第21話 東洋のヴィーナス

 ミケランジェロ広場を下って、アルノ河畔に出た。

 ヴェッキオ橋を眺めた。

 橋の上に3階建てのショッピングセンターがある。第二次世界大戦でも破壊されなかったフィレンツェ最古の橋。

 イスタンブールのガラタ橋ほど大きくはないが、個性的な橋という点では劣っていない。

 橋を眺めているわたしを見つめている少年がいるのに気づいた。

 そちらを見ると、彼はビクッと身体を震わせた。

 10代半ばくらいに見える繊細そうな面立ちをした少年だ。

 しばらく見つめ合う形になった。わたしは目を逸らし、再びヴェッキオ橋を眺めた。

 少年がおずおずとわたしに近づいてきた。

「美しいお嬢さん。艶やかな黒髪、神秘的な黒い瞳の異国のお嬢さん、どちらから来られたのですか?」

「ジャパン……」とそっけなく答えた。

「ジャパン。知らない国です」

 日本を知らないのか。日独伊三国同盟を結んだ国だというのに、と思ったが、すぐにわたしは少年が過去の人だと気づいた。明らかに現代のものではない青いチュニックを着ている。

「僕は絵を学んでいるサンドロという者です」

「はあ……」

「あなたのように美しい女性を見たことがありません。モデルになっていただけませんか?」

 少年は頬を赤くし、熱っぽい瞳でわたしを見つめていた。

「えっ!?」

 わたしは動揺した。

 わたしの顔はそこそこ整っている方ではあるが、ひとめ惚れされたり、そんなに熱く賛美されるほどではない。

 学校で言えば、クラスで2番目とか3番目の女の子といったところだ。

 男の子から言い寄られたのは、高校1年生のとき以来。

 よく見ると、サンドロは金髪で可愛らしい顔をしていた。

 少し太っているのが玉に瑕だが、気になるほどではない。

 きみが過去の人でなければ、付き合ってあげてもよかったのだが……。

「ごめんね。わたしは旅をしているので、モデルになってあげられるほどの時間はないの」

「そうですか。とても残念です。この世のものとは思われないほど美しいあなたを見て、創作意欲がかつてないほど高まったのに……」

 この世のものとは思われないほど美しい……。

 こんなに賞賛されたのは初めてだ。

 イタリア人は噂どおり情熱的なのだろうか。

 わたしが極東の島国から来たオリエンタルな女だから、物珍しいのだろうか。

 それともこの少年の好みにストライクなのだろうか。

「しかたありません。それではあなたの姿を頭に焼き付けますので、少しだけ見つめるご無礼をお許し願えないでしょうか」

 礼儀正しい少年だ。

 さっきからずっと見つめているじゃないか、というツッコミは封印して、わたしはこくんとうなずいた。

 見つめるという意味がちがっていた。

 さっきまでは恋する少年のような熱っぽい視線だったのだが、クールな画家の目に変わり、わたしは隅々まで観察された。

 周囲をぐるりと回って見られた。

 髪の毛1本1本の流れを把握されるほど凝視された。昨日シャンプーをしていないのが、すごく気になった。

 顔をまじまじと正面から間近で見られ、「やはり美しい……」と言われたときには、背筋がぞくぞくした。

 1時間くらい観察されていた。

 少しも長いとは感じなかった。

 わたしへの賛美にあふれた甘美な時間だった。

「ありがとうございました。あなたの絵を描きたいです。ご了承いただけますか?」

「はい……」

 わたしはうっとりしていた。

 少年は一礼して去っていった。

 翌日、ウッフィツィ美術館へ行った。

「東洋のヴィーナス」という絵の前でわたしは足を止めた。まちがいなくわたしをモデルにした絵だった。

 サンドロ・ボッティチェッリ、1476年頃、テンペラ、板。

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