0ー6


 昼食用のドーナツと缶コーヒーを持ってデパートの屋上にたどり着いた時にはもう既に雨は降り始めていた。空はどんよりと曇っていて暗く、火山灰混じりの重たい灰色の雨雲を一面に漂わせていて、まるで細かく砕いたシャープペンシルの芯のような、黒い、灰混じりの雨を音もなく降らせ続けていた。

 ぼくは濡れるのを気にすることなく百円玉一枚で動く宇宙船の近くの赤いベンチに坐り、熱い缶コーヒーを開けて飲み、買ってきたばかりのドーナツを袋から出して齧り始めた。けれどはっきり言って、それはどちらもひどい味だった。コーヒーはただ熱いだけで薄めた墨汁に大量の砂糖とミルクを混ぜたような代物だったし、ドーナツはドーナツで、シナモンドーナツのくせに、シナモンの味も匂いもまったくと言っていいほどに感じられはしなかったからだ。

 でもそれはそれで、別にかまいはしなかった。なぜなら缶コーヒーなんていうものはだいたいにおいてそういう味がするものだし、ドーナツの方もシナモンドーナツじゃなくて、ただのドーナツだと思えばなんの問題もなかったし、それにその時のぼくは、特別うまいコーヒーが飲みたいわけでも、シナモンドーナツが食べたいわけでもなかったのだ。どころかむしろ、昼食なんて食べなくたってかまわなかった。そもそもその時のぼくは食欲なんてものが全然なかったし、喉だって少しも渇いてなどいなかったのだから。

 にもかかわらずぼくはその薄めた墨汁のような味のする甘ったるい缶コーヒーを啜り、シナモンの味も匂いもほとんどしないシナモンドーナツを齧り続けた。そうする度に灰雨が口の中に入り込んで、舌や喉を不快にざらつかせた。時にはそれが目の中にまで入り込んで、痛みと共に視界を遮ったりもした。けれどそれでもかまわずにぼくは黙々とコーヒーを飲み続け、ドーナツを齧り続けた。自棄くそになっていたのだ。

 屋上にはぼくの他に、どうやら誰一人いないみたいだった。だけどそれは当たり前と言えば当たり前の話だった。一体誰が好き好んでこんな天気の時に、こんな場所へやって来るっていうのだ? そんなことを考えながら、誰もいない灰雨の午後のデパートの屋上でベンチに坐り、たった一人でコーヒーを飲んでドーナツを齧っていると、世界は既に終わってしまったかのように見えた。それが今からちょうど二年前の話だ。

 その時、ぼくはもうすぐ二十五歳を終えようとしていて、友達の死を知ったばかりだった。それはその時のぼくにとっては二回目の出来事で、そしてその友達は、ぼくの最後の友達だったのだ。


 一体なぜ二十五歳という年齢で友達の死を二度も経験しなければならないのか。いくら考えてみても、その時のぼくにはその理由がまったくわからなかった。そしてもうすぐ二十八歳になろうとしている今もまだまったくわからないままでいる。一体なぜそんなことになってしまったのだ?


 雨は徐々に強さを増し始めていた。それでもぼくはその場所から動こうとはしなかった。正確に言うと、動きたくてももう動くことができなくなっていた。なぜだか突然身体がとてつもなく重いものに感じられ始めたのだ。まるで地球よりも重力の強い星に瞬間移動してしまったようだった。食べかけのドーナツをその場に落とすと同時に、放りだされた操り人形のような格好でぼくはベンチの上に横たわった。その拍子に横に置いてあった飲みかけの缶コーヒーがベンチから落ち、鈍い音を立てながらコンクリートの上を少しだけ転がった。ふと正面の方に目をやると、遥か遠くの雲の下に、まるで黒いクレヨンで塗りつぶしたかのような桜島が幻のように見えて、それは膝を抱えたまま、今にも力尽きてしまいそうな巨人をどこか連想させた。

 辺りからは生の気配というものがまったくと言っていいほどに消え去っていた。太陽も灰色の雲に呑み込まれて姿を消し、鳥や虫たちの姿もどこにも見えなかった。なんだか命あるすべてのものが、どこか別の場所に逃げ去ってしまったかのようだった——ぼくと、膝を抱えてうずくまったまま力尽きかけた、あの巨人だけを街に残して。

 同じ姿勢のままでぼんやりと上空に目をやると、あいかわらず汚れた綿菓子のような分厚い灰色の雲が空一面を覆っていて、そしてそれが、灰混じりの、黒くて冷たい十一月の雨を音もなく降らせ続け、街と、ぼくの着ていた白いシャツとを黒く染め続けていた。


 これはぼくと、ぼくの死んでしまった二人の友達の物語だ。そしてぼくはこの物語、あるいは記憶の断片を————

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