れ狂った圧倒的な暴力の痕跡だった。

 直ちに公国内務省に所属する憲兵隊が駆け付け、現場の検証を行う。目を覆うような惨状であるはずなのに、憲兵たちは誰一人として顔色ひとつ変えようとはしない。

 まだ若い憲兵たちは、すでに何回か同様の現場を経験していた。誰も口にはしないが。この地獄のような惨事をもたらしたのが、何者であるか、全員、心得ていたからである。


ーーこれは、グアルネッリ家のゴーレムマスターの仕事だ。


 そうである以上、憲兵に過ぎない彼らにできる事は、肩を竦めて現場を回復することだけだ。この仕事の「注文主」は、彼らの最高指揮官である憲兵総監よりも、はるかに上席者だ。あれこれと考えても、どうにもなりはしないのだから、気を回すだけ、無駄な作業という事だ。後のことになるが、ブルーノ組はこの事件の後、解散を余儀なくされ、非合法な活動によって蓄えられた財産は残らず没収され、国庫に納められることとなった。


「ザザ君。おかえりなさい」 

 少年の背中に春風のように優しい言葉が降ってきた。

「ザザ君」と呼ばれた少年は、「隠形」を解く。ヴァイスベルゲンの目抜通りから脇道に逸れ、幾つかの秘密の通路を通って、少年はグアルネッリ伯爵家の本邸へ戻ってきた。

「ただいま、戻りました。アリーチェ義姉ねえ様」

 少年ザザ・グアルネッリの「隠形」の技術は、グアルネッリ家がまだ、帝政エフゲニアにあった頃から用いられてきたものだ。呼吸音を無くし、心音さえ隠す。まるで変温動物のように体温を周辺の温度に合わせることができ、従って、寒い冬であっても、吐く息が白く凍ることがない。そればかりか、グアルネッリ家の一族は、己の影さえ消すことができる。

 すべて、その存在を秘し、あたかも実体を持たない亡霊のように行動する事を可能とする

家伝の絶技であった。

 しかし、実兄ギデオンの妻であるアリーチェは、ザザが「隠形」を用いていても、必ず、ザザの姿を見つけ出すことができるのだった。兄のギデオンは、内務省の上級官僚であり、いずれはヴァルデス公国内務卿を襲う立場である。そして、グアルネッリ伯爵として、魔神器「エメスの指輪」を預かる人間であった。

「お腹は空いてないかしら、ザザ君」

「大丈夫です、義姉ねえ様」

 アリーチェが階段を降りて、ザザの元へ歩み寄って来た。アリーチェはそっと手を伸ばして、ザザの頬に触った。春の女神のように、温かく善良で穏やかな女性だ。

「冷たいわね…… 後、一月もすれば、公立魔導アカデミーの高等部へ進学ね。あの人、ギデオンは、あなたが中等部へ入学しなかった事をとても惜しがっていたから……」

「はい」

「きっと、たくさんの友人が出来るわよ。もしかしたら、とても素敵な恋人との出会いだってあるかも」

「……義姉ねえ様。僕は誰も好きにはなりません。誰も僕を好きになってはくれません」

 アリーチェは沈黙した。ザザの背中に幾つかの血痕がこびり付いているのを、アリーチェは確認した。アリーチェは背中から、ザザの痩せた身体を抱き締めた。

「ザザ君、お願い。そんな悲しい事を言わないで」

義姉ねえ様。ドレスが血で汚れます」

 構わず、アリーチェは義理の弟を抱きしめる腕に力を込める。

「……今朝は、何人、殺したの」

「……15人ほどです」

 アリーチェは、ザザの背中に顔を埋めた。

「ザザ君。グアルネッリの家系に生まれたのは、あなたの宿命かも知れないけれど……

 あなたはまだ、14歳。後生だから、そんな年齢で人生を諦めたりしないでちょうだい」


ーーアリーチェ義姉ねえ様は、本当に優しい心の持ち主だ。


ーーそれが僕にとって、どれほど残酷な事であるか、この人には分からないのだ。


 ブルーノ組の本拠地である屋敷で、組員15名を殺害したのは、ザザであった。正確に言えば、ザザがクリエイトしたゴーレムたちだ。邸内の「第一質料マテリア・プリマ」から創造されたゴーレムたちが、組員たちを「潰した」のだった。

 ザザが、ゴーレムマスターとして最初に人を「潰した」のは、7歳の時だった。

それから、何人の人間たちを「潰して」来ただろう。

 100人を超えたあたりから数えるのをやめてしまった。

もう、14歳。実数は、300人から400人の間くらいか。いずれもこの世界で生きる価値のないクズどもであったが、人間であることに違いはない。

 既に300人以上の人間を殺害している自分に、友人? 恋人?

自分にはそんなもの、必要ない。「救済」さえ、必要ない。

「心なんか、無くなってしまえばいい」

また、ザザは心の中でそう呟いた。これまで何千回、何万回もそうしてきたことだ。

ゴーレムマスターが、その使役するゴーレムのように心を持たない道具であったなら、こんなに苦しい想いをする事など無かったはずなのに……


 後の「三年戦争」で主力として戦い、公国の救世主と呼ばれる少年。


ザザ・グアルネッリ、14歳。


ーーアカデミー入学まで、後、一ヶ月。

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