十八 七人目

 八月三日であった。

 私はちかごろ昼のうちは鉱泉宿へでかけて、仕事をすることにしていた。ここもむろん静かであるが、然し、どちらかといえば、歌川家の洋館の方がもっと静かだ。ガッシリした鉄筋コンクリであるから、よその音もあんまりきこえないのである。

 然し、静寂ということよりも、私は単調に疲れていた。それに、ああいう事件つづきで、お互に気心が知れないような気持をつつんで、顔つき合わしているというのは気づまりなもので、それで私は鉱泉宿へでかける。

 この気持は私ばかりではなく、近頃は、みんなしきりに、日中は外出したがる。バスに乗って町へ行く者もある。丹後は、村の碁打を訪ねて、碁を打ちに行く。一馬も神経衰弱の気味で苛々と落着きなく、どこかを出歩いているようであり、全然外出しないのがピカ一と神山東洋で、この御両名は連日賭けのどうきゆうに打ちこんでいる。どっちも三百ぐらいの手並で、時々巨勢博士が加わる。これが又、負けず劣らずの御手並、遊びならなんでも達人、生れついてのバクチ打ちの性なのである。この三人は昨夜から相談して、今日は朝から夕方まで一日中つきまくって勝敗を決する、全財産を失うともかえりみず、などと大変な意気込みで、神山東洋は早朝に目をさますと、サイカイもくよくに及んだという話であった。

 京子はN町へ買い物に行って、ついでに昔の知り人を訪ねてくると言って早朝に出発した。

 私が九時ごろ、鉱泉宿へでかけようとすると、

「ちょッと矢代さん」

 あやかさんが、私を認めて、よびとめて、目をかがやかせた。

「今日こそ鉱泉へはいるわ。つれてって」

「今日は日曜だから、又、混雑するかも知れませんよ」

「あら、日曜なんかで、混雑すること、ありませんのよ、山奥ですもの」

 まったく、そうかも知れない。先日も鉱泉へはいってみたいと言って、私についてきたが、その日に限って案外の混雑で、私も少々うるさくて仕事ができなかったぐらい、湯ブネの方はいつも人がこみあっていて、男女混浴だから、あやかさんは入浴することができなかった。都会地の温泉とちがって、こういう山奥の湯治場は、お湯だけが楽しみのお客だから、入浴しないと損みたいに、殆ど一日ゴチャゴチャ湯ブネで暮しているようなものなのである。

 あやかさんは大喜びで、タオルや石ケン、一式かかえて私のあとからついてきた。

 私たちがブナの森へくると、丹後弓彦がステッキをふりながら、ユカタでぶらぶら歩いている。私たちが追いつくと、私たち二人づれと、あやかさんの湯道具一式を変に興のこもった皮肉な目で眺めながら、

「珍らしいね。奥さん、御湯治とは」

「あなたも鉱泉? 一しょに行きましょうよ」

「僕は今日は郵便局長のところで碁会があるんだけどね」

「あら、局長さんのお宅はこっちの方じゃないでしょうよ」

「ええ、だから、つまり、僕は碁は好きではあるが、会となると、嫌いのタチでね。会は常に何の会であっても、雑然たるものだからさ。それで、会場へ向って歩こうとすると、自然に足が反対の方角へ向って歩いてしまうんですよ」

「生れつきのヒネクレ屋なのね。足の向いたついでに、鉱泉宿へ行きましょうよ」

「そう言われると、自然に又、足の方角が」

 そう言いながら、ブナの森のマン中へんから、道のない森の奥へ曲りこんでしまった。

「ずいぶんヘンジンね」

「ああいうアマノジャクとはマジメにつきあわぬ方がよろしいです。白いといえば、黒と言うにきまった奴ですよ」

 この日の温泉は全くカンサンそのものであった。だいたい田舎の湯治客は二人づれ三人づれなどというのは殆どなく、一家ケンゾク引越しさんという奴だ。だから幾組の客もなくとも、一組で忽ち賑いを呈するという特殊性があるのである。

 我々のほかに客が全くないのだから、あやかさんは張番をたのむ必要もなく、のんびり三十分以上も湯ブネで遊んでいる。

 私の仕事部屋をのぞきにきて、

「ここは、ずいぶん、田舎にしてはいきなお部屋ね」

「そうなんですよ。はなれのこの部屋だけ、特別なんですよ」

 目の下がすぐ渓流である。私の部屋の窓の外を、山の漁師がごめんなさいよ、とていねいに挨拶して、通って行った。

「あら、ここは庭じゃなくって、道なんですの?」

「こんな山奥には、庭も道も区別がないんでしょうよ。ほら、そこから、谷へ降りる道があるでしょう。あの降りたところによどみがあって、このへんで屈指の釣場なんだそうですよ。ごらんなさい。私もちゃんと釣竿を買ったんですよ。仕事のあいまに時々窓から降りて、あそこで釣をするのですよ」

「釣れましたの?」

「まだ一匹も釣れません。時間が悪いからですよ。それに釣道具も、この宿で売ってる最下級の安物だから、アユだのヤマベだのイワナをつるには無理ですよ」

「釣れたら、見せてちょうだいね。じゃア、さよなら」

 と、あやかさんは帰って行った。

 やっぱり、どうも、あやかさんみたいな珍客がきたり、その珍客が引きあげて行ったりすると落着かないもので、私は仕事ができなくて、ちょッと釣糸をたれてみたりしたが、だめだ、昼食をたべて、ヒルネして、それから少しだけ仕事をして戻ってきた。

 八時ごろから八時半ごろにかけて、四、五人の人々が戻ってきた。これは乗合自動車の時間のせいで、N町からのもの、N町行きのもの、いずれも最終が七時前後に到着する、田舎の乗合は一向に時間が一定せず、三十分ぐらいのヒラキはいつも見ておく必要があるのである。

 近頃はめっきり人々の外出が多くなったので、夕食の途中に戻ってくる人が多い。この村へつくのが七時前後だが、N町発は五時なのだから、町へでると、大概五時の終発のゴヤッカイということになる。七時前後に村に着いて、男の足で急いでも、歌川家まで一時間ほどかかるのである。

 この日のN町からの終発で帰ってきたのは、木ベエ、京子、木曽乃さんの三人であったが、一馬と丹後がF町からの終発で戻ってきた。F町というのは、つまりバスはN町とF町の間を往復しており、このN村はそのちょうどマン中へんに当っていた。どっちの方へも、バスで二時間足らず、かかるのである。

 F町発の終発はおくれて、一馬と丹後は八時半ごろ家へ戻ってきたが、宇津木秋子女史の姿が見えない。

「君たちのバスに秋子さんは乗っていなかったかね」

 と私が一馬にきくと、乗っていなかったという。N町発の終発にも乗っていなかったそうだ。

「N町からの終発には海老塚さんが乗ってらしたわ。今日は日曜で休診なんですわね。町で諸井さんもお見かけしたけど、終発には、御一緒でなかったのよ」と、京子が私に言った。

「丹後は碁会へ行かずに、F町まで、のしたのかい」と私がきくと、

「ああ、君たちのおかげで、鉱泉宿へも行くわけに行かなくなったからさ」

 胡蝶さんが不審顔で、

「宇津木さん、どうなさったのでしょう。私たち、今日は、この村の青年会と処女会の方々に、講演と実演の会で、午前中は人見が講演して、午後は私がメーキァップやら、実演してきたのですけど、私どもが朝九時ごろここを出るころは、宇津木さんはお部屋でお仕事していらしたわ。疲れて、おヒルネでも、してらっしゃるのかしら。私、見てきますわ」

 と、胡蝶さんは出て行ったが、部屋には書きかけの原稿があるばかり、姿は見えないということであった。

 食事を終ったころ、カングリ警部がぶらりとやってきたから、

「警部さん、又、事件かも知れませんよ」と、神山東洋が言った。

「なんですか。脅かしちゃ、いけませんよ。あなた方も疑心暗鬼という奴ですな」

「宇津木秋子さんの姿が見えないのですがね。大人の迷い子は、よその土地じゃ笑い話だけど、ここのウチじゃア、穏かならぬ例ですからな」

「なるほど。いつから、お見えにならないのですか」

「朝の九時ごろ、自分の部屋で仕事中の秋子さんを胡蝶さんが見たというのが、唯一の消息なんですよ。私と土居画伯と巨勢はもっぱら撞球の熱戦中でして、他の方々は、一馬さん、丹後さんはF町へ、三宅さん、京子さん、木曽乃はN町へ、矢代さんは?」

「私はあやかさんと鉱泉宿へ。九時ごろ出かけましたよ」

「結局みんな出払ってるんですな。私たち撞球組は有って無きが如きものですからな。いったいいつごろ、どこへ、おでかけかな」

 そのとき、ツボ平のオカミサンが、

「私は九時半か十時ごろ、宇津木さまがおでかけのところをお見かけ致しましたよ」

「どこで」

「この広間でございます。ああ、そうそう、ちょッと、調理場でお水をおのみになりましてね、おでかけですか、とお訊きしますと、ええ、ちょッと、散歩よ、と仰言いました。そしておぞうのまま、食堂の方から外へ出て行かれましたようです」

「そして、昼食の時は?」

「そういえば、御昼食の時も、お見かけ致しません。お食事の用意は致してあるのですから、お帰りになれば、おなかがへったわ、何か食べさして、と言ってらっしゃる筈なのでございます」

 宇津木さんはその翌日、三輪山の奥の滝壺でできたいとなって、発見された。

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