十三話

「おはようございます」


 外に出ると、輝くような太陽の光が視界に入り、ヴァシルは思わず目を細める。


「おう。ちゃんと休んだか?」


 ブラガは家の前で薪割りをしていた。カーンという壮快な音を響かせながら、まだ早朝だというのに、元気に斧を振り上げている。


「もう行くのか? 朝飯くらい食ってけ」


「十分世話になりましたから……ところで、昨日言ってた神木は、あの森にも生えてますか?」


 ブラガは斧を止め、腰に手を置く。


「やっぱ神木に興味持ったのか? 変わったやつだな……中に入れば、どこにでも生えてるから、すぐ見つかるよ」


「わかりました……ありがとうございます」


 歩き出そうとしたヴァシルに、ブラガが言った。


「見つけたら、一旦帰って来い。飯の用意しておくから」


「あの、もうこれ以上は――」


「腹減って倒れられたら、こっちの気分が悪い。いいな? 必ず来いよ」


 ぶっきらぼうに言うと、ブラガはまた薪割りを始める。無愛想な男の優しさに、どこかむずがゆさを感じながら、ヴァシルは一人森へと向かった。


 朝の澄んだ空気と共に、緑の濃い匂いを吸い込みながら、薄暗い森の奥へ突き進む。


「確か、白い筋、だっけ……」


 成長した木に現れるという白い筋を探しながら、ヴァシルは視線を動かし続ける。


「……あ」


 森に入って十分ほど、それは見つかった。まだ細く薄茶色の幹に、白いインクで線を引いたようないくつもの筋が刻まれていて、根元からてっぺんまで、長く伸びている。見渡せば、すぐ近くにも同じ木が何本も立っており、この辺りには神木が密集しているらしい。


 ヴァシルは神木の立ち並ぶ中を歩き回り、太く立派に育った木に目を付けた。ちょうど手の届くところに、持ち帰れそうな枝が生えていたのだ。早速その枝をつかむと、ヴァシルは力任せに折ってみる。パキッと音が鳴って、簡単に枝は折れた。邪魔な葉を取り除くと、少し長すぎる枝を矢の長さになるように折って短くする。


「これで、仕留めるのか……?」


 右手で持った枝は非常に軽く、手触りはかさかさとしていて、水分が他の木より極端に少ないように思えた。地面にでも転がっていれば、ただの枯れ枝にしか見えないだろう。こんな木に神が宿ると思った人がいたことが、ヴァシルには不思議だった。頼りなく、力を加えればすぐに折れてしまいそうな、弱々しい木だ。こんなものが、あの女を仕留める武器になるとは、到底考えられない――


 自分は、何を考えていたのだろう。ブラガの話は、所詮昔話だ。それを鵜呑みにするなんて、どうかしていた。そんな話にすがりたいほど、自分は焦り、追い込まれているのだとヴァシルは自覚した。あの女を仕留めようと仕留めまいと、その先の最後はきっと変わらない。でも、できることなら、あの女だけは自分の手で決着をつけたかった。しかし、そのための武器がこんな枝切れでは、それも叶わないかもしれない……。


 ヴァシルは手元の枝を見つめる。そもそも弓を握ったことがないヴァシルには、この枝から矢を削り出しても扱いようがなかった。それに気付いて、思わず自嘲の笑いが漏れる。


「まったく……何しに来たんだ」


 ヴァシルは踵を返した。捨てようと思った枝だが、たきぎくらいにはなるだろうと、ブラガのために持ち帰ることにし、自分の腰のベルトに差し込んだ。


 十分後、暗い表情で森を抜けたヴァシルの目に、空へ向かってもうもうと立ち上る灰色の煙が映った。朝食の準備にしては、煙の量が多い気がした。そう感じた途端、ヴァシルの中に一抹の不安がよぎり、その足は自然と駆け出していた。集落に近付くにつれ、その不安は増していき、そして到着して見えた光景に、ヴァシルは愕然とした。


「……どう、して……」


 そこに広がっていたのは、いつかの惨状を思い起こさせるものだった。火に包まれる家に、物が散乱する道、そして、その中に倒れる住人達――ヴァシルは表情を歪めながら、地面に倒れる住人を一人一人確認していく。女性も子供も、容赦なく切られていて、すでに全員が息を引き取っていた。ヴァシルがここを出て、たった二十分足らずの間に、皆が殺されている――いや、まだわからない。倒れた人の中に、ブラガの姿はなかった。どこかで生き残っている可能性はある。


 再び駆け出したヴァシルは、ブラガの家に向かった。家の前には積まれた薪と斧が残されていた。


「ブラガ!」


 勢いよく扉を開けて呼ぶが、部屋に人影はなかった。机の上には皿に載ったパンが置いてあり、朝食の用意をしてくれていたのだとわかる。


 ブラガの姿を求め、ヴァシルは他の家も見て回る。どこも朝食の準備の最中だったらしく、部屋には料理や食材が散乱していた。中にはベッドの中で殺された者もいて、これが突然の出来事だったことをうかがわせた。


 そして、ある家の前に立った時、中からかすかに物音が聞こえた気がして、ヴァシルは息を凝らした。少しだけ開いている扉の隙間から部屋の中をのぞく。


「……!」


 見えたのは、血まみれで倒れる住人の奥で、椅子に座って何かを飲み食いしているラスカーの姿だった。フォークやスプーンは使わず、皿に直接口を付け、天を仰ぐように流し込んでいる。瓶の中身も同じように飲みながら、空になった皿を床に放り投げると、ガシャンと大きな音が鳴り響いた。その音に、思わずヴァシルの肩が揺れると、つかんでいた扉がギイときしんだ。しまった、と思った瞬間には、ヴァシルはラスカーとしっかり目が合っていた。


「……くっ」


 ラスカーが瓶を捨てるのを見て、ヴァシルは急いで扉から離れる。とその直後、扉は壊れる勢いで開かれ、ラスカーは剣を片手に猛然と飛び出してきた。


「やっぱりお前か!」


 ヴァシルはラスカーを睨む。剣を構えながら、ラスカーは間合いを縮めようとしていた。


「俺の付けた傷、残っているようだな」


 ヴァシルは自分の左肩を見下ろす。袖には赤い血が滲んでいる。


「もう見逃す気はない……ここで殺してやる」


 ラスカーの目付きが鋭く変わる。ヴァシルは小さく舌打ちした。今は何の武器も持っていない。剣に対抗するには、それなりの物が必要だった。そろそろと視線を動かしても、近くには身を守ってくれそうな物は見当たらない。


 考えているうちに、ラスカーは突進するように切りかかってきた。


「はっ――」


 転げそうになりながら避けるも、ラスカーはさらに攻撃を仕掛けてくる。逃げ続け、追い込まれたヴァシルだったが、その目の前にブラガが使っていた斧を見つけ、すぐさま手を伸ばした。


「ふんっ!」


 振り向きざま、ヴァシルは斧を思い切り振った。近付いていたラスカーは、その勢いに怯み、飛び退く。空気をブンと裂いて振った斧は、自分の剣よりも若干重かったが、振り回せないほどではない。これなら対抗できるとヴァシルは斧を構え直した。


「……無駄な抵抗を」


 あざけるようにラスカーは呟く。


「あの女は、どこにいる」


 ヴァシルは低く聞いた。


「さあ……? 彼女は神出鬼没だ」


「あいつは、何かおかしい。人じゃないんだろ?」


「……そうだったら何だと言うんだ」


「お前は多分、あいつに騙されてる」


 これにラスカーは眉をひそめる。


「またそんなことを……聞き飽きたぞ」


「違う! お前も、何か幻を見せられたんじゃないのか? 大事な、お前にとって大事な何かの――」


「あれは幻じゃない。彼女は、本物の声を聞かせてくれた」


「……声?」


 怪訝な顔をするヴァシルに、ラスカーは穏やかな口調で言った。


「俺に会いたいと、アンは言っていた。殺されて、あなたとの生活ができないなんて嫌だと泣いていた。式を上げて、あなたと幸せになりたいと願っていた……」


「それって――」


 目を見開いたヴァシルは、以前ミレスクから聞いた話を思い出していた。ラスカーが殺人鬼になってしまった理由かもしれない出来事――


「殺された、婚約者のことか……?」


「あれは、どう聞いてもアンの声だった。一番近くにいた俺が聞き間違えるわけがない。会いたいと悲しそうに、泣き入っていた……」


 その時を思い返しているのか、ラスカーは切ない表情を浮かべている――同じだとヴァシルは思った。ラスカーの場合は声だけのようだが、失った恋人を使って行動を操る手段は、まさにヴァシルも体験したことだった。その時は偽物だと女が明かしたが、ラスカーは聞かされた声が、未だに婚約者のものだと信じ込んでいる……。


「それが幻なんだ! 婚約者の声を使って、あの女はお前を騙してるんだ! 目を覚ませ! 婚約者はもうこの世にはいな――」


「アンは俺の側にいる!」


 声を張り上げると、ラスカーは目を吊り上げてヴァシルを見据えた。


「命を奪うたびに、アンは喜んでくれる。もうすぐあなたと会えると……。あと百三十四人、それだけ殺せば、彼女はアンと会えると言ってくれた。俺は……アンと会うためなら、どんなことでもしてやる!」


 ラスカーは剣を振りかぶり、力強い一撃を加える。咄嗟に身をかわしたヴァシルは、次の攻撃が来る前に、こちらから打って出た。


「婚約者が、人殺しを、望んでるって言うのか」


 斧を振り回し、ラスカーの間合いを遠ざける。


「俺が会いたいように、アンも、俺と会いたがっている。他人の命など、知ったことではない!」


 小さな攻撃を繰り返しながら、ラスカーはじりじりと詰め寄ってくる。これ以上の話は無駄か――ヴァシルは胸の中で呟く。説得しようにも、ラスカーが妄信しすぎていて、聞く耳を持ってくれない。彼も自分と同じ、あの女にもてあそばれた被害者だ。だが、それに彼は気付こうとはしない。まだ殺人鬼でいようとするなら、仕方ないが、ヴァシルは全力で止めるしかなかった。


 わずかな隙を突き、ヴァシルは斧を横薙ぎに振った。ラスカーの突き出した剣にぶつかり、派手な金属音が鳴り響く。斧をそのまま上に振り上げると、刃はラスカーの長い前髪をかすり、空を切った。


「ふっ……」


 紙一重で避けたラスカーは鼻で笑うと、すぐに間合いを詰めてくる。そして肩で体当たりをすると、ヴァシルを大きくふらつかせた。


「死ね!」


 目の前から剣が切りかかってくる。


「くそっ――」


 避けるには遅すぎた。ヴァシルは身を守ろうと、斧を両手で持ち、顔の前に突き出す。ガンと鈍い音がして、剣は斧の長い柄に阻まれた。刃が木製の柄に食い込んでいたが、どうにか切られることはなかった。だが、これで強度は弱くなってしまった。同じことは二度も出来ないかもしれない。柄が折れる前に、勝負を付ける必要がある。でなければこちらが不利な状況に戻ってしまうだろう。


 剣が柄に食い込んだまま、ヴァシルはラスカーを押し返した。その反動で剣は離れ、二人の距離も開いた。その離れ際にヴァシルはすかさず斧を振り回す。


「おりゃあ!」


 斧はラスカーの腹部を切り裂くかと思ったが、一瞬早くその体は遠のいていた。読まれていた――ヴァシルがそう感じた直後、ラスカーが一気に距離を詰めてきた。慌てたヴァシルは後ずさろうとして、その足をもつれさせる。


「……あっ」


 小さな声が漏れて、ヴァシルは後ろへ尻もちをついていた。だがその目は、迫ってくるラスカーをしっかりとらえていた。


「焦ったな……!」


 ラスカーの口元が歪み、剣を握る腕が振り上がる。切り下ろされる剣の軌道は、ヴァシルの頭に向かってくる――尻を付きながらも、冷静に見極めたヴァシルは、向かってくる剣に思い切り斧を当てにいった。


「なっ――」


 ガキンッと大きすぎる音を立てて、二つの武器がぶつかった。だがそれだけではなかった。ぶつかった斧は、剣を真っ二つに折り、刀身を弾き飛ばしていた。その光景に、ラスカーの表情が固まる。


「……ここまでだ!」


 動きの止まったラスカーを見て、膝を立てたヴァシルは間を置かずに斧を振る。迫る攻撃に気付いたラスカーだったが、すでに遅かった。無防備になった脇腹を服ごと深く切り裂かれ、その衝撃で使い物にならなくなった剣を手から落とした。


「はっ……う……」


 小さなうめき声を発しながら、ラスカーは長い髪を振り乱し、ぎこちなくも歩きさまよう。立ち上がり、斧を構えながら、ヴァシルはその姿を傍観していた。腹から血を滴らせ、苦しそうにもがき歩くその姿は、同情こそしないが、やはりあわれに感じた。すべてはこの男の自業自得だが、それで済ませるには納得できないものが大きいのだ。元凶である、あの女の存在……。


 やがてラスカーは膝を折ると、力が抜けたように地面に勢いよく倒れ込んだ。腹の下には血だまりが広がっていく。


「……ア、ン……」


 とても小さく、かすれた声が聞こえたが、それ以降、ラスカーが動くことはなかった。


 離れた場所から、うつ伏せのラスカーを見つめながら、ヴァシルの中にはやり切れない思いが湧いていた。ラスカーは本当の悪ではなかった。助けるべき被害者だった。本来ならこんなふうに死ぬ男ではないはずだ。失った婚約者を求めすぎたゆえに、人生を狂わされてしまった不憫な男なのだ。


 それは、ヴァシル自身にも言えることだ。断てなかったエリエへの思いが、まんまとあの女に利用されてしまった。そして、自分とエリエに取り返しのつかない不幸を招く結果となった。だから自分は何も悪くないとは言わない。偽物と疑い、エリエを手にかけたのは紛れもなくヴァシルなのだ。その罪まであの女のせいにする気はない。だが、悪は確実にあの女だけだ。幻で人を騙し、人殺しをさせる。そこにどんな意図があるのかは知らないが、ただわかっていることは、生かしておいてはいけないということだけだった。


 炎に包まれていた家が、がらがらと音を立てて燃え落ちていく。風が灰と煙を舞い上がらせて、辺りに焦げ臭さを充満させていた。軍がこの煙を見つけて向かってきているかもしれない――そう思ったヴァシルは、倒れるラスカーをいちべつすると、早くこの場から離れようと歩き出す。


 その時、背後で人の気配と、地面を踏み締める靴音が聞こえ、ヴァシルはゆっくりと振り返った。

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