第38話 帰省
『一身上の都合により、しばらく帰省します』
寮生のトークグループにポンとビジネスライクな一文が上がったのは、キャンプの提案があった日の夕方だった。現時刻は既に午後7時を回っている。日はとうに沈み、じんわりと湿った夏の匂いが辺りを満たしていた。
その中で、灯台の光のような安らぎを宿すダイニングテーブルを寮生が囲む。
テーブルの上には、例のトーク画面を開いたスマホが4つ、各人の前にそれぞれ置かれていた。
「おいおい、一身上の都合って何だよ。退職届の文言みたいじゃねーか」腕組みしてふんぞり返って座る等々力が言った。こいつはいつ見ても偉そうである。
「本当に退去届け代わりだったりして。私はそれでも構いませんけどォ」栗栖はいつも通りの笑みで、頬杖をついて言う。
「鷺原は何か知らへんの?」僕の正面に座る白金が心配そうに眉を寄せた。
「いや、僕は何も」嘘はつけない。事実、僕は何も知らなかった。
桃香先輩の帰省は本当に唐突だった。事前にそういった報告はなかったし、朝の段階では先輩も普段通りだったと思う。
なにせ荷物も全て部屋に置いて行っているのだから、計画性は皆無と言える。本人も突然そうせざるを得なくなった、ということなのだろう。
嫌なもやが胸にへばりつく。僕が何か下手打ったか、嫌われるようなことをしてしまったか。心当たりはないが否定はしきれない。
僕は不毛な仮説を立て続けた。そして、それを否定したのは僕ではなく栗栖だった。
「多分、黒沢椿さんと何かあったんでしょうね」
全員が栗栖に顔を向けた。どの顔にも『いったいどういう事なのか』という疑問が分かりやすく浮かんでいる。多分僕もそうなのだろう。
栗栖は注目を浴びていることなど、まるで気にかける様子もなく、小さな口を精一杯あけて、あくびをする。
「転入して来たでしょ? 黒沢椿さん」
「そりゃ芸能人が転入して来たことは知っとるけど、それが会長の帰省とどうつながるん?」
栗栖は「あ、そっか。皆は知らないんだっけ」と呟いてから、「やっぱ今のなし」と堂々たる態度で宣言し、再びあくびをかいた。そして何事もなかったかのように席を立とうとする。
——が、
「まぁまぁまぁ、ゆっくりして行けよ」と等々力が机上の栗栖のスマホを奪い、「疲れとるやろ。肩もんだるわ」と白金が栗栖の肩をがっしりと掴んで立てないように押さえつけた。栗栖のあくびの口がアガッと歪む。
僕は栗栖の手を握って彼女を見つめた。
「栗栖。……頼む」
栗栖は口をもにょもにょさせて、耳まで真っ赤にしながらもしばらく耐えたが、やがてがっくりと肩を落とし、盛大にため息を吐いた。観念したようである。観念しつつも、その間、僕の手を撫でまわし続けていた。変態である。
「椿さんはですね、桃香先輩と同じ中学校だったんです。中学3年までですけどね」
「へぇ、あの黒沢椿と。それは知らんかったわ」
「その時はまだ椿さんは女優として活動していませんから、知らないのも当然です」
「3年までってことは、黒沢椿が3年で転校したってことか」
栗栖は「はい」と一つ頷いてから、特段、意識するでもなく「椿さんはいじめにあっていたんです」と言い添えた。
いじめ、と誰かが呟く。
学生にとってもっとも身近で、もっとも恐ろしい事態の一つがそれだ。場合によっては集団暴行とも、窃盗とも、恐喝とも言えるのに「いじめ」として一括りにされ、同時に悪質性が薄められたかのように思わせる。
真っ黒の墨汁も海に垂らせばたちまち無色透明になったかのように見えるのと同じだ。しかし、それ自体が消えた訳では決してない。ただ見えなくなっただけなのだ。
「桃香先輩が加害者だった、なんて言わないよな?」桃香先輩が誰かに悪意を向ける姿など到底想像もつかなかった。
誰だって加害者になり得るし、被害者にもなり得る。集団心理というのはそれだけ恐ろしいのは分かってる。だけど、桃香先輩が加害者であるはずはない、と僕は確信していた。
「いえ、どちらかと言えば傍観者です。桃香先輩はそのことを後悔しているようですけどね」
「まさか自分を助けてくれなかった復讐のために、生徒会長をさらったのか!」気の早い等々力は『早く助けに行こうぜ』とでも言うかのように立ち上がる。いや、どちらかと言えばマウンド上での乱闘騒ぎに嬉々として参加しようとするメジャーリーガーみたいだ。
「いつ桃香先輩が攫われたことになったんだよ」
「見て見ぬフリする輩は他にもぎょうさんおりそうやし、復讐するならいじめっ子の方が先やろな」
僕と白金に指摘されて、等々力が舌打ちして座り直した。
「でも桃香先輩が椿さんに恨まれていたのは確かなことみたいですよ」と栗栖は言う。
「やっぱり椿さんを助けへんかったから?」
栗栖は「いえ、そうではなくて」と言った後に「私も聞いただけの話なんですけどね」と前置きをした。
「椿さんの恋人を桃香先輩が略奪した、とかなんとか」
一同は「はァ?!」とか「えー……」とか分かりやすく混乱を示す言葉を発する。僕も例外ではなく「それいじめと関係なくね?」と疑問が浮かび、それを口にしようとする。
——が、それよりも扉がノックされる音が先だった。
「まったく、こんな時間になんだってんだよ。こっちはそれどころじゃないってのに」と僕が扉に早足で歩み寄る。等々力が何かを思い出したのか、「あれ。なんか激しくデジャブ」と呟く声が聞こえた。
そして僕は扉を開いた。
夜の夏の匂いと共に、フローラルのような上品で柔らかい甘さが部屋に流れる。
その甘美な香りの渦は僕を巻き込み、次の瞬間には甘い香りがより一層濃密に感じられた。気がつけば僕は椿先輩に抱きしめられていた。椿先輩の華奢な腕が僕の首に巻きつき、柔らかい肌が押し付けられる。
「今朝はどうも、真くん」
「椿先輩?!」
耳元で囁かれる妖艶な声は天使の歌声なのか、あるいは悪魔の囁きなのか。この時の僕には分かるはずもなかった。
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【後書き】
祝 10万字!
祝 15000PV!
ありがとうございます♪
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