十四話

 朝日が昇り、きらきらとした陽光の中に照らされていたのは、まったく場違いとしか言いようのない、肌を露出した黒いドレス姿の女だった。


「焦げた木の匂いと、人間の血の匂い……何とも言えない香りだわ」


 炎の上がるほうを眺めながら、女はのんびりと言った。


「……来たか」


 ヴァシルが呟くと、女は顔を向けて、いつものように妖しく笑う。


「もう、お前一人だけだ」


「……そうみたいね」


 微笑みながら、女は倒れて動かないラスカーの頭の横に立ち、それを見下ろす。


「でも、あなたがこうしてくれて、ちょうどよかったわ。この男には飽きていたから」


 顔を上げると、女はにやりと笑う。


「私と一緒に、来なさい」


 これにヴァシルは、嫌悪の表情で返す。


「俺が、わかったと言うとでも思うのか」


「もちろん、ただでとは言わないわ。……あの彼女に、また会わせてあげるわ」


 ヴァシルは奥歯を噛み、絞るような声で言った。


「エリエは……もうこの世にいない!」


「ああ、そうだった。確かあなたが殺したんだったわね。くっくっ……」


 わざとらしく言う女を、ヴァシルは睨み付ける。


「ラスカーにも、同じことを言って騙したな」


「騙したなんて……この男が勝手に勘違いをしただけよ」


「お前が、ラスカーを殺人鬼にしたんだ」


「それも違うわ。私はただ、悲しみに暮れていたこの男に、婚約者の声を聞かせてあげただけよ。そうしたら、彼女に会いたいと言い出すものだから、それなら五百人の人間の命を奪ってきてとお願いしたの。それをまさか素直に聞いてくれるとは思わなかったわ。だって人間なら誰でも、死んだ者は戻らないことは知っているでしょう? 私が会わせるのは、もちろん本物の人間じゃないわ。作り出した偽物の彼女。それを本物に会えると思っていたのなら、この男の頭はどうかしていたんじゃないかしら?」


「お前……よくもそんなこと……」


 唖然とするヴァシルに、女は平然とした様子を見せる。


「私、何か悪いことしたのかしら?」


 女は不敵な笑みを浮かべる。この態度に、ヴァシルは当然怒りを覚えたが、一方で薄気味悪さも感じていた。この女は存在が悪なのだ。だが得体が知れない。一体何者で、何を考えているのか――


 すると、女の視線が急に足下に落ちた。ヴァシルもつられて追うと、そこには、女の細い足首をつかむ、血まみれの手があった。


「……ラスカー!」


 驚くヴァシルの目に、息絶えたと思っていたラスカーが、肘を立てて懸命に起き上がろうとしている姿が映った。


「ぐっ……ぐはっ……」


 乱れた髪を地面に引きずりながら、ラスカーは痛みに耐える声を漏らす。出血はひどく、体には激痛が走っているに違いない。それでもつかんだ女の足首は離さなかった。


「……あら、まだ息があったのね」


 冷やかに言う女は、自分の足をつかむ手を振り払うこともなく、ラスカーを見下ろしている。


「約束、した……はずだ。アンを……生き、返らせ、ると……」


 息も絶え絶えに、ラスカーは力なく言葉を発する。


「ええ。言ったわ。五百人の命を奪ったら生き返らせてあげるって。でも、本物の彼女なんて、私は一言も言った覚えはないけど?」


「騙した、のか……」


 これに女は溜息を吐く。


「……もうどうでもいいんじゃないかしら。あなたは結局約束を守れず、もうすぐ死ぬんだから」


 見下した女の言葉で、ラスカーの目にはわずかな感情が宿っていた。


「なぜ、俺に……こん、な、ことを……させた……」


 女は鼻を鳴らす。


「愉快だからに決まっているじゃない」


 目を細め、口を歪めて、女は言葉通りの表情を見せた。


「……!」


 足首をつかんでいた手が、女の腰をつかんだ瞬間、ラスカーはそれを支えに上半身を起こすと、握った右手を女の背中に押し当てた。よく見ればその右手には何かが握られている。さび付いた金属の柄――ナイフだった。おそらく懐に隠し持っていたものだろう。それをラスカーは女の背中に突き刺していた。


「お前も……俺と、地獄に……」


 体を支えるのもぎりぎりなのか、ラスカーの全身は大きく震え、今にも倒れそうだった。


「せっかく希望を持たせてあげたのに、こんな仕打ちをするのね」


 背中を突き刺すナイフを気にする素振りもなく、女は呆れたように言う。


「何が……希望、だ……」


 ラスカーのがくがくと震える手が、自分の腰をつかむのをうとましそうに見ながら、女は言った。


「悪いけど、私はもうあなたと一緒にいるつもりはないから……ごめんなさいね」


 言い終わった途端だった。ドレス姿の女が、突然黒い霧のように形を変え、実体を消したかと思うと、次の瞬間にはラスカーの背後に集まり、そこに一頭の獣を出現させた。支えのなくなったラスカーは、起こしていた上半身をそのまま地面に倒れ込ませ、またうつ伏せの状態に戻った。後ろへ振り返る力もないのか、頭はわずかも動かない。


「な……何なんだ、こいつは……」


 ヴァシルは自分の目を疑った。ほんの数秒前まで女の姿があったのに、それがかすむように消えると、なぜか真っ黒な獣が現れていた。まるで夢でも見ているような心境だった。だが、幻を操るあの女なら、こんなことも可能かもしれないと考え直す。


 ラスカーの背後に現れた獣は、犬の形によく似ていたが、それよりも体格は数倍大きかった。全身を真っ黒な体毛が覆っているが、その輪郭は陽炎のように揺らめいており、ただの獣ではないことを印象付ける。ぴんと尖った耳に、突き出た口、そこからのぞく白い牙と、黄色いガラス玉のように光る両目。これも女の作った幻なのか、それとも……。


 黒い獣は体を揺らし、歩き始めた。思わず身構えたヴァシルだったが、獣はヴァシルをいちべつしただけで、倒れるラスカーに近付く。そして、その耳元に口を寄せた。


「……言い残すことはあるか?」


 空耳ではなかった。確かに、黒い獣が発した声だった。女とは違って低く、がさついた声をしていた。そんな声に聞かれたラスカーだが、もう呼吸が浅く、返事のできる状態ではなさそうだった。


「ないのなら……食らうぞ!」


 獣は突き出た口を大きく開けると、槍のように尖った牙をラスカーの首筋に食い込ませた。血が吹き出たその瞬間、ラスカーのうつろな目が見開いたが、すぐに光を失い、宙を見つめたまま止まってしまった。その間も、黒い獣はラスカーの血と肉をむさぼり食う。


 正視できない光景に、ヴァシルは数歩後ずさる。目の前から漂ってくる血の臭いに吐き気がしそうで、鼻に腕を当てて臭いをさえぎる。だが肉を食う音は容赦なく聞こえ、それだけでも胸がむかむかしてくるようだった。


 やがて獣は顔を上げると、口の周りに付いた血を舌で舐め取り、満足そうに光る目を細めた。ラスカーの首はその獣の牙で、骨に達するほどえぐられるように食われている。完全に息絶えたラスカーの表情は、無感情な人形のように固まり、もう動くことはなかった。


「いい味だ……怒りや憎しみは最高の味付けだ」


 赤く染まった牙をのぞかせながら、獣はゆっくりとヴァシルを見た。その目がわずかに笑ったように見えた。


「私と、もっと遊ぶ気はあるか?」


「……どういう意味だ」


 ヴァシルは警戒しながら聞く。


「彼女を殺したように、生きながら絶望を味わい続ける気はあるか? あるのなら、ここで貴様を食うことはしないでやろう」


 彼女という言葉に、ヴァシルは眉間にしわを寄せる。


「お前は……やっぱりあの女、なのか?」


 これに獣は一歩前に出て言った。


「私が女なのではない。女が私なのだ。人間の姿など、誰がなりたいと思うか」


 不愉快な口調で獣は吐き捨てる。


「人間に近付く時だけ、人間になるだけだ。私の体は、この誇り高き狼の体、ただ一つしかない」


 ヴァシルは息を呑んだ。女の正体は、この黒い狼――脳裏にはブラガから聞いた話が何度もよぎっていた。それはつながるどころか、完全に重なっていた。間違いない。目の前にいるのは、話に出てきた狼そのもの――


「答えを聞かせろ。……遊ぶ気はあるのか?」


 狼はヴァシルをじっと見据える。怯みそうな心を奮い立たせ、ヴァシルは言った。


「その前に……お前を仕留めるのが先だ!」


 振りかざした斧を、狼の頭目がけて落とす。が、獣らしい素早い動きで、それは簡単に避けられてしまった。


「……仕方ない。もう少し美味しくなるのを待ちたかったが……ここで味わわせてもらおう!」


 大きく開いていた距離を、狼は一飛びして襲いかかってきた。むき出した牙と足の爪がヴァシルを狙う。


「う、くっ――」


 飛びかかられたヴァシルは、肩と胸に鋭い痛みを感じながら、必死に斧で振り払おうとする。やみくもに腕を振っていると、斧の背が狼の腹に当たり、ようやく引きはがすことができたが、ヴァシルの顔や体には、すでに多くの傷が刻まれていた。


「はあ……はあ……」


 ヴァシルは大小の痛みに呼吸を乱しながら、対峙する狼を睨み付ける。


「どうする? さっさと命を差し出したほうが、苦しまないぞ」


 狼は悠然とした態度で言う。その黒い体に傷は一つもない。何をしてもこの狼に傷を付けることはかなわないのだ。そうわかっているヴァシルに、成す術はなかった。


「歩くこともできないか? ならばこちらから――」


 狼の足が前に出た時だった。カーンと勢いのある音が響いたと思うと、狼の体がわずかに揺れて、その動きを止めた。


「ヴァシル! 今のうちに逃げろ!」


 離れたところからの声に、ヴァシルは視線を巡らせた。そして見つけたのは、木の陰に弓を構えて立つブラガの姿だった。彼は生きていた――その喜びを感じる暇もなく、ヴァシルは言われた通り、背後の家の壁際まで逃げた。


「狼め……」


 ブラガは憎々しい表情で、次の矢をつがえる。その視線の先では、狼が自分の後ろ足を見下ろしていた。


「……ふん」


 右の後ろ足の付け根には、ブラガの放った矢が垂直に刺さっていた。だが狼は面倒くさそうに鼻を鳴らすと、その足をばたばたと動かし、刺さった矢を振り落とした。その直後、再びカーンと高い音が響き渡る。空気を裂いて飛ぶ矢は、狼の首に当たると思われた。しかし狼は黒い体をひるがえすと、すれすれのところで矢をかわしてしまう。


「ちっ、すばしっこいやつめ……」


 ブラガは悔しそうに背中に背負った矢を取る。


「ブラガ! こいつは普通の狼じゃない。神木の矢じゃないと――」


 ヴァシルはわずかに見えるブラガに向かって叫んだ。だが狼に集中しすぎてこちらの声が聞こえていないようだった。このまま矢を放ち続けても、狼を仕留めることはできない。ブラガも今のうち逃げないと、狼に狙われる可能性が大きい。


 矢をつがえようとしているブラガに、ヴァシルは叫ぶ。


「駄目だ! その矢は効かない。逃げろ!」


 この声に、ブラガはようやく気付いてヴァシルのほうを向いたが、狼の狙いはすでに彼に変わっていた。


「邪魔な人間が……」


 直後、狼は風のように駆け出した。その姿にブラガは慌てて矢を放つ。


「このっ……」


 びゅんっと音を立てて飛んだ矢は、狼の顔の横をかすめて通り過ぎる。それでも速さの緩まない狼は、ブラガ目がけて走り続ける。


「逃げろ! 早く!」


 ヴァシルは精一杯叫ぶ。だがブラガは逃げるどころか、また矢をつがえようとしていた。その様子に、思わず足が動いたヴァシルだったが、黒い影がブラガに飛びかかるのを見て、全身が固まった。


「うああ……がっ、あ……」


 正面から飛びかかられたブラガは、喉元を深く噛まれ、血を流しながら地面に倒れた。しばらく手足でもがいていたが、やがてそれもなくなり、静止した。狼は死んだのを確認すると、舌で自分の口を舐めながら、ヴァシルのほうを振り返る。もう邪魔者はいない。次は貴様だぞ――黄色い目が、そう言っているように感じた。


 自分は、こいつから逃げることはできないだろうとヴァシルは思っていた。どちらかが死ぬまで、いや、傷付ける術を持たないヴァシルが死ぬまで、この闘いは終わらない。だからと言って、無抵抗のまま殺される気はなかった。確実に負けるとわかっていても、ここが自分の墓場になるとわかっていても、ヴァシルはこの黒い狼に立ち向かわなければならないのだ。あらゆる感情をぶつけるために……。


 ヴァシルは家の壁際から離れ、道の真ん中で斧を構えた。もうすぐ自分は死ぬのだと思うと、心臓の鼓動がやけにうるさく聞こえてきた。だが怯えてはいない。斧を握る手にはしっかりと力が入っている。来るなら来い――胸の中でヴァシルは叫んだ。


 その声がまるで聞こえたかのように、狼はゆっくりと歩き出すと、ヴァシルを見据えたまま真っすぐに駆け出した。黒い体を揺すりながら、草の中を滑るように向かってくる。


「はっ!」


 間合いに入った狼に、ヴァシルは思い切り斧を振り下ろす。だがその寸前で狼は高く跳ね上がると、ヴァシルの胸目がけて飛びかかってきた。


「……くっ……」


 ヴァシルは咄嗟に体をひねり、かわす。しかし動きの素早い狼の爪は、ヴァシルの腕の皮膚を深く裂いていった。痛みを感じながらも、狼を目で追ったヴァシルは、地面に着地し、背を向けたところへ、再び斧を振り下ろした。


「……!」


 斧は狼の背を直撃した。刃は黒い体に食い込み、背骨を切断するほど深く入っている。普通の狼なら、致命傷となる一撃だ。だがこの狼は普通ではない。斧を握るヴァシルには、切り付けた手応えがまったく感じられなかった。骨や肉の硬さはなく、まるでわら束でも切ったかのような、空虚な感触しか伝わってこなかった。やはりこいつには何もできない――ヴァシルはそう痛感せざるを得なかった。


 狼は体を揺さぶり、背中に食い込む斧を振り落とそうとする。危うく手から離れそうになったのを、ヴァシルは慌てて引き戻す。何の痛手も負っていない狼は、ゆらりと踵を返し、ヴァシルを見上げた。


「貴様は私を、殺せない。どうあがいてもな!」


 黄色い目を妖しく光らせると、狼はまたヴァシルに飛びかかった。血で汚れた牙の列が、ヴァシルの顔に迫る。


「う……あっ!」


 斧を使い、振り払おうとするが、狼の執拗な攻撃にヴァシルの体が傾き始める。黒い体にのしかかられた状態で、鋭い爪が顔をかすめようとした時、ヴァシルはとうとう地面に押し倒されてしまった。仰向けになったヴァシルの体を、狼が爪を立てて押さえ込んでいる。それでもなお斧を振ろうとするヴァシルだったが、狼は大口を開けると、斧の柄をガブリと噛み、その動きを強引に止めた。


「は、放せ!」


 身を守る唯一のものを止められ、ヴァシルは焦りながら両手で柄を引く。だが狼の噛む力は人間の腕力以上にあり、びくともしない。それどころかさらに力を入れて、木製の柄を噛み砕こうとしていた。ぎしぎしと音を立てながら、牙が柄にひびを入れていく。ラスカーの剣に切り付けられているせいで、斧の柄はすでに折れやすくなっている。持ちこたえることはもうできないだろう。折られたら、それがヴァシルの最後となる。


 わかっていたことなのに、ヴァシルは悔しくてたまらなかった。相手はこんなに近くにいるのだ。それなのに無念を晴らすこともできない。一体この獣は何なのだ。なぜ切り付けても平気でいられるのか。今さらながらヴァシルは後悔も感じていた。あの時、森で折った枝を持ち帰っていたら、この状況はあるいは変わったかも――


 体を動かした拍子に、地面に面した腰の辺りに、ぐりっと硬い何かが当たるのを感じ、ヴァシルははっとした――持ち帰っていた。自分は枝を持ち帰っていたじゃないか!


 その時、斧の柄は、狼の牙によって粉々に噛み砕かれた。木の破片となった柄は、仰向けのヴァシルの顔にばらばらと降りかかる。真っ二つにされた斧は、ただの木の棒と、鉄の塊となった。それらに身を守る能力はもうない。それをわかって、狼はヴァシルの顔を見下ろすようにのぞく。


「……いい顔だ。もっと怖がれ。断末魔の叫びを聞かせるんだ……!」


 ぎらぎらとした目と、口からわずかにのぞく赤い舌が、狼の興奮をうかがわせる。そして次の瞬間、狼はよだれの溜まった口を開き、ヴァシルの喉に食らい付きにいく。


 瞬時に振り上げた腕に振動が伝わった。それは先ほどとは、まるで違う感触だった。ヴァシルの右手には、乾いた木の感触と、そこから伝わる重く柔らかい不快なもの――


「……な、何を……?」


 狼はヴァシルの鼻の先で呟く。


「早く、どけ!」


 そう言うと、ヴァシルは右手に握った神木の枝を、狼に強く押し込んだ。


「ぎゃああああああ――」


 その途端、狼はヴァシルの上から飛び退くと、左目に枝を突き刺したまま、地面の上で暴れ回り始めた。頭を振り、必死に枝を取り除こうとする。その左目からは赤い血ではなく、黒い霧のようなものが噴き出し、足下に点々と黒い染みを残していく。


 それを見ながら立ち上がったヴァシルは、全身の傷の痛みに顔を歪ませながら、のたうち回る狼の姿を呆然と見つめていた。ブラガの話は本当だったのだ。あれは昔話でも何でもない。後世のためのれっきとした言い伝えそのものだった。同じことがまた起きた時に、狼を撃退できるように、住人達が忘れずに伝え続けてきてくれた話。それはたった今、ヴァシルの命を救ってくれたのだ。


「……ブラガ」


 ここからは見えない。だが、ヴァシルはブラガの倒れるほうを見つめる。その命を助けることはできなかったが、ブラガは自分を二度も助けてくれた恩人だ。彼と出会っていなければ、一体自分はどうなっていたのだろう――


「ふ……ふははは……」


 不気味な笑い声に、ヴァシルは視線を戻した。痛みに暴れ回っていた狼は、今は体を小刻みに震わせ、おぼつかない足取りでよろよろと歩いていた。その足跡のように、左目から流れ落ちる黒い霧が地面を汚していく。


「痛い……痛いぞ……」


 言葉とは逆に、狼の右目はらんらんと光り、がさついた声は喜んだように上ずっている。


「懐かしい、痛みだ……またこの痛みを味わえるとは……ふ、ふはは……!」


 四本の足で踏ん張るように立つと、狼はよだれの垂れる口元から牙をのぞかせながら言う。


「貴様は、やはり面白い……すぐに食うのはもったいないくらいだ」


「強がりを言う余裕はあるんだな。……それ、痛いんだろ?」


 ヴァシルは狼を睨み据えた。


「痛みがあるのは、お互い様だろう」


 狼は笑い混じりに言う。確かに、ヴァシルは牙と爪で付けられた傷で満身創痍の状態だった。こうして気を張っていないと、すぐにも膝を折ってしまいそうな痛みがあちこちに走っている。それでもヴァシルは表情には出さずに言う。


「……俺はもう、お前を殺せるぞ」


 確信した口調に、狼の黄色い目が細められた。


「気に入らない顔だ……だが、楽しかった。貴様とはまた会えることを楽しみにしている……」


 狼の姿なのに、その表情には、あの女の時の不敵な笑みが浮かんだように見えた。すると狼は、おもむろにヴァシルに背を向けると、黒い体を霧状に変えていく。


「お、お前、逃げる気か――」


 気付いて咄嗟に駆け寄ろうとしたヴァシルだが、その時にはすでに、狼の姿はどこへともなく霧散して消えてしまっていた。地面を汚していた黒い染みもそれと共になくなり、狼がいた痕跡は目の前からすべて消え去った。残ったのは、集落の惨状と、かつて追っていた男の亡骸、そして、決意を胸に秘めたヴァシルの姿だけだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る