高野聖／泉鏡花

二十三

　此（この）折（おり）から下の廊下に跫（あし）音（おと）がして、静（しずか）に大（おお）跨（また）に歩行（ある）いたのが、寂（せき）として居（い）るから能（よ）く。

　軈（やが）て小（こ）用（よう）を達（た）した様子、雨戸をばたりと開けるのが聞（きこ）えた、手水（ちようず）鉢（ばち）へ柄杓（ひしやく）の響（ひびき）。

「おお、積（つも）った、積（つも）った。」と呟（つぶや）いたのは、旅籠屋の亭主の声である。

「ほほう、此（こ）の若（わか）狭（さ）の商人（あきんど）は何処（どこ）へか泊（とま）ったと見える、何か愉快（おもしろ）い夢でも見て居（い）るかな。」

「何（ど）うぞ其（その）後（あと）を、それから。」と聞く身には他（た）事（じ）をいううちが抵捂（もどか）しく、膠（にべ）もなく続（つづ）きを促した。

「さて、夜（よ）も更（ふ）けました、」といって旅（たび）僧（そう）は又語（かたり）出（だ）した。

「大（たい）抵（てい）推量もなさるであろうが、いかに草臥（くたび）れて居（お）っても申（もうし）上（あ）げたような深（み）山（やま）の孤家（ひとつや）で、眠られるものではない、其（それ）に少し気になって、はじめの内私（わし）を寝かさなかった事もあるし、目は冴えて、まじまじして居たが、有繫（さすが）に、疲（つかれ）が酷（ひど）いから、心（しん）は少し茫乎（ぼんやり）して来た、何（なに）しろ夜（よ）の白（しら）むのが待（まち）遠（どお）でならぬ。

　其（そ）処（こ）ではじめの内は我（われ）ともなく鐘の音（ね）の聞（きこ）えるのを心（こころ）頼（だの）みにして、今鳴るか、もう鳴るか、はて時刻はたっぷり経（た）ったものをと、怪しんだが、やがて気が付いて、恁（こう）云（い）う処じゃ山（やま）寺（でら）処（どころ）ではないと思うと、俄（にわか）に心細くなった。

　其（その）時（とき）は早（は）や、夜（よ）がものに譬（たと）えると谷の底じゃ、白痴（ばか）がだらしのない寐（ね）息（いき）も聞（きこ）えなくなると、忽（たちま）ち戸（と）の外にものの気勢（けはい）がして来た。

　獣の跫（あし）音（おと）のようで、然（さ）まで遠くの方（ほう）から歩行（ある）いて来たのではないよう、猿も、蟇（ひき）も、居（い）る処と、気休めに先（ま）ず考えたが、なかなか何（ど）うして。

　暫くすると今其奴（そやつ）が正面の戸に近（ちかづ）いたなと思ったのが、羊（ひつじ）の鳴（なき）声（ごえ）になる。

　私（わし）は其（そ）の方（ほう）を枕にして居たのじゃから、つまり枕（まくら）頭（もと）の戸外（おもて）じゃな。暫くすると、右（め）手（て）の彼（か）の紫陽花が咲いて居た其（そ）の花の下（した）あたりで、鳥の羽ばたきする音。

　むささびか知（し）らぬがきッきッといって屋（や）の棟（むね）へ、軈（やが）て凡（およ）そ小山ほどあろうと気（け）取（ど）られるのが胸を圧（お）すほどに近（ちかづ）いて来て、牛が鳴いた、遠く彼方（かなた）からひたひたと小（こ）刻（きざみ）に駈（か）けて来るのは、二本足に草鞋（わらじ）を穿（は）いた獣と思われた、いやさまざまにむらむらと家（うち）のぐるりを取（とり）巻（ま）いたようで、二十三十のものの鼻息、羽（は）音（おと）、中には囁（ささや）いて居（い）るのがある。恰（あたか）も何（なに）よ、それ畜生道の地獄の絵を、月夜に映したような怪（あや）しの姿が板戸一（ひと）重（え）、魑（ち）魅（み）魍（もう）魎（りよう）というのであろうか、ざわざわと木（こ）の葉（は）が戦（そよ）ぐ気（け）色（しき）だった。

　息を凝（こら）すと、納戸で、

（うむ、）といって長く呼吸（いき）を引いて一声、魘（うなさ）れたのは婦人（おんな）じゃ。

（今夜はお客様があるよ。）と叫んだ。

（お客様があるじゃないか。）

　と暫く経って二度目のは判然（はつきり）と清（すず）しい声。

　極（きわ）めて低声（こごえ）で、

（お客様があるよ。）といって寝返る音がした、更（さら）に寝返る音がした。

　戸の外のものの気勢（けはい）は動揺（どよめき）を造るが如く、ぐらぐらと家（いえ）が揺（ゆらめ）いた。

　私（わし）は陀（だ）羅（ら）尼（に）を咒（じゆ）した。

若（にやく）不（ふ）順（じゆん）我（が）咒（しゆ）　　悩（のう）乱（らん）説（せつ）法（ぽう）者（じや）　　頭（ず）破（は）作（さ）七（しち）分（ぶん）

如（によ）阿（あ）梨（り）樹（じゆ）枝（し）　　如（によ）殺（し）父（ぶ）母（も）罪（ざい）　　亦（やく）如（によ）厭（おう）油（ゆ）殃（おう）

斗（と）秤（しよう）欺（ご）誑（おう）人（にん）　　調（じよう）達（だつ）破（は）僧（そう）罪（ざい）　　犯（ほん）此（し）法（ほつ）師（し）者（しや）

当（とう）獲（ぎやく）如（によ）是（ぜ）殃（おう）

　と一心不乱。颯（さつ）と木（こ）の葉（は）を捲（ま）いて風が南（みんなみ）へ吹（ふ）いたが、忽ち静（しずま）り返った、夫婦が閨（ねや）もひッそりした。」