第35話 灯火

 サンシャインパークの入り口はまだ入園時間まで30分以上もあるというのに、大蛇のような行列が出来上がっていた。大蛇はこのパークの主のような貫禄があるにもかかわらず、今もなお成長を続けている。

 アスファルトが焼けるような夏の匂いが、より一層暑さを助長する。僕は列から外れた日陰のベンチに座って桃香先輩を待っていた。


「そっかぁ、残念〜。でも連絡はしてね」と今し方、連絡先を交換した三人組のギャルの一人に手を握られる。

「絶対だよ」と念を押して去って行くナンパギャルに手を振って見送っていると、後ろから唐突に頭をはたかれた。


「ホント見境なしね、あなた」


 頭をベンチの背もたれに乗せて反らせると、上下逆さまの桃香先輩がそこにいた。桃香先輩は涼し気なノースリーブのワンピース姿で、こちらを呆れ顔で睨んでいた。


「来てくれたんですね先輩」立ち上がって先輩に歩み寄る。自然と笑顔が漏れた。反対に先輩は僕が近づくと、顔がこわばる。

「可愛いワンピースですね。すごく似合ってます」女子とのデートで装いを褒めるのは鉄板中の鉄板。だが、今回ばかりは本音の感想だった。実際、落ち着いた色合いの花柄ワンピースは桃香先輩の可愛さを余すところなく引き立てていた。

 桃香先輩は無言だが、無反応というわけではない。俯いて、顔をリンゴのように染めている。容姿が彫刻のように美しいのに、可愛らしくも見えるのは時折こういった純真な反応を見せるからだろう。


 こういう姿を見せられるとつい意地悪したくなる。僕は桃香先輩の耳に口を寄せて囁いた。


「とっても可愛いです先輩……」溶けたバニラアイスのように、とろんと甘い声を先輩に注ぎ込んだ。

 先輩はあぐあぐと口を開けたり閉めたりと挙動が不安定になり、最終的に何かを誤魔化すように僕の頭を再度はたいた。


「や、やめなさい! 叩くわよ」

「叩いてから言わないでください。ところで先輩真っ赤ですよ」

「うう、うっるさいわね! ほら! 行くよ!」


 一人でスタスタと列の最後尾に歩き出す先輩を追いかけて隣に並んだ。


 パーク内は、入園ゲート程は込んでいなかった。

 ゲート前広場の大きな噴水周辺でカップルや家族が「まずどこに行こうか」とマップを広げて立っている。桃香先輩も例にもれず、マップを眺めていた。

「どこに行きたい?」と視線はマップに合わせたまま僕に聞く。僕はマップに顔を寄せた。必然的に桃香先輩との距離も近くなる。化粧品の匂いなのか、シャンプーの香りなのか、上品な香りを感じた。


 ふと先輩を見ると、顔だけ微妙に僕から距離を取っていた。まるで浮浪者に顔を寄せられた人みたいな反応。桃香先輩は単に照れているだけなのだろうが、少し傷つく。そこまで避けられると、逆に詰め寄りたくなる。

 僕は「どこが良いですかねー?」と言いながら、さらに桃香先輩に顔を寄せた。


 桃香先輩は体を反るようにして限界まで逃げる。

 僕はさらに追い込む。

 はたから見たら異様な光景である。先輩はもう逃げきれない、と悟るとごくりと唾を飲み込みながら、ギュッと目をつむった。キスを待つ顔ではない。注射を待つ子供の顔である。そんなに嫌か。いっそのことキスしてやろうか、とも思う。

 ふと先輩の額に汗が張り付いてることに気が付いた。僕はハンカチを取り出し、吸い込ませるように先輩の汗を拭いた。


 先輩は目を開いて「ぁ」と申し訳なさそうな顔をする。どうせ、「ハンカチを汚してしまった」とか考えているのだろう。先輩が何か言い出す前に僕が先を取った。


「先輩、プール行きましょうか」




 ♦︎




「え、待って。嘘。嘘嘘、こんなに高いなんて聞いてない」


 先輩が挙動不審にきょろきょろと首を動かし、退路を探す。往生際が悪い。ウォータースライダーの円形の入口の縁に両手をついて、なかなかウォーターをスライドしようとしない。

 5分前、「ちょっと怖いですね」と言った僕に「まだまだ子供ね。こういうのは絶対安全にできているんだから、いちいち怖がるなんてバカバカしいわ」と言っていた人物とは思えない。


「お姉ちゃん、怖いの? だっせー」と僕の後ろの小学生と思しき女児軍団が先輩を愚弄する。


「びびりー」

「弱虫ー」

「Fカップぅ」

「大人なのにこんなのが怖いのォ?」

「おっきいくせにー」

「おっぱいおっきいのに、ねぇ?」


 小学生に紛れて先輩をからかっていたら、「後で覚えておきなさい」と憤怒に満ちた目が僕に向けられた。僕は別の意味でウォータースライダーが怖くなった。


「あのう、どうします? やめます?」とスタッフが声を掛けてきた時、先輩の顔が『助かった』と安堵で緩んだ。



















「えい」


 僕は後ろから先輩に抱き着き、そのまま前に押し倒した。2人して頭から円形の入口をくぐり、ちゃぷんとダクト内の水に着水した。

「ぇ」と何が起きたか未だ理解していない先輩が声を漏らす。しかし、ウォーターをスライドし始めると先輩の表情がみるみる青くなっていった。

 先輩の面白い絶望顔を見た僕が「あはははははははは」と爆笑するのと、先輩の「嘘でしょォォオオオオオ」という絶叫とがダクト内に響いたのはほぼ同時だった。

 恐怖で何も見えなくなった先輩が僕を力一杯引き寄せて抱きしめる。柔らかく実った二つの果実の狭間に僕の顔は飲み込まれた。酸素を求めて強く息を吸うと酸素と一緒にむん、と男の欲望を刺激する湿った香りが吸い込まれた。

 胸の間から見る引きつり顔の先輩は、それでもやっぱり美しい。

 僕らは下のプールに打ち付けられるように放り出された。

 僕と先輩はほぼ同時に水面に顔を出す。

 先輩はぼんやりと悟りを開いたような顔で僕を見た。怒るでも、喚くでもなく、ただ生還した喜びを静かに噛み締めているようなその顔に、僕は吹き出した。


「ちょ、なに笑ってんのよ!」ようやく先輩が怒りだす。

「あははははは、だって、ははははは、その顔! ぷっ、くく、遭難者かよ! あはははは」


 ひぃひぃ笑う僕に、やがて先輩もつられて笑う。

 やっぱり桃香先輩は笑っている顔が一番美しい。

 先輩の笑顔に、心がじんわりと温まる。小さな灯火のようなそれが何か、僕には分からなかったが、何故か『大切にしなきゃ』と感じていた。


 僕は揺れる水の中で、桃香先輩の手をそっと握った。策略はなかった。ただそうしたい、と思いつき、咄嗟に手が動いた。

 桃香先輩の笑い声は止まり、目を見張って僕を見る。

 先輩の頬がみるみる内に染まっていった。

 どうしていいのか、分からないといった様子で先輩が俯く。手は握り返されはしないが、離されることもなかった。

 僕が先輩にもう一歩近寄ろうとした時、








『滑り終わった人は、移動してくださーい! 次の人が滑りまーす!』









 スタッフに怒られた。

 先輩に顔を向けると、先輩もこちらを見た。お互いに見合って微笑む。僕は先輩の手を引いて、プールサイドに歩き出す。

 先輩の手は水中でも温かく、心地よかった。





「先輩、もっかい滑りましょ」

「それは絶対いや」


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