第3話 名前
「この暴力女。弁論で勝てないからって叩きおって」
猫もどきが頭をさする。
さすがに、小さな生き物にそんなに力は入れていないから、怪我はしていないはず。
「うるさい! この毛むくじゃら」
らちが明かない言い争いをしていても意味がない。
私は、コンビニで手に入れた弁当をテーブルに置いて食べ始める。
ちくしょう、風呂上りの水道水が味気ない。
冷めた弁当を食べながら、毛むくじゃらを眺める。
勝手にテレビをつけて、ビール片手に時代劇を観ている。『暴れすぎ将軍』昔からの定番の時代劇の一つだが、こんなのが好きなのだろうか?一々オヤジ臭い。
だが、七年も付き合った彼氏と別れた夜。誰かがいてくれるのは有り難い。きっと、一人なら、泣いてしまっていただろう。
見てしまった。
給湯室で、彼氏の正樹が、後輩の幸恵と抱き合ってキスしているのを。そして、「今日、ホテルディナー楽しみ。ずっと行きたかったの」なんて言う幸恵に、正樹が「だろ? おれ幸恵ちゃんのために頑張ったんだ」と返して。
覚えている?
今日は私の誕生日。一緒に過ごせると思っていたのに、朝、メールの一言でドタキャンしたのは正樹だよ?
泣けてくる。
七年。そんな情熱的に始まった恋ではなかったけれども、五年経ったあたりから、この人と結婚するのかな、なんて何となく思って続けていた関係。
崩れていく足元の七年に我慢できなくなって、幸恵の前で正樹をぶん殴って、「そんなに欲しかったら、こんな男、ノシつけてくれてやるわ」と、幸恵に啖呵をきって帰って来た。
くやしい。もう一発ぶん殴るべきだったか。
「女、名前は?」
黙々と弁当を食べる私に、毛むくじゃらが聞く。
「は? なんであんたに教えないと駄目なのよ」
「これから共に暮らすのであろう?なら、名前くらい知らないと、不便だろうが」
問答無用で居座る気でいるらしい。
ムカつく。
だが、小学生の時に飼っていた、本物の猫のミィちゃんの墓に私は誓った。動物を簡単に捨てる人間にはならないと。
ミィちゃんは、捨て猫だった。箱に押し込まれて、空き地に放り出されていたのを、私が見つけて連れ帰った。必死で介護したのに、ミィちゃんは、弱った体力を回復しきれずに、あっけなく一ヶ月で死んでしまった。そのミィちゃんへの誓いを破る訳にはいかない。
そうでなければ、こんな変な奴、追い出しているか、警察に突き出しているか。
……ミィちゃん、一回だけくじけそう。
「本田薫」
名前ぐらいはいいかと思って、毛むくじゃらに教える。
「そうか、薫。改めて、よろしくな」
「呼び捨てかよ」
まあ、挨拶をする心はあるらしい。
「あんたは?」
「無い」
「無いわけないでしょ。人間の言葉を話すなら、誰かに飼われていたんでしょ?」
人間の言葉を話す変な生物だから、捨てられたのだろうか? 名前をつけられる前に?
「一緒に住んでいた婆さんがいた。婆さんが呼んでいた呼び名はあったが、名前は無かった」
どういうことだろう。
黙って毛むくじゃらの話を聞く。
「源助さんと呼ばれていた」
「源助……また、古臭い名前」
「その婆さんの伴侶、爺さんの名前だからな。婆さんは、体を壊して寝込んでいたのだが、その時に一時的にぼけていてな。それで、儂を死んだ爺さんと間違えて、源助さんとずっと呼んでいた」
そんな悲しい過去が……。
源助という名前は、お爺さんの物であって、自分の物ではないということだろう。
毛むくじゃらも本当は自分の名前が欲しかったのではないだろうか……。
「そのお婆さんは……」
まさか、死んだ?
大切に飼ってくれていたお婆さんが亡くなったから、野良猫になった?
「うむ。五年の間、儂と話している内にみるみる元気を回復して、今は世界一周旅行に出てガンガンに遊び惚けている。一緒に行こうと誘われたのだが、猫が世界一周など、空港検疫がうっとおし過ぎて逃げ出した」
何だ。元気なんだ。
私のしっとりとした同情、返してほしい。
「だから、薫がつけてくれ。名前」
「ええ。面倒くさい。……毛むくじゃら。毛玉……化け猫……猫又……」
思いつく単語をつらつらと並べる。
「却下だ。なんて名前だ。しかも、だいぶ儂に失礼だ」
居候の身で、毛むくじゃらは偉そうだ。
「そこのスマホの待ち受け、ほら、イケメンの写真」
毛むくじゃらが指さしたのは、私のスマホ。愛しの推し様の写真が待ち受けに設定されている。
「ええ? ティモシー・シャラメ様?」
押しも押されぬイケメン俳優。ご尊顔が眩しい。
「そう。ティモシーなんて良いではないか。エレガントな儂の雰囲気にぴったりだ」
「はあ?? おこがましいわ。ずうずうしい」
どうしてこんな猫もどきの物体に推し様の名前をつけないと駄目なのか。
……もどき?
「モドキ。これで決定。いいじゃない」
なんだ。しっくりくる。うん。これでいい。猫もどきのおかしな生物につけるには、ぴったりな名前だ。
「なんてネーミングセンスだ。やれやれ」
モドキが首を横に振りながらため息をつく。
ため息をつきながら。私の秘蔵のタラバガニの缶詰を、キッチンの棚から見つけて勝手に開けて食べだした。
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