第2話


 キャリサ・マックラインは、王宮内に出仕する官僚たちから、「氷の女」や「氷の無表情」と影で揶揄されていた。


 いわく、もし無表情以外の表情を見たならば、その日には良いことが起きるとか起きないとか。


 いわく、悪魔に表情を代償にして王宮に出仕できる知力を得たとか。


 いわく、そもそも感情が生まれつき備わっていないのだとか。


 いわく、嗜虐趣味ゆえに、虐げるときだけ感情を表に出すのだとか。


 いわく、何かの願いを叶えるために感情を表に出せないのだとか。


 その他にも様々な、キャリサにとって身も蓋もない憶測が飛び交っている。


 キャリサの実家は子爵家で、昔から続く代々官僚を輩出する古い家であり、過去には何人もの女性官僚も輩出している官僚の名門の一族だ。


 だからなのだろう。悲しいことに、キャリサが今の立場にいるのは、キャリサ自身の実力ではなく、名門たる家の力だと思われてしまっている。


 もちろん官僚の名門の一族、かつ王国史の始めの古き世から続く名家の環境ゆえに、幼い頃よりそれなりの教育をキャリサは受けてきた。その点は確かに他者とは違うだろう。


 けれどもキャリサが今の立場にいるのは、キャリサ自身の努力に他ならない。


 そして、あまり官僚という縦社会の中で、女性が占める割合は昔と変わらず、あまり大きくはない。そんな男社会では、あまり女性官僚は長く続かないものだった。


 キャリサはこのような背景の官僚社会で、「いまだに働き続けている」女性官僚であり、「名家の出身」でもあり、かつ氷といわれるくらいの無表情とくれば――妬み嫉みなんて当たり前に向けられるのだから。


 キャリサは、そのような官僚社会に自ら身を投じた。キャリサが家の力に頼らずに生きていくためだ。


 キャリサはとある体質ゆえに、家の力を頼らずに生きていくことを余儀なくされていたのだ――それこそ、お一人様で生きていくことをキャリサに決意させる原因によって。


 キャリサには、他の貴族の令嬢のように素敵な旦那様を得ることは難しいのだから。






☆☆☆☆☆☆☆






「ああ、ほら見ろ。マックライン女史だ」


「本当に無表情だな」


「銀の髪と薄い水色の目がよけいに氷のようではないか」


「ありゃあ嫁の貰い手もないな」




 サリーズ事務官見習いと別れてから、キャリサはいつもの陰口を聞きながらアレス次官補の執務室までやってきていた。


 このような陰口は、キャリサが王宮に出仕してはや十年、その間ずっと耳にしてきた。もうすでに耳にたこだったので、キャリサはいつものように右から左へ聞き流した。


 キャリサはこの十年の間、ずっと感情を意識して表に出さないよう努めてきたので、いまも無表情の仮面は保たれている。


 聞き流し、いつものことと割り切ってはいても、やはりどこか虚しさは胸にしこりのように残っているのだった。


 そんなもやもやする晴れない感情を振り払うように、キャリサは軽く頭を振った。




(落ち着け落ち着けわたしー!)




 不覚にもときめきかけたから落ち着かないんだと、キャリサは無理やり思考を切り替えることにした。どうにか切り替えて落ち着かせないと、アレス次官補の執務室まであと数歩の距離しかないのだし。


 キャリサの思考が徐々に先ほどの事態に切り替わる。反省すべき事態であった。ときめいてしまい、危うく秘密を暴露させてしまうところだった。


 ――この時のキャリサは、とっても冷静さを欠いていた。落ち着くためにと、さらに混乱してしまった事態を思い起こしたのだ。わざわざ油に火を注いでしまったのだ。


 混乱しているときに、さらに慌ててしまう結果となるものを、思い起こしたらどうなるか。




(失敗したあああああっっ!?)




 答えは更なる混沌としたパニックだ。そしてパニックは更なる不測の事態を呼ぶ。




(いっだああああ?!)




 ごぉん、とキャリサは柱で額を打ち付けた。とってもイイ音がした。


 幸い、周囲には誰もいなかった。キャリサはふらふらしながらも、痛みによって思考がクリアになっていくのを感じた。痛みが冷静さを取り戻させたのであった。




(痛い、痛い……)




 キャリサは疼く額に手をあてながらも、先ほどの事態の答えを導き始めていた。


 キャリサは先ほど、不覚にも「ときめいて」しまった。「ときめいた」後にくる感情なんて、決まっている。仕事上、キャリサはそのときめいた相手とよく会う。彼は事務官見習い、キャリサは事務官だから。


 ならば、不覚にもときめくという不測の事態を回避するためには、はたしてどのような行動を起こせばよいのか。




(異動願いを出すべきかしら……? 真剣に考えないといけないわ……)




 キャリサは深呼吸をし、一拍置いてもう一度深呼吸をしてはやる心を落ち着かせた。いつのまにかアレス次官補の執務室の戸の前まで来ていたのだ。




(このままではいつか「ばれる」わ。ばれてしまえば、最悪子爵家の存続にかかわってしまう)




 キャリサはもう一度、深呼吸をした。




(わたしは氷の女、わたしは氷の女)




 キャリサは心の中で呪文のように唱えた。陰口は皮肉にも、キャリサにとっての魔法の呪文になりつつあった。氷の仮面を被るための呪文だ。




(わたしはときめかない)




 氷の無表情を浮かべ、感情を消したキャリサは、ノックをするために右手を扉の前で構えた。


 ――その時だった。


 いきなり扉が勢いよく開かれた。




「っ……!」




 キャリサは激しい痛みに思わず目を瞑った。心なしか、ずきずきと疼く額の辺りから、暖かい何かが伝い落ちてきているような――




「あら」




 額に手をやれば、ぬるっとした暖かい液体に触れた。血だ、とキャリサは呑気に思った。




「うわああ、マックライン事務官?!」




 額から血をだらだら流しているキャリサの前で、戸を開けた人物があたふたしていた。


 その人物を見たキャリサは、会いに行く手間が省かれたとばかりに声をかけたようとして、額に違和感を覚えた。ようやく思ったより出血していることに気づいたのだった。




(どうりで痛みが強いはず)




 鋭い痛みがにじくじくした疼痛へと変われども、キャリサはのんびりと懐からハンカチを取りだし、そっと額に当てた。ハンカチごしに、じわりと血が流れていくのが伝わってくる。


 先ほど柱で打ち付けた部分に戸が当たったのだろう。痛みがさらに倍増しになっているのも無理がないことだった。




(あー……傷跡残るかしら。残ったら前髪作ろうかしら?)




 キャリサはぼんやりとそんなことを考えていた。キャリサには前髪がない。というより、長くなってきた前髪を切るのが面倒で伸ばしっぱなしであり、他の髪と一緒にひとつに束ねているのだ。


 のんびりとしたキャリサは、傷跡ができてしまえば更に婚期が遠ざかるのではと閃いた。




(顔に傷跡があれば、今以上に誰にも興味を持ってもらえないわよね。わたしも傷跡があるから、不意にときめくこともなくなるかしら? ……残っても隠さないでおこうかしら)




 ――やはり前髪は作らない方向でいこう。


 そうだそうしようと決めたキャリサは、ようやく目の前にたつホフマン顔を真っ青にして呆然と立ち尽くす人物に気づいた。




(あら……人事のホフマンじゃない? ちょうどいいわ、異動の相談をしてみようかしら?)




 キャリサはとことん思考がずれていた。戸を開けた人物はキャリサの後輩の人事担当だったのだ。キャリサからしてみれば、願ったり叶ったりだったが、相手はそうでもないことにキャリサは気づかなかった。




「ああ、ホフマン。ちょうど良いところに。人事についてお話が」


「……先輩」




 ホフマンはキャリサの肩に手をおき、青ざめた顔でキャリサに真面目な顔で告げた。




「お話より大切なことがありますでしょう!? 手当て、手当てが先です! 出血は放置してはいけません!」




 こてん、とキャリサは無表情で首をかしげた。




「だめ?」




 女性にしては長身の部類に入るキャリサでも、ホフマンは見上げないと視界に入らないほど長身だった。だから、彼の顔を見ようとすれば自然と上目遣いになる。




「くっ、ダメです! 上目遣いでもダメなのはダメダメです!」




 ホフマンは、キャリサの氷の無表情が効かない稀有な相手だった。キャリサの又従兄弟に当たる彼は、キャリサの抱える裏事情も知っている。だから、ホフマンを前にしたキャリサはくだけすぎていた。ぽややんとしてしまうのである。




「別に減るもんじゃ無し」


「減りますよ減りますから! あなた女性でしょう、女性でしょう?!」


「……、嫁げないのに?」




 キャリサの重い一言に、ホフマンはうっと言葉をつまらせた。




「わたしは嫁げないのよ。貰い手がないの。なら傷のひとつやふたつ、関係ないでしょう」




 キャリサの裏事情を知るホフマンはすぐに言葉を返せなかった。


 そんなホフマンを前に、キャリサはだんだん表情を消していく。又従兄弟だからと、事情を知るものだからとさらけ出していた素を、氷の女らしく無表情に塗り替えていく。




「そこまでいうのなら、あなたがもらってくれるの?」




 無表情の顔とは裏腹に、キャリサの声は自嘲に満ちていた。ホフマンに答えなど最初から求めていない問いに、ホフマンは一瞬悲しそうに顔を歪めたが、すぐに真剣な表情を浮かべた。重大な決意を浮かべた男の顔のホフマンに、キャリサがぐっと息をのんだ。




「マックライン先輩……」




 ホフマンがためらいがちに口を開いた。




「いや、キャリサ。そのこと――」




 扉を塞ぐように立っていたホフマンの背後から聞きなれた美声が、ホフマンの言葉の先を遮った。




「そんなとこに立っている場合ではないだろう、ホフマン君。マックライン君の治療が優勢じゃないかね」




 キャリサからはホフマンで見えないが、ホフマンの向こうにはキャリサを“至急”呼び出したアレス次官補がいるはずだ。


 四十代の齢を感じさせないしなやかな若さ、眼光の鋭さを兼ね備えた切れ者と謳われるアレス次官補は、さあ入って腰かけんかねとふたりを室内へ誘導した。




「まぁ、ちょうどいい。このまま話そうかね?」




 どこか固まったままギクシャクする若者をソファーに座らせ、次官補は手慣れた手つきでキャリサの怪我を治療していく。


 そして、アレス次官補は爆弾を投下した。




「マックライン君。君もそろそろ婚儀もどうかと思ってね。相手にホフマンを推したのだよ」




 ――ナニヲイイダスンデスカ、アナタハ。


 キャリサは思考が固まってしまったのを頭の隅っこで感じた。

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