受け継がれる音の記憶(第1回空色杯応募作品)
江葉内斗
受け継がれる音の記憶
九月三十日、母が死んだ。
三十九歳の若さだった。
母が車に轢かれたという情報を婆やから聞いて、私は一目散に病院に向かった。
手術が行われたが、助からなかった。
翌日、母の葬儀が行われた。
神父さんが何か唱えてるけど、何も耳に入ってこない。
昨日と、今日と、この二日間、私は魂が抜けてしまったようだ。
パイプオルガンを伴奏に奏でられる美しい讃美歌も、今は全く興味が湧かない。
それから献花の時間が来た。
参列者が一人ずつ立ち上がり、母の棺の前で花を捧げる。
私の献花の番だ。
私は椅子をゆっくりと立ち上がり、冷たく横たわる母の前に立った。
……全く感情が湧かない。
涙の一滴も出ない。
母はただ眠っているように見える。
母が死んだという事実を、私はまだ実感していない。
そういう事実があったと、知識としては私の頭の中に実在しているけれど、脳の別の部分が、その知識を受け入れることを拒否している。
脳が勝手に仲間割れしているというのに、私は何も考えられない。
魂が抜けた私は、もはやただの廃人に過ぎないのかな……
ロボットのようなぎこちない、無感情な動きで献花を済ませた。
母の葬儀の翌日、私は婆やに呼び出された。
婆やはある扉の前で、私を待っていた。
「お待ちしておりましたぞ、オルガお嬢様、いや……ご主人様」
私のご先祖様は、かの有名なフレデリック・ショパン。
「ピアノの詩人」から始まる私の家は、代々凄腕のピアニストを輩出してきた。
私だってそうだ。物心ついた時からピアノとともに、それから当主だった母とともに生きてきた。
ピアノも、ソルフェージュも、音楽理論も、すべて母が丁寧に優しく、時には厳しく教えてくれた。
しかし、その母はもういない。
母が死んだ、その時から当主の座は私に移ることになる。
でも、そんなことなんてどうでもいい。
今は何も考えたくない。
母が亡くなったことで襲われた虚無感に、この果てしなく恐ろしく、だけどどこか心地よい虚無感に浸っていたい……
婆やは私が考えていることはどうでもよいように話を続けた。
「お母さまが亡くなってから、ご主人様は死んだようになっておりますぞ。あなたはショパン家の当主になったのですぞ。どうか心を強く持ちなされ!」
何言ってんのよ、この召使い。今は何も考えたくないの。
「オルガ様、本日はこちらを渡そうと思ってお呼びいたしました。どうか受け取ってくだされ……」
そう言うと婆やは、私の手に何かを握らせてきた。
手に取ったそばからこぼれそうになる私の手を、婆やは強く握りしめる。
「オルガ様……この『鍵』こそが、喪ったご主人様の心を蘇らせてくれるはず……」
ふーん、そこまで言うんだ。
なら見てやろうじゃないの、と少しだけ強気になった私は、右手の中をのぞいた。
鍵が二つあった。
「その二つの鍵、一つはこの扉を開けるためのものでございますぞ。」と、婆やがその扉を背後に説明した。
この扉は、母が「絶対に入ってはいけない」と強く言っていた扉。
母はこの部屋に入ると、二時間以上も出てこなかった。
いったい何をしていたんだろう……婆やの言葉にそのまま従うのは癪だったが、好奇心に負けた私は金銀二つの鍵のうち、銀色のほうを取ってその扉を開錠した。
ガチャリ、と鈍い音がした。
私はドアノブを回すと、ゆっくり扉を押し開けた。
扉の向こうは、1アールはあるような広い部屋。
カーテンの後ろから顔をのぞかせる光が、部屋の中央にあるそれを照らしていた。
「先祖代々伝わってきた当主専用のピアノです」婆やの厳かな声が、部屋の中で反響する。
そのピアノは、部屋の中心にたたずむように置いてあった。
ところどころ黒い塗装がはがれ、木本来の茶色が姿を現している。
一見ただの中古品にしか見えないそのピアノを見て、私はすぐに閃いた。
「このピアノ……まさか」二日ぶりに自分の声を聞いた。
「そうです……フレデリック・ショパンが愛用していたピアノです」
死んでいた私の魂が呼吸を始めたようだった。
もう一つの金の鍵を使い、ピアノの鍵穴に差し込み、右へ回した。
ロックが解除された鍵盤蓋を恐る恐る開ける。
蓋の裏側に記されていた"pleyel,1815"の金文字。
まさしくショパンが使っていたピアノだ。
さっきまで死んでいたようだったのに、今の私は呼吸に血が宿っている。
恐る恐る鍵盤を一つ叩くと、何かを思い出させるように440Hzの音が広がった。
婆やが言った。「どう弾いてみてください。もはやこのピアノはご主人様のものですから」
その言葉に動かされるままに、私の大好きな「ポロネーズ第三番『軍隊ポロネーズ』」を演奏する。
奏でられる音の一音一音が、どこかに消えていた感情を取り戻していく。
ピアノを弾く喜び、楽しみ、ミスをしてしまった時の悔しさ、そして……
今まで感じることのなかった、母と永遠に分かれたことの哀しみが襲ってきた。
私は軍隊ポロネーズを引く手を止め、代わりに「エチュード三番『別れの曲』」を弾き始めた。
鍵盤を押すたびに、母過ごしてきた様々な思い出が次から次へと湧き出て来る。
母と連弾したあの日。初めて幻想即興曲を弾ききった時、二人で飛び上がって喜んだ八歳の夏。初めてショパンコンクールに応募し、二次審査で落選して、二人で悔し涙を流した十三歳の冬。
無意識に涙が溢れ、貴重な年代物のピアノに落ちていく。
鍵盤を弾く手は止まらず、涙も止まらず、思い出の投影も止まらず。
「母さん……」思わず母を呼んでいた。
私はずっと母のピアノを聞いて育ってきた。
そしてその母も、祖父が弾くピアノで育ってきたそうだ。
ピアノの詩人から始まった音の記憶は、長い時を経て私の元まで受け継がれた。
ショパンの末裔であることは正直どうでもいい。
でも、ショパンからこの音を受け継いでいるんだってことは、私の誇りだ。
そして、母が私の母さんであったことは、これ以上ない誇りだ。
ピアノを通じて受け継がれた音の記憶と、母を含め先人たちの魂を胸に刻み、ショパン家十二代目当主として、一人のピアニストとして、今度は私が音の記憶を引き継ぐ番だ。
いつか生まれるであろう、私の愛する子供たちのために。
完
受け継がれる音の記憶(第1回空色杯応募作品) 江葉内斗 @sirimanite
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