第31話 社会的な死

 

 教室に足を踏み入れた瞬間、混沌としたカオスを思わせる未知の宝石のような瞳が僕を捉えていた。エメラルド色の絹糸のような繊細な髪の間から覗く人間離れしたその目は——事実、彼女は人間ではないのだが——綺麗というよりも、理解の及ばない不気味さをたたえていた。

 僕はその瞳を恥辱に染めるのが好きだった。席に着く前に、彼女の人形のような顔に口を寄せ、「おはよっ」と超近距離の挨拶をする。——と同時に、気付かれないように慎重を期して彼女の引き出しにエロ本を刺し入れた。


「ち、ち、近いからァ」とひっくり返りそうな程のけぞるローラは、やはりローラ。鈍感なことにエロ本には全く気付いていない。

 僕も席について一時間目の国語の教科書を机に出す。






「等々力くんと白金さんを寮生に迎えたようだね」


 いつものようにローラが話しかけてくる。鋭い流し目は、ローラの小宇宙の瞳と相まって、ミステリアスで様になっている。——が、引き出しから顔を出すエロ本が全てを台無しにしていた。


「まぁな」

「で、『ミッション』の方は?」ローラが覗き込むように顔を下げた。ストレートに下ろした彼女の横髪が机に円を描くように垂れる。

 上手くいっていないことはどうせ知っているくせに、いけしゃあしゃあとローラが言う。答えが分かっていようと質問は質問。嘘をつくことはできない。されど、正直に事の不首尾を口にするのも癪なので、「頑張ってるよ」とだけ答えた。事実、僕は頑張っている。

 ローラは「頑張ってる……ねぇ」と挑発するかのように、意味ありげに片眉をあげるが、やはり何度確認しても引き出しからはチン◯の切先を読者に向ける男が飛び出している。


「なんで桜井さんが心を開かないのか、教えてあげようか?」


 ローラを無視して、教科書を開く。まだ休み時間だが、普段は絶対にしない『予習』を開始する。どうせローラの助言など役に立たない上にストレスだけは確実に蓄積させてくる産業廃棄物。時間の無駄だ。キリンの鳴き声が本当に「モォ〜」なのか確認するために動物園で張り込みをする方がまだ有意義な時間だと言える。

 だが、ローラは勝手に喋り続ける。鬱陶しい女神だ。


「キミが心を開かないからだよ」


 ローラは笑っていなかった。真剣な眼差しを僕に向ける。


「必要がないからな」目を合わさずに答えた。

 彼女は「これだからこの男は」と言わんばかりに肩をすくめて、首を左右に振る。この世にこれ程憎らしい生き物がいるだろうか。いや、いない。寝る前に出没する蚊でも、この女に比べればまだ可愛く思える。


「キミは彼女たちにちっとも歩み寄ろうとしないじゃないか」彼女、とローラは言った。

「それも必要がない。女は駒だ。利用はするが、信用はしない」


 ローラはハァと苛立ちを含んだ吐息を吹き、額に手を当てて眉間にシワを寄せる。

 それで諦めれば良いものを、彼女は続ける。よりにもよって、最悪な女を引き合いに出して。








「確かにキミには同情できる点も少なくないけどね、皆が皆、君の母親みたいな女じゃないんだよ」






 石に亀裂が走る感覚に似ている。僕の中の何かに亀裂が走った。

 脳裏に焼きついた光景が、リトマス試験紙に色が滲むようにじんわりと浮かび上がる。薄暗いベッドと初めて会う全裸の女。







「あの女は関係ない」

 かろうじて発した言葉に震えが混ざらなかったことに安堵する。


 ローラは言葉を返さなかった。代わりに僕の前に何かのチケットを2枚突き出した。

 それは電車で1時間ほどのところにあるテーマパークのチケットだった。


「とりあえずデートでも誘ってみることだね」


 誘っても断られるんだっての。釈迦に仏教の教えを説く愚民が思い起こされる。きっとそのことわざの元になった愚民はローラだろう、とさえ思えた。



 国語の教師キューちゃんが扉を開き、教壇に立った。授業が始まる。



「お前、エロ本そんなもん出してたら、また廊下に立たされるぞ」僕は紳士。ちゃんと引き出しからはみ出るチン◯男、略して『はみチン』を忠告してやる。

 ローラは何を勘違いしたのか、慌てて手に持った2枚のチケットを僕の引き出しに入れ込んだ。やっぱり無理矢理モノを入れ込むならそこだよな、と僕は頷く。そして僕の頷きを見てまたも勘違いしたローラはドヤ顔を見せた。


「ボクだってちゃんと学習するんだよ。いつまでも廊下に立たせられると思わないことだね」


 勝ち誇ったローラの顔はいつ見てもイラつく。


 国語教師のキューちゃんが教科書を音読しながら僕とローラの左横の通路をこちらに歩いてくる。キューちゃんはいつも音読する時、ウロチョロするのだ。それゆえに皆に『チョロQ』と陰で呼ばれている。優しい僕は再度ローラに忠告する。


「おい、チョロQが来るぞ。早いとこ教科書出しておけ」


 ローラは慌てて引き出しに手を突っ込み、それを掴んで机上に出した。

 チョロQがローラの前で止まる。


「ローラさん。それは何ですか?」冷めた目でローラを見下ろすチョロQ。その目は冷たいながらも、ローラに対する怒りの炎はありありと見えた。

 ローラはまだ机上のブツに気づかない。

 ——が、


「へ? 何って教科……にょわァァアア?!」ようやく気付いた。


「ローラさん。教科書の35ページ。読んでください」チョロQがローラに死刑宣告をした。社会的な死刑である。

 ローラはぷるぷる震えながら、涙目で35ページを開いた。エロ本の35ページを。

 そして大地震の最中に音読しているのかと思えるような震え声で読み上げた。


「そ……その果汁したたる肉の塔を……わ、わ、私にちょうだい……そう懇願するとツヨシは肉の塔を私に向けて——」


 女が喘ぐシーンで、流石にチョロQが止める。いや、もっと早く止めろよ、と誰もが思ったがそれを口に出せる勇者はいなかった。


「ローラさん。廊下に立ってなさい」と結局、ローラには罰が与えられた。


 ローラはゆっくりと立ち上がると、トボトボと廊下に向かって歩き出す。



「——待ちなさい」




 チョロQがローラを引き留める。ローラは顔を輝かせて振り返り、『先生! 信じてました!』と言わんばかりの笑顔を見せた。ボクは許された、そう確信した眩しい笑顔。

 チョロQが言った。




























「その本は置いて、廊下に行きなさい」


 ローラの社会的死刑は今、執行された。



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