第4話 ハンガリー大平原

 そろそろ次の国へ行こうか、とわたしは考え始めた。

 世界放浪の旅をするつもりだったのに、ブダペストに居着き、温泉三昧の腑抜けた暮らしをしてしまっている。

 こんなはずではなかった。

 離国する前に、ハンガリー大平原を見たい、と思った。

 セーチャニ温泉で「大平原を見たいが、どこへ行けばいい?」と知り合いになった地元のチェス名人に訊いてみた。

「鉄道で東へ行きたまえ。大平原が広がっている」と彼はルークを指でもてあそびながら答えた。

 東へ行けばいいんだな。東へ行きさえすれば、大平原が待っているのだな、名人よ。

 早朝、わたしは鉄道に乗り込んで東へ向かった。

 車窓を眺めて過ごした。

 途中から、ひたすら平らな大地がつづくばかりになってきた。

 畑と草原が延々と……。

 適当な駅で降りた。

 わたしは帰りの最終電車の発車時刻を確かめ、散歩をした。

 駅前の商店でパンと水を買い、ぶらぶらと……。

 ブダペストは大都市で、喧騒に満ちていた。ここはのどかで、街とすら言えない。集落とでも呼んだ方がしっくりくる。

 駅周辺に石造の平屋が建ち並んでいたが、すぐに市街地は尽き、さえぎるもののない大平原に出た。

 360度の平らな地平線に囲まれた。日本ではあまりなさそうな風景。

 水平線までの距離は5キロメートルほどであるという豆知識を持っていた。

 わたしがいま見ているのは、半径5キロメートルほどの円形に切り取った大平原の一部ということになる。

 わたしは地面に寝そべって空を見た。

 雲が南へ向かって流れていた。

 わたしは不意に天啓を得た。

 南の国へ向かえ。

 南へ……。

 イエス、マイゴッド。

 天啓を得て、わたしは立ち上がった。

 まだ大平原の真ん中にいる。

 16世紀半ば、オスマントルコ軍はハンガリー軍を打ち破りながら、大平原を進軍した。

 その勇壮な姿を想像した。

 8万のオスマントルコ軍は、北ハンガリーのエゲルで、赤ワインを飲んで気勢を上げるハンガリー軍に敗北する。

 その哀れな敗走姿も想像した。

 トルコ軍は捲土重来して、エゲル城を陥落させる。

 ハンガリー大平原は何度も戦場になっている。

 モンゴル帝国の騎馬軍団もここへやってきたのだ。

 わたしは想像の翼を広げた。

 13世紀中葉、ここにモンゴルのジュチ家の当主バトゥが到来した。

 バトゥはブルガリア、アルメニア、チェチェン、ポーランドを破って、ハンガリーに侵攻。

 ハンガリー王ベーラ4世は10万の大軍を集めて迎撃した。

 ハンガリー軍の主力は騎馬隊。モンゴルの主武器は投石機と弓矢。

 ベーラ4世の軍は破れ、壊滅する。

 恐るべしモンゴル軍……。

 ハンガリーで見るべきものは見た。

 大平原でスマホを見ながら、次に行く国を考えた。

 オスマントルコ……。

 世界三大料理……。

 フランス料理、中華料理、トルコ料理……。

 そうだ、トルコへ行こう!

 ブダペストからイスタンブールへ鉄道で行くにはどうすればよいか調べた。

 うん、行けそうだ。

 わたしはいったんブダペストへ帰り、お気に入りのレストランに入って、挽き肉や野菜を酢漬けのキャベツで包んだハンガリー風のロールキャベツ、トゥルトゥット・カーポスタを食べ、貴腐ワインを飲んだ。

 ごちそうさまでした、明日、イスタンブールへ向かいます。

 ハンガリーのことは一生忘れません。

 わたしが初めて訪れた異国よ……。


 ハンガリーで1か月過ごし、551,500円使った。

 宿泊費360,000円。

 食費72,000円。

 温泉代67,500円。 

 その他52,000円

 これまでの総支出623,500円。

 旅費残金9,376,500円。


 翌日、ブダペスト南駅から夜行列車に乗った。

 目が覚めたときは、トルコにいるはずだ。

 しかし、そうはならなかった。

 ギリシアのテッサロニキで鉄道は停車し、そのまま動かなくなってしまったのだ。

 ストライキが原因で、労使の対立は深く、鉄道再開の見込みは立っていないらしい。

 わたしは思いがけず、テッサロニキ滞在を余儀なくされた。

 これが旅のハプニングというやつか……。

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